自然科学に問題があって、ある科学者の言うことに従い、分岐点まで遡って検討してきました。その結果、ヲシテ文献に示される”カミ”だけが新しい科学になり得ることがわかりました。
自然科学の問題点
自然科学にはいくつかの問題があります。
- ”自然”はわかりきったものとして、部分を科学したものの寄せ集め
- 物と事の区別が無い
- 時間は物の量ではなく、事の質である
- 自然科学全体は時間をパラメーターとする循環である
- (時間を光速度に置き換えて、光速度は不変であるとして、この循環を断ち切った)
- だから、一定の成果があった
- しかし、何が何だかわからないままに、福祉の役に立っている
Buddha(タマ)
ヲシテ文献によれば、ヒトは以下です。
- ヒト=タマ+シヰ+ウ(渦:物質)
タマは心の本体です。シヰは生命維持の欲求です。タマシヰに物質がくっついたのがヒトという訳です。
物と事は、必ず”対”になります。そこから言葉が出来ます。物と事に音韻を割り付けて、意味づけしたのが言葉です。言語です。だから、自然界の物と事を音韻にて意味づけできます。ですから、自然界の物と事は、必ず”対”とならねば、言葉で言えません。
ところが、”対”にならない唯一の存在があります。それは自己です。これをヲシテ文献ではタマと言います。自己の存在は、言葉で説明する必要はありません。自己の存在は銘々わかっているからです。自己以外が「自然界の物と事」であるとわかります。つまり、自己の表れが自然だと言うことです。お釈迦様はこれをBuddhaと言いました。
如来の仕組み
如来は字のごとく「~の如し、の如し、の如し・・・・」です。言葉で言える物と事のすべては”対”として、如来の仕組みとして言えます。
- 善は悪の如し、悪は善の如し
- 上は下の如し、下は上の如し
- 右は左の如し、左は右の如し
- 真は偽の如し、偽は真の如し
- ヲはメの如し、メはヲの如し・・・・
要は、言葉が”対”にして言えるのですから、その仕組みを如来と表現した訳です。如来に善悪や地獄も極楽もありません。
神様
上記の通り、神と悪魔は”対”でしかありません。天国と地獄に同じです。言葉の仕組みから、如来の仕組みが出ています。そして、如来の仕組みの内に「神」はあります。善悪や真理に拘った人が「神様」に行き着きます。
二元論
言葉は互いに規定し合って成り立つ繰り返し循環・ネットワークです。ですから、如来も神も言葉の仕組みにおいては、同じ性質を持っていることがわかります。これらの仕組みを二項対立、二元論と言います。二項対立や二元論は、言葉の仕組みから出ているということです。 続きを読む
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