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弧理論(Ark Theory)への入り口

弧理論(Ark Theory)のまえに

 弧理論(Ark Theory)は、当方が考え出した思想ではない。その名称を含めて、ずっと以前から存在する。従って、特定の個人や一部の組織・団体が占有することはできないと考えている。
 弧理論について、ほとんどの方は、当方のサイトに興味を示すことはない。一部の人がほんの少し眺めては、あきれて去る。そして、極く一部の方は、「こういうこともあるかも知れない。」と理解を示される。 しかし、そのようなオープンマインドをお持ちの方でも、当サイトで述べていることをご理解いただけないと感じている。
 ある人は弧理論(旧弧電磁気論)を「奇妙な空想理論」と言われた。 まったく、気付いた当の本人でさえも納得する。 第3者から見たら当然だろう。  しかし、考えてみれば現代科学、とりわけ物理学の世界が「腑に落ちる」ものかといわれれば、私自身、そうとは思えない。 極微の素粒子が宇宙を形作っている。さらに小さなひもが11次元の世界に存在すると言われても、訳が分からない。 究極の神の理論が5つあるとは、どうだろう。 こちらこそ現代の物理学が「奇妙な空想理論」に思えてしまう。 勿論のこと高等な数学を駆使し、超精密なガラス細工のような理論体系であることだろう。 どうも数学ができない当方にとって、理解の範囲を超えている。
 では、当方が感じていることがただの妄想かというと、そうとも言い切れない。 一部には、現代物理学どころか、西洋文明の根幹ともいえる自然科学は間違いだと主張する学者がいる。 このあたりから、弧理論をご理解いただく糸口にしよう。


1.自然科学は間違っている

 
数学者岡潔(1907−1978)は、講演会で「自然科学は間違っている」と述べている。 数学者岡潔思想研究会のサイト、岡潔講演録(4)の資料「自然科学は間違っている(1)」より一部、引用する。

【2】自然科学者の時間空間 より


 自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代わりに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。
 自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描くとき、初めに画用紙があるようなものです。そう思っています。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんです。が、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
 時間というものを表そうと思うと、ひとは何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかっていると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

 時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。
 が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。
  ・・・・引用終了・・・・


 注)赤字は、当方が入れた。
 非常に鋭い指摘だと思う。 箇条書きにすると分かりやすい。

  1. 人は時間の中に住んでいない。の中に住んでいる。
  2. 「時」の属性には、過去・現在・未来がある。
  3. 時の過去のうちには、「時は過ぎ行く」という属性がある。
  4. その一つの属性を取り出して、観念化したものが時間である。


 一方で自然科学者は、時間と空間があると考えている。空間は分かるけれど、時間は分からない。

  1. 時間を表すには運動を使う。
  2. 運動は時間に比例して起こると決めてかかっている。
  3. 時間は分かっていると思っている。


 自然科学者が用いる「時間」は、ある特定の運動を使って決定している。しかし、時間は、「時」の属性の「過去」を観念化したものであって、運動は時間に比例して起こると、勝手に決めている訳で、本当に比例して起きているかどうかを検討したことはない、と指摘している。
 時間は振り子の等時性などを使って決めているけれど、本当に未来を過去の運動(この場合は振り子の運動)を元にして決めた時間を適用して良いかどうか。このことを問題にしていると思われる。 振り子の等時性は、学習したことだけれど、等時性について考えたことはなかった。 この後も岡潔は、自然科学者がいかに無知であるかを指摘している。
 では、岡潔のみが間違いを指摘しているのかというとそうではない。 当の物理学の歴史において、実証的にも、理論的にも一筋縄では行かなかったことがある。


2.相対性理論は誤っている(実験での検証)

 「七つの科学実験ファイル(科学論争の顛末)H・コリンズ著、福岡伸一訳、化学同人1997年において、「相対性理論は絶対か?」として、アルバート・アインシュタインにより出された相対性理論の実証について、長年に渡る実験検証と議論があったことが記されている。
 「地球はエーテルの中を航行しているか?エーテル風の測定」・・・・ 有名なマイケルソン・モーリーによる光が伝搬するための媒質としてのエーテルを測定する実験が1881年、1887年に行われた。その後も、モーリーとDCミラーによる実験が1905年、1924年、1933年と行われた。さらに1963年メーザーを用いられた実験が行われた。
 長期に渡る実験と検証、議論について、同書は「証明実験は一般に思われているほど決定的なものではない。一見単純明快に思える実験も、実際には非常に込み入った問題をはらんでいた。」と述べられている。

 「重力場により光は曲がる。星はずれて見えるか?」・・・・ 英国の天文学者アーサー・エディントンの日食観測の実験。1919年においては「観測データを恣意的に取捨選択した」と、その経緯とともに述べられており、「1922年〜1952年までに渡って、10回の皆既日食の際に観測が続けられたが、決定的なデータはなかった。」とされた。その上で「理論から導き出された予測値と実験による観測値とは、それぞれ独立したものである。・・・・ところが、ここでは理論と実験が互いにもたれあった関係にあるのだ。つまり、理論が実験によって検証されるという流れではなく、理論を追認するためのやらせ実験があったというべきである」
 実験の経緯と議論は、同書に詳しい。


3.相対性理論は誤っている(理論の検討)

では、相対性理論は、理論的には問題がなかったのだろうか? 理論が誤りだとするサイトが複数存在する。

 黒月解析研究所では、特殊相対性理論のことを幽霊変換として、誤りを指摘している。 また、よく引き合いに出される「GPSは相対性理論の正しさを検証する実例になっている」という文句は、実は予測値の取違いがもとで、誤解であると指摘している。
 もっと、直接的に誤りを指摘している杉岡氏のサイトがある。 「相対論物理学者に捧ぐ その4」である。 一部を引用する。


特殊相対性原理・・・・「たがいに等速度運動をしているすべての慣性系において、すべての基本的物理法則は、まったく同じ形で表され、それらの慣性系のなかから特別なものを選び出すことはできない。」
上はじつにたいへんなことを述べています。ガリレオの相対性原理と根本的に違うのは力学に焦点をあてるのではなく、「すべての基本的物理法則は・・」と全物理法則に焦点を当てている点です。こんな奇抜な主張は、相対性原理といえば「ガリレオの相対性原理」しか知らなかった当時の学者にしてみれば、まさに驚天動地の主張だったのです。
 あたり前のことですが、新しい原理が提出されたとき、物理学がそれを原理として採用するからにはまっ先にその正しさを実験的に検証するというしかるべき経緯を経なければならないのはいうまでもありません。小学生でもわかる理屈です。
 ところが不思議なことに、こと特殊相対性原理に関する限り、検証がなされないまますすんでいき、なぜかいつの間にか物理学において犯してはならない聖書のようなものとして君臨するようになっていったのです(物理学の根幹部分のことであることをよく考えてみてください)。


 アインシュタインが上の原理を出した時点(1905年)ではまだ”仮説”の状態でしかなかった。もちろん当時の物理学者も、そのことには気付いていて、こんな重大な原理(仮説ですが)は早急に検証しなければならない!!と警告しています。

 「相対論」(物理学史研究刊行会編、東海大学出版会)には、当時の様子を伝える論文が複数収録されており興味をひきますが、その中で、当時の物理学者A.H.Bucherer(ブーヘラー)は、「この原理を直接実験的に検証することは至上命令的な要求である。」と述べていますが、まったく正しい主張です。また、量子論の誕生に決定的な影響を与えた当時の大御所Plank(プランク)も「・・その承認の問題はこの領域のすべての理論的探求において最重要なものとみなされる価値がある」とこの革命的なの原理に対し「検証を急げ」と主張している。

 アインシュタインが1905年に提唱した段階ではまだ仮説、予想の段階にすぎなかったということです。 そして、ここからが全く不可解なのですがアインシュタインが提唱したこの原理いえ仮説は、実験的検証が一度もなされないまま、特殊相対性原理として(あたかも侵してはならない原理として)、絶対的地位を確保していったのです。
  ・・・・引用終了・・・・




 この部分では、まっ先に検証されねばならない特殊相対性原理が、100年以上放置されてきたと指摘している。
さらに、核心的なのは以下の部分である。




<cを中心に据えてしまった相対性理論>

 アインシュタイン自身があらわした著作に「相対論の意味」というのがあります。その中で、時間に関して解説している箇所があるのですが、アインシュタインの時間というものに対する過ちが明瞭に分かる一節がありますので、今回はそこを取り上げます。
[詳細]
 「相対論の意味」(アインシュタイン著、矢野健太郎 訳、岩波書店)p.30
・・・・・・・・
 相対性理論は、光の伝播法則の上に時間の概念を樹立し、なんらの根拠なしに光の伝播に中心的理論的役割を与えるといって、しばしば非難される。しかしながら事情はつぎの通りである。時間の概念に対して物理的な意義を与えるためには、種々の場所における関係をうち樹てることを可能にするような、ある種の操作が要求される。時間のこのような定義に対して、どんな種類の操作を選ぼうともそれは問題ではない。しかしながら理論にとって都合のよいのは、それに関してわれわれが何か確実なことを知っている操作のみを選ぶことである。マックスウェルとローレンツの研究のおかげで、
このことは、真空中の光の伝播に対してこそ、他の考え得るいかなる現象よりもさらに高度に成り立つのである。
・・・・・・・・
註:この書物の英語版初版はおそらく1940年〜50年あたりではと推測されます。日本語版初版は1958年。

 これを読んで、この文章中の致命的誤りをすぐに指摘できる人はすくないでしょう。たいがいの人は、「うーん、さすがはアインシュタイン!」などと思ってしまうところではないでしょうか。人間にとってもっともわかりづらい”時間”というものに目をつけ、1世紀のもの間、人類を騙しつづけたアインシュタインは、ただならぬ詐欺師であったと言っても過言ではありません。
上文に、アインシュタインの考えた”時間”の意味が明瞭に記されています。
「光の伝播法則の上に時間の概念を樹立し・・」という意味は、簡単にいえば「真空中の光速度cを用いて時間を定義する」という意味です。致命的に誤っているのはここです。
 ”c”とはなんでしょうか?
cとは、光の”速さ”であり、「1秒間に光が真空中を進む距離」として定義されるものです。
つまり、
  c=299863381m/s・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・@
ですね。
昔から”速度”というのは、
  速度=[距離]/[時間]
で表されてきました。 
それを、アインシュタインは、”時間”を速度cを用いて定義したのです。(ここで「はっ」と気づいた人もいるでしょう) おかしいと思いませんか? 時間を光速度cを用いて定義するには、その前に時間というものが分かっていなければならない。
なぜならcとは@の距離/時間で求められるものだからです。
アインシュタイン出現以前の素朴な時間概念で認識されていた光速度cを用いて時間を定義するという決定的論理ミスをやっているのです!

  ・・・・引用終了・・・・



4.問題点は何か?

 数学者岡潔がいう、自然科学の「時間」が問題であるという指摘と、杉岡氏の指摘する相対性理論の「時間」の問題点は奇しくも一致する。

 有名な公式 E=mc^2には光速度cが入っている。
 素粒子の質量はMeV(メガ電子ボルト)あるいはGeV(ギガ電子ボルト)で表されるけれど、E=mc^2を移項すると
 m=E/c^2 であるから、GeVは、正しくはGeV/c^2 である。多くは省略されている。
 上の指摘のとおり、光速度cの次元は、速度(v)=[L][T^(-1)] である。

 結局、やっていることは、
  時間は運動から求め、 運動は時間から求めている訳である。 当方が、現代物理学は循環論である、近似であると表現してきた根本はここにある。

 現代物理学は、数学者岡潔の指摘のとおり高度な数学を駆使していろいろ表現しているけれど、究極的には何も表現していないのである。 「自然科学は孤立系の力学にのみ適用できる」ものなのかも知れない。


5.五感でわかるもの

 何が問題であるかは、何となく分かった。しかし、どうすれば良いのか数学者岡潔も杉岡氏も答えを教えてくれていなかった。 しかしながら岡潔の指摘は、鋭く深い。 岡潔が、現代物理学に突きつける問題がある。   同じく講演録(4)から【3】五感でわかるものを引用する。



 物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
 それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。
 五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。
で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。
 ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。

  ・・・・引用終了・・・・


 岡潔は「五感でわからないものはない」、「すべてわかる」と考えることは、「原始人的無知」だと述べている。 自然科学者にとっての「自然科学」は、宇宙自然をすべて把握できる道具・方法だと考えているけれど、岡潔にとって、その考えは酷い無知であるということである。 自然科学は、自然そのものではなく、宇宙自然の極く簡単な模型であるということである。
 絵を描くとき最初に画用紙があるようなもので、要素を「時間・空間」とする自然科学という模型であると述べている。


             
            図1

 自然科学の思想は、簡単な模型であり宇宙自然の姿と等しいとはいえない。何故なら、宇宙自然の実体から「時間」を決定していないからである。

もう少し具体的に考えてみる。
表1
 量子力学&素粒子の世界                                         相対性理論の世界
 

 上表は、横軸を長さ(単位:m)として、指数表示した。 人を中央にして、右が極大の世界、左が極微の世界である。 赤で色づけした括弧の範囲が、概ね人が感覚器で捉えられる範囲である。
 味覚・臭覚は、化学物質などの原子を感じているだろうし、触覚は物質の表面の滑らかさをある程度捉えるはずである。音波もこの範囲に入っている。 更に視覚は、星空を見上げて天の川銀河の一部を捉えられる。

 さて、顕微鏡も、天体望遠鏡も、あるいは粒子加速器もセンサーで捉えた情報を液晶表示器にて可視光線として見ることになる。 はたして、10のマイナス18乗メートル、あるいは10の27乗メートルの世界からもたらされた情報が我々の住む五感の世界に決定的要因をもたらすだろうか。 当方は、そうは思わない。

 例えば、大型放射光施設「Spring-8」は、化学物質の分析や新たな半導体素子の研究開発に役立つものであるけれど生活を一変させるものではないと考える。、あるいは、核分裂反応や化石燃料は電力供給に役立つけれど、いずれも資源枯渇が叫ばれて久しい。(資源枯渇は本当だろうか?第一ほんとうに化石なのか?)
 ビッグバン理論は、極微と極大の世界を無理矢理に結びつけたような感じがする。 何が何でも自然科学の世界に無限大を入れたくないように思えて仕方がない。


6.時間とお金の奇妙な関係

 当方は、2005年ころから「お金:通貨」について調べだした。
 銀行には自己資本比率の規制があり、8%以上と定められている。調べてみると、銀行が預金者から受け入れた預貯金は、自己資本比率の規制内で再貸出しができる。 するとお金は回り回って、銀行が受け入れた預貯金のおよそ10倍のお金が市中に出回ることになる。
 規制の大元としてBIS規制というのがあるようだけれど、いわゆる金融派生商品が市場に出回り、その規制はないに等しい。つまり、中央銀行が10発行したら、市中に100程度の通貨が出回るはずが、実際には、ほぼ際限なく通貨が出回っていることになる。 「お金:通貨」における利子は負債であった。 誰かがどこかで借金をしなければ利子は生まれない。 莫大な借金の上に通貨システムが成り立っている。 そして、中央銀行が制御できなくなっている。それどころか、ときには民間の会社である中央銀行自ら、混乱を起こしていることもあるようだ。

 この通貨の循環を「信用創造」という。しかし実際には掛け率(Odds)でしかない。 言葉遊びが過ぎる。

 1971年のニクソン・ショック以降は、基軸通貨である米ドルは非兌換通貨であり、石油の決済に使われる故に、信用を得ていた。 つまり、石油本位制である。 しかし、本質的には「お金:通貨」に価値はない。 単なる数学上の概念でしかない。
 上記の文章には、誤りが含まれているかも知れないけれど、そう理解している。

 自然科学が、孤立系の力学しか許さず、我々の生活すべてに「有限」の枠がはめられているにもかかわらず、唯一の例外がある。それが「お金:通貨」である。
 人々は有限を強制する「自然科学」を受け入れているのに、事実上、「無限」である「お金:通貨」を何故、受け入れているのだろうか。

 ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる児童文学作品に「モモ」がある。

                    某サイトより借用

 とある街に現れた「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が盗まれてしまい、皆の心から余裕が消えてしまうという話しである。
 この作品でエンデ自身が世の中に訴えたかったことは、この「時間」を「お金」に変換し、利子が利子を生む現代の経済システムに疑問を抱かせることが目的だったという。

 まさに、本稿の主題である時間とお金が繋がった。
 この世界は、政治、経済、マスコミなど、ほとんどあらゆる事にバイアスがかかっているようだ。 本質的に本当のことは、一度・一回言えばよいけれど、バイアスのかかったことは、いつまでも何度でも、声を大にして言わねばならない。喚き続けねばならない。 「ウソも百万遍言えば本当になる」とナチスドイツの高官が言ったというけれど、やっぱりウソは嘘であって、放置すればやがては本当のことが浸透してしまう。 人々に気付かせないためには、「時間」を与えず考える余裕を与えず、限りなく新たなウソを吐き続けねばならない。 (生活していくためには、お金を儲けねばならない。儲けるには働かねばならない。働くことで時間がなくなる。結果、精神的余裕がなくなる。本来、人々の生活とは時間を自分たちのために使うことである。)

 そのためには、人々に次から次へと新たな情報を飲み込ませなければならない。 何も吟味させずに捨てさせねばならない。止まれば死ぬ。そういう世界の様である。 実際、経済活動は、地球資源を食いつぶす。

 話しを元に戻すと、「お金:通貨」は本質的に価値がないし、「時間」は本質的には定義されていない。
 時は金なり「Time is money.」 の「時」は本稿では、「時間」のことである。 価値のある言葉として受け取られているけれど、まったく意味を成さない。  ゼロ=ゼロ あるいは 無限大=無限大 と述べているに等しいのである。

 こうしてみると、19〜20世紀初頭のころ、巧妙に、しかも意図的に、科学は軌道を外れてきたのではないかと感じる。
 最も大きなウソは、時は金なり「Time is money.」である。 事実上、無限大の権力を与える「お金:通貨」制度の維持こそが最大の目的であろう。 心が受け入れを拒否するほど簡単な仕組みの元、世界は運営されているようだ。数学も含めて言葉遊びはいけない。


7.正解はどこにあるのか? 「弧理論への入り口」

 これまでの議論で、概ね問題である点は分かったけれど、いったい何が正解なのだろうか。 正解を述べているある科学者の言葉をご紹介する。



 君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。 地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎないのだ。

 二つの次元をもつ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面を表わす。次に君がその面を90度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面を取り替えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、全く異なる量のエネルギーを見るだろう。

  ・・・・引用終了・・・・


 ある科学者が述べた数式とは、E=mc^2のことである。「数学的には正しい」が誤った結論に達したというのは、式は等号で結ばれていて数学としては正しいが、実際は違うと言っているのだ。 この式は、一般に「物質はエネルギーに転換するし、エネルギーは物質にもなる」と解釈されいるけれど、ある科学者は間違いだと指摘した。
 本当は、物質とエネルギーは、一つの実体の二つの側面だという。 説明によれば次のとおりである。


              図2

 我々が存在する空間を二次元平面だとする。3次元物理空間を平面と考える。(1)平面が視線に対して直角をなすとき、平面が見える。同時に実体の物質面が見える。これが空間での質量にあたる。当然のこと物体は、質量とともに様々なポテンシャルをもつことになる。 つまり、静止エネルギーが質量として現れることを意味する。
 次に、(2)平面を90度回転させると、平面は一次元の直線となって、観測者からは見えなくなる。つまり質量は見えなくなる。 このとき一次元の直線(空間)と実体との高さ(距離)がエネルギーである。

 しかし、観測者は、平面を回転させて視点を変えたわけではない。観測者から見て一定の物体に含まれているエネルギーの量は、次図のように質量エネルギー軸を中心に、どれくらい回転したかにかかっている。


    図3

 左図について、平面(3次元物理空間)とのなす角度をθとすると、平面に投影された線分の長さが観測者から見て物体の運動になる。同時に角度θをなす物体の質量は観測が困難になる。 実体が平面に直角から90度以内の角度をもつとき平面との高さ、つまりエネルギーの減少分が角度θに応じた線分として平面に現れる。観測者にとってこの線分が運動である。
 右図について。 では実体が平面に直交から90度回転した場合は、実体と平面との高さはゼロとなる。観測者から見て実体のエネルギーは全て平面の長さ(運動)となる。 このとき物体の質量は、平面(3次元物理空間)に平行となり、観測者の視界から一次元となり見えなくなる。 観測者から質量は観測できなくなる

 この間の事情を、19世紀初頭の物理学者たちは、「電子が粒子であると同時に波である」という説明をせざるを得なかったのではないか。 このことについて、ある科学者は、次のように述べている。



 科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。 これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばなくなる。
  ・・・・引用終了・・・・



 ある科学者が述べたことは、量子力学の観点からすると、実に古典的な一顧の価値もないように思える。 しかしながら、クリーンエネルギー研究所 井出治氏が開発した[1]超効率インバーター(デゴイチ)や当方が実験した[2]ファラデーの単極誘導モーターに生じる力の解析の結果が説明できなければ意味がないと感じる。(既に、弧理論の考え方で[1]及び[2]を説明できた。)  なお、実体が平面(3次元物理空間)となす角度θは非常に重要である。


 古典力学においては、運動量Pは、質量をm速度をvとすると、

  P=mv

と表される。 同様に運動エネルギーK(t)は、質量と速さの二乗に比例する。

  K(t)=(1/2)mv^2

である。

 ここまでの議論において、時間(t)を含む数式では、ダメだということに気付いた。 ある科学者が述べた「運動」とは、上式とは異なる意味で用いているだろう事は疑いようがない。

 当方の、これまでの考察によって得た結論は、運動量・運動エネルギーの定義を変える必要がありそうということである。
 弧理論(Ark Theory)の考え方は、次図のとおりである。 自然科学の考え方と比較してほしい。

         図4


 弧理論の考え方(弧の思想)は、前述した岡潔の考え方と同様エネルギーと空間を要素とする画用紙に例えられる。
 画用紙には、要素を、縦軸にエネルギー軸(iE軸)、横軸に我々の存在する3次元物理空間(質量軸あるいはM軸)とする配置となる。 エネルギー軸上(高次元空間)に存在する実体をM軸に投影することで、質量mをもつ物体として現れる。但し、M軸に直交するエネルギーEを直接に計測することは不可能であることと、M軸との位相が関係するのだからE軸は複素数軸とする必要がある。 運動の相対性(後述するが、相対性理論とは無関係)から、一定の観測者は、物体の運動を認めるが、この運動は高次元に存在する実体のM軸とのなす角度θによる。 実体が角度θのときM軸上の物体との距離を r とする。 改めて定義を記すと
 高次元(E軸上)に存在する
  実体のエネルギー iE    実体のM軸となす角度 θ     実体の質量との距離      物体の運動 

 このとき、概ね

  iE=f(P,r,m,θ)

で表せるだろう。
但し、これまでの考察において、は可変する長さであることが分かっているけれど、他の値から求められると考えられるので、最終的には消去される。すると

  iE=f(P,m,θ)

となる。

 角度θ=π/2         観測者に対し静止のとき  iE=r であり iEは投影されて実数であるm となる。

 角度θが  0<θ<π/2 のとき 上式が適用される。

 角度θ=0            のとき  実体はM軸上(図4のXの位置)にあり、
質量mは不定  iEは投影されて となる。このとき、は、閾値である光速度c
に等しくなると考えている。更に実体がM軸上のXの位置に現れたとしても、実体はM軸に平行であることから観測できないと考えられる。

注:質量mが不定であれば、位置を測定することはできない。このことは不確定性原理に近いものがある。

ここで、角度が微小な角度Δθであるときが問題となる。

           図5

 (1)平行な二直線の交点は無限遠に存在すると考える。 E軸上のE2は、M軸に平行である。
 (2)観測者に対し静止した物体は、実体がもつエネルギーをM軸に投影して質量mとなるから、iEは投影されて質量m になる。
 (3)角度θがゼロよりかなり大きくπ/2より小さいときは、上記の通りiE=f(P,m,θ)の関係になる。
 (5)角度θがゼロのときは、物体は質量mが不定となり、実体のもつエネルギーは運動となる。このときの運動は閾値である光速度cに等しい。

 問題は(4)のときである。θが微小な角度Δθである場合とは、物体が光速度cに近い場合の時をいう。このとき、M軸との交点は、非常に遠くになるけれど、閾値である光速度cを超えることはない。

つまり、観測者に対して、物体が静止状態から徐々に加速して(角度θがπ/2から次第に減じて)、光速度cに近づくとき、交点は無限遠(r=∞)の値をとった後に光速度c(実際に使用すべき値は運動であるべきである。)になる


 これはローレンツ変換によく似ている。ローレンツ因子γは以下の式で表される。

      

 物体を何らかの方法で加速し、光速度に近づける場合を考える。 速度vが光速度cに近づくとγは極大に近づく。どんなにエネルギーを物体につぎ込んでも光速度にまで加速することはできない。 上図(4)は数式ではないが、幾何的には極めて似ている。もっといえば、光速度に相当する閾値である運動(θ=0)は、一旦、無限大を経て角度θがπ/2になれば、静止の状態に繋がることが理解できる。

 このように上図(4)を解釈すれば「静止(θ=π/2)と光速度c(θ=0)の間(θ=Δθ)において、ある物理量である運動が無限大をとる」ということである。
 極小世界である素粒子のほとんどは、光速度か光速度に近い運動をしている、その位置と速度を同時に決定することはできない。素粒子の世界は、いうなれば上図(4)の状態に相当するわけである。このように考えると、あることを想起する。
 1900年代初頭、物理学の大きな問題として、摂動論の計算に無限大が現れることがあった。 当方には、計算値が発散する原因も上図に現れているように思える。確信はないけれど。

 上図について考察すると、特に(4)について考えると
  1. ローレンツ変換
  2. 量子力学における困難(計算値の発散)
  3. 不確定性原理
がいずれも、一つの原因から生じているのではないかということに思い至る。
 ある科学者が「電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある」と述べた理由は、弧の思想をもって現代物理学のおかれる状況を眺めると頷けるものがある。

 では、これまで物理学の根幹であった時間は、式 iE=f(P,m,θ) の関係から導けるのだろうか。
例えば、上式を何らかの方法で、時間(t)と等式で結ぶことができたなら
   (t)=f(iE,P,m,θ)
となろう。
ここで、P,m,θは実数であるけれど、エネルギーEには i がついているので時間(t)は虚数ということになってしまう。一方、この方法でこれまでの時間を表記すると
   (t)=f(P,m)
であったはずだ。 運動Pと運動量Pとは異なるものであるけれど、虚数であるエネルギーと位相であるθの媒介を省いて表してきたことになる。これでは真のエネルギー値Eは求められない。


 図5の(4)について、もう少し説明したいけれど、その前に取り扱うエネルギーレベルについて説明する。図5では、M軸に対してエネルギーレベルE2に実体が存在するとしたが、弧理論では次図のようにM軸より下にエネルギーレベルE1を想定している。

                図6

 図6は中性子を含まない原子模型の基本形である。 M軸を夾んで上にE2、下にE1のエネルギーレベルがあり、それぞれのエネルギーレベルに実体があると想定している。 水素原子模型では陽子が単極D、電子が単極Fであり各々の実体は単極Gと単極Cである。 原点から離れているのは、素数との関係による。(後述の予定) 原点には中性子(単極E)が入るが、図6では省略している。
 古典電磁気学では、陽子と電子は電荷が等しく電荷の極性が反対であると学んだけれど、弧理論ではそれぞれに実体があり、エネルギーレベルがE1とE2に分かれていて、実体どうしには斥力が働く。ご覧のようにM軸を夾んでE1とE2の実体は非対称である。 図6では省略するがE軸を夾んで左右も非対称である。
 電磁気学では、陽子と電子について、「極性が反対の等しい電荷を持つ」とのみと学んだが、質量は1800倍も異なるのに、電磁気的な差異が「電荷の極性のみ」であるということに何か腑に落ちないものを感じていた。 電磁気学が”電子の挙動のみを対象にしている”こと。電子の抜けた穴(ホール)を単純にプラスと扱うことに違和感をもっていた。

 弧理論の考え方を知り、いろいろ調べたところ、米国の医師スティーブン・M・グリアとセオドア・C・ローダーによるディスクロージャープロジェクトの日本語サイトビーデン博士のエネルギー先端研究局への返答という2009年6月に元米国陸軍退役中佐であったトム・ベアデンがエネルギー先端研究局長官にあてた書簡を見つけた。
 書簡は込み入った内容なので概略を記すと以下のとおりであった。

 1864年マクスウェルが発表した原論文には電磁気現象について、20個の変数を含む20個の常微分方程式で示されていた。1890年代の電磁気研究者(当時電気工学は存在せず物理学者たち)は、真空に負のエネルギー状態(非対称性方程式群には含まれていた。)が存在し、空間からエネルギーを取り出せる可能性を見出しており、この電気力学の知識を知っていたのは世界で30数人にとどまっていた。 ベクトル表記に表したのはヘビサイドやギブス等であったが、このときも負のエネルギー状態を含む非対称性方程式群のままであったらしい。 1890年頃ニコラ・テスラは”媒質からのフリー電磁気エネルギー”を世界に供給しようとしていた。 空間からエネルギーを取り出せる可能性の発見について、ヘビサイドのこの発見に金融資本家のJ・P・モルガンは、「もしこの事実が学生たちに教えられたら、通常は発散してしまう空間のエネルギー流の一部を補足する方法を見つけられてしまう。そうなると、燃料その他の支配ができなくなる」ことを恐れた。 そこでモルガンは、科学顧問にその可能性を封じるよう命じた。彼の顧問たちはヘビサイド-ローレンツ(Heaviside-Lorentz)方程式群から非対称性を排除し、その結果、性能係数(COP)1.0未満という禁則を自らに課するシステムのみを含むことになった。 こうして、今日まで意図的に無能化された方程式群が電気工学モデルとして教えられてきた。 H・A・ローレンツ( t のつく Lorentz)が最初に対称性をもつマクスウェル方程式を作ったとされるが、最近の歴史研究によれば、本当はルードウィッヒ・ローレンツ(t のつく Lorentz)が最初にマクスウェル方程式群を対称的にリゲージした。つまり、負のエネルギー状態を排除し、空間からエネルギーを取り出す可能性を方程式より排除した。

 歴史を振り返ると、19世紀の研究者たちは、フリーエネルギー装置実現の可能性を非対称性方程式群として見出していただろうし、一部実現していたことが分かる。 自然科学は、文化・思想・宗教・芸術と異なり、自由と自主独立が維持されていると考えているけれど、幻想に過ぎないことが分かる。 我々が大学で学んだ古典電気磁気学は、宇宙自然がもつ電磁気的性質が4分の1以下に(意図的に)削り取られた不完全な模型だったことになる。

 本題の図5(2)と(3)について記す。

            図7


 ある観測者から見て静止した電子(単極F)がある。その実体である単極CはエネルギーレベルE2上に存在し、M軸に直交している。角度をθとする。 M軸とエネルギーレベルE2との距離を r とする。 電子(単極F)が運動するとき、実体である単極Cは、M軸に対して傾斜する。このとき単極Cは、エネルギーレベルE2からM軸に向かって”円弧”を描くが、その半径は7rで、円弧の中心はM軸から下方へ 6r の位置になる。 円弧がM軸上に接する点をC’’とすると、実体である単極CがC’’の位置になり、角度θ=0ということである。 電子(単極F)は運動をもつ。 このときの運動は閾値である光速度cに等しい。同時に質量mは観測者から見て不定もしくはゼロとなる。

          図8


 実体はM軸に投影されることで物性を表すと考える。 E軸上のエネルギーレベルE2にある実体がもつ性質の一つをMとする。実体とM軸との距離を r とする。 ある観測者から見て物体は静止しているので、実体がM軸に投影される角度θはπ/2である。 このとき物体の質量mは

  m=rM sinθ

となり、ある観測者から見る場合は、M軸に現れる質量m=rMであり、rはエネルギーレベルE2に等しいから

 m=rM=(E2)M

となる。 実体の性質Mを面積と考えると、丁度、円筒形の体積に等しいと考えられる。ただし、 r は可変する長さであることに注意。 実体が描く弧は 7r の円弧の一部である。

 次に、ある観測者から見て物体が運動している場合を検討する。下図は、図5の(2)の場合の質量の検討である。

                図9


 実体のもつ性質のうちの一つをMとし、物体が運動するとき、その実体はM軸に傾斜する。このときの角度をθ、実体と物体の距離を rp とすると質量mは

 m=(p)M sinθ

であり、実体のエネルギーレベルはEpとなる。 このときの運動P

 P=(p)cosθ

 原点を中心に半径 rp としてE軸に戻したときのエネルギーレベルを E' とすると、外部から加えたエネルギーは(E'−E2)であるし、その結果として物体は運動を得た。 観測者に対して速度が比較的小さく、角度θがπ/2に近いときは
 古典的な運動量P=mv に等しいが、閾値である光速度cに近づくにつれて誤差は大きくなる。
 常識に反して、運動する物体のエネルギーの真値 Ep は、静止した物体のエネルギー値 E2 より低くなっている。 加えたエネルギーの量(E'−E2)が運動に変化して、古典的には運動量Pは増加していると考えられてきたけれど、弧理論の考え方からいえば、物体が運動を得ることで物体のエネルギー真値は(E2−Ep)だけ減少することになる。 同時に運動する物体がもつ質量mも静止したそれよりも小さな値をもつことになる。

さらに角度θが浅くなる場合を考える。図5の(4)の場合である。

          図10


 加速するべく物体に大きな力を加えたとすると、実体はM軸に傾斜して半径7の円弧を描いて、微小な角度Δθと距離 θをもった運動となる。 このときの物体のエネルギーレベルである真値は Ep となる。 角度が微小であるから、物体の質量mは小さくなる。あるいは観測できなくなる。(3次元空間に平行となり次元を失う) 閾値である交点C''に近づくと、加えたエネルギー(E'−E2)が大きくても得られる運動は頭打ちになる。
 超過して加えられたエネルギー(E'−θ)「太い破線の部分」は、物体の運動にならない。 電磁気や熱のロスを除いて、空間に吸収拡散されているのかも知れない。
 素粒子物理学は、投入したエネルギーの量(E'−E2)と運動より得られた速度vから E=mc^2 を用いて 光速度に近い素粒子の質量mをMeVやGeVとして表しているのではないかと考えている。 弧理論によれば、運動する物体の質量もエネルギーの真値も静止するそれより低くなる。 このような方法による加速では閾値である光速度には到達し得ないことは明かである。
 さらに角度θ=0になると、Ep=0 となり、運動は閾値である交点C''(光速度)に達する。 ある観測者から見て、このときの物体の質量mはゼロとなる。また、交点C''に現れた実体はM軸に平行であるため、物体と同じく観測できない。


8.運動の相対性とエネルギーの相対性

 拙著弧電磁気論でも書いたことであるが、意外と運動とはどういうものか理解されていないようなので、改めて記す。
 ある科学者の言葉を一部引用する。



 「宇宙空間を進行している二個の惑星のそれぞれに、一人ずつ観測者がいるとする。この惑星はいわば光速の半分で動いているとする。しかしどれも等速度で平行に進行している。もし宇宙空間に他の天体が存在しないとすれば、二人の観測者は当然のことながら自分たちの惑星は運動エネルギーをもたないと考えるだろう。なぜなら二人の関係位置が同じエネルギー・レベルにあるからだ。そこで三番目の惑星を置いたとして、これが空間に静止しているとすれば、二人の観測者は自分たちの惑星が相関的には運動エネルギーを持たないのに、第三の惑星に関してはすさまじいエネルギーをもっていると感じるだろう。しかし実際にはどの惑星が動いているかを決定する方法はない。ただ、惑星間に相対的な運動または異なるエネルギーがあるといえるだけである。
  ・・・・引用終了・・・・



                    惑星の相対的運動の説明図11

 改めて、運動の相対性と言われても当たり前過ぎて普段は意識しない。電車の窓から見える隣の電車が動いているのか、こちらが動いているのか分からないという錯覚するときくらいである。 何も今更、19世紀的な見方をする意味はないと考える向きもあるだろうけれど、一つ大事なのは、運動の相対性とともに「エネルギー」も相対的なものであるという指摘である。 宇宙・自然が孤立系と捉えたときにはエネルギーの量は保存するだろうけれど、開放系と考えた場合は、保存しないと同時に、エネルギーも相対的なものであると気付く。 そして、全ての物体の運動が静止したとき、絶対零度が最もエネルギーレベルが低いと誰しも考えるけれど、もしかしたら絶対零度さえも音速のように一つの閾値に過ぎないのかも知れない。

 この運動の相対性が当方が実験した単極誘導モーターに生じる力と何の関係があるかと問いかけられるかも知れないけれど、円運動も相対的な観点から説明する必要がある。

 宇宙空間に観測者がいる惑星1とともに静止した惑星3がある。惑星2は惑星3を周回する楕円軌道にあるとする。もし、宇宙空間に他の天体が存在しないとすると、観測者には惑星2が惑星3を周回しているとは認識できない。 惑星2と惑星3の近日点と遠日点の差の距離を近づいたり離れたりするように見えるはずである。ここで、惑星1と惑星3に静止した惑星4を置いたとする。ここで初めて観測者は、惑星2が惑星3を周回していると認識できる。


                惑星の相対的回転運動の説明図12

 我々が天体を観測するときも、研究室で物体の運動を観察するときも周囲に惑星4に相当する物体が存在するからこそ「運動」が認識できるのである。 それは、巨大な粒子加速器でさえも同じ事情にあるはずであるから、地球の地下に埋設された加速器に観察される粒子も「観測者を伴った」地球の運行による固有のエネルギーレベルにあることになる。


 一説によると、我々は「エネルギーの量の正しい測り方を知らない」といわれる。やはり何かがおかしいようだ。


 さて、物体の運動を表すときに用いる速度vも時間[T]を含んでいるから用いることができないと分かった。それでは、その他の物理量はどうだろうか。
 基本的な物理量であるエネルギーEはSI単位系ではジュール(J)、CGS単位系ではエルグ(erg)であり、スカラー量である。そして、エネルギーの次元は[ML^2T^(-2)]である。 エネルギーの単位にも時間[T]が含まれており、このままでは使えないことが分かる。
 我々が用いてきたエネルギーEと弧理論の考え方で用いるエネルギーの真値iEとは異なる概念であるということになるし、運動量Pもまた運動と異なる量になる。

 地上に生活する我々と運動する物体、例えば飛行機との間に存在する角度θは、≒π/2であろう。 我々は、当然のこと時間[T]が分かっているとの前提があるけれど、角度θがπ/2付近で計測して得た時間[T]を基準にあらゆる物理量を決定しているのだから、得られたエネルギーEの値は地上に居る我々が観測した固有のエネルギー値であることになる。 すると角度θが微小な角度Δθである素粒子に、角度θ=π/2で得た時間[T]を適用することには無理があるのではないか。 理論的にも実証的にも破綻した相対性理論の考え方は捨てて考える必要がある。

 当方が言いたいのは、「物理学で用いられるあらゆる物理量は、観測者の立ち位置に基づく固有のエネルギー値に過ぎない」ということである。 地下に設けられた巨大な粒子加速器により得られた実験結果でも同じである。 極端な話し、他の惑星に設けられた素粒子加速器によって実験したならば、全く異なる素粒子群が観測されるかも知れない。同じ値が得られる保証はない。特殊相対性原理は検証されていない。
 杉岡氏のいう「アインシュタイン出現以前の素朴な時間概念で認識されていた光速度cを用いて時間を定義する」とは、詰まるところ、「地上で計測した時間を光速度に近い素粒子に適用すること」に等しいのではないかと考える。

 ある科学者が述べたように観測者の立ち位置によって、見るエネルギーの量はそれぞれの観測者によって異なることは明かであるから、エネルギーは相対的なものであることになる。
 エネルギーは、孤立系で見れば保存しているし、開放系で見れば保存していない。エネルギーは相対的なものである。
 角度θ≒π/2においては、物理現象である運動は、概ね時間[T]に比例して起きるが角度θが微小であるΔθの領域、例えば極小の素粒子の世界や、銀河系等が光速度に近い速さで遠ざかる「事象の地平面」付近では、孤立系の自然科学が適用できないのではないか。  何故なら角度θ=π/2(観測者に対して静止) と θ=0(光速度c)の間には、ローレンツ変換と計算値の発散と不確定性原理が存在するからではないだろうか。 これは正に数学者岡潔の「五感でわかるもの」の外にある事象といえる。
 素粒子は我々の五感には関係しない存在だということである。もっといえば、我々の五感でわかる物性は、素粒子の寄せ集めで形作られることはないだろうということである。 表1を思い出してほしい。実生活に関係ある化学工業製品等は概ね10^(-15)mより大きい原子により成されている。

 それでは、素粒子は弧理論においてどのように説明されるかと思われることだろう。 弧理論においては、エネルギー軸上にある実体は6種類存在する。(拙著弧電磁気論p27を参照) M軸に微小な角度=Δθで投影されて物質として現れる得る素粒子の数は、理論的には無数になる。 必然的に素粒子は概ね6種類に分類されるはずである。 角度θ=π/2でM軸に直交する安定な基本粒子は、陽子・中性子・電子の3種類だけである。そして、3種類の基本粒子は観測者から見て運動によってエネルギーの真値 iE が変化(減少)する。(図3左や図9)

 運動によって物体の真のエネルギー値が低下するという議論は、これまでの常識に反する。物体を冷却するには、熱を奪う。熱は物体を構成する原子の運動エネルギーであるから冷却するには運動エネルギーを奪うことになる。 ところが弧理論の考え方ではまったく逆である。
 これまでの議論から、どうやらエネルギーは相対的なものであるらしい。すると温度も相対的なものとなる。常識的にいえば物質を構成する原子の運動がなくなれば最も低い温度となるわけで、この温度を絶対零度(0K あるいは摂氏-273.15度)という。 静止より低いエネルギーレベルは存在しないと考える。 ところが、エネルギーが相対的なものであるから温度も相対的なものであるとなれば、絶対零度も音速と同様、ある種の閾値ということになる
 運動によりエネルギーの真値 iE が低下するというのは、常識に反することである。


9.回転運動にある物体がもつエネルギー値 iE と「物体に働く引力と斥力」

 ところで、我々の存在する3次元物理空間を質量軸(M軸)とし、M軸に直交するエネルギー軸を iE軸としたけれど、4次元空間というのは直観できない。 そこで、もう少し分かりやすい表現にする。

            図13


 3つの次元軸は認識できるので、4次元は4つの3次元に分けられる。つまり、(1)XYZ(M軸)と (2)XYE、 (3)YZE、並びに(4)ZXEである。

 運動には3つある。
  1. 等速直線運動
  2. 加速度運動
 2の加速度運動には直線での加速度を伴う場合と回転運動がある。 いま物体の回転運動について考える。

 図13(1)M軸において原点にある物体がX−Y平面内で回転運動にあるとする。 通常はZ軸を中心に回転していると認識する訳であるけれど、図13(2)に示すようにE軸を中心に回転しているともいえる。 ここで、図13の(2)(3)(4)に実体が傾斜している様子を描写しなかったのは、M軸内のZ軸を中心に回転していても、E軸はZ軸にも直交しているから、図13に実体を描けば混乱するからである。 とにかく、(1)M軸内で回転運動にある物体の実体は、M軸に傾斜した状態にあることを理解するしかない。 図3の左図と図13の(1)の両方を思い描くしかない。
 すると、図13(1)の状態にある物体は、図3左図に示すようにエネルギーの真値 iE は低くなる。 観測者から見て、物体のエネルギーの真値 iEを下げるには、見た目遠ざかったり、近づいたりする必要はない。その場で回転すればよいということになる。 ここで、先にご紹介したある科学者は、次のように述べている。



 わずかばかりの原子エネルギーを解放するだけではあきたらず・・・・彼らはエネルギー軸を中心に全質量を回転させることを知った。
  ・・・・引用終了・・・・



 回転運動で想起するのは、「右回りのコマは軽くなる?」である。(続 間違いだらけの物理概念:パリティ編集委員会刊1995年) 東北大学の早坂秀雄氏は、回転するコマの重さを化学天秤で量り、右回転のコマは軽くなったとする実験を行った。
 弧の考え方によれば、エネルギー値 iE が異なることによって、物体に「引力と斥力」が働くと考えられる。アルミホイルと一円玉を使った簡易な実験を動画にした。次の動画である。


              


 素粒子物理学では、重力子が存在するものとして研究されているけれど、弧理論では、重力は物体のエネルギー値 iEの差異により引き起こされる表面張力のようなものではないかと考えられる。つまり、物体がもつエネルギーポテンシャルの副次的な作用ではないだろうか。 勿論のこと原因は、E軸上の実体にある。
 早坂氏のコマの実験の様に単に物体を回転させただけでは重力を制御できないと考えられる。 ではどうするればよいのだろうか。

 ある科学者が述べた「エネルギー軸を中心に全質量を回転させること」とは何か?
 弧理論の考え方によれば、基本粒子は陽子・中性子・電子の3種類であった。そして、原子核の電子が周回する原理(弧電磁気論による中性子を含まない原子模型とファラデーの単極誘導pdf)は、ファラデーの単極誘導の現象に酷似しているから、「ファラデーの単極誘導モーターに生じる力の解析pdf」を行ったのである。実験の詳しい解説はこちら

 ところで、永久磁石は、磁区をもっている。磁区内では磁石を構成する原子の向きが概ね揃っており、全体として永久磁石を構成している。見方を変えると永久磁石は「超巨大な単原子」であるといえる。 

                図14

 電子が原子核の周囲に確率の波として存在するという量子力学からこのような発想は出てこない。 長期に渡る研究の結果、電子はほぼ完全な球形であることが突き止められたという。「10年以上におよぶ研究の末、電子の正確な形が明らかに」 原文はこちら
 電子の真球に対する誤差は、0.000000000000000000000000001cm以下だという。この成果はビッグバンの際の過程を解明する手がかりになるという。
 古典力学では、粒子は大きさのない質点として扱われてきたし、量子力学では波の重なりあるいは波の塊と表されてきた。光の干渉、回折あるいは光電効果等を旨く説明するために量子論が創られたけれど、難解でほぼ意味不明である。 ここは素直に大きさのある球だとして、原子核を周回していると認識すべきと考える。理論と実験がここでも破綻していると感じるのは当方だけだろうか。 19世紀以前の古典的な「五感でわかる」現象が宇宙自然を支配していると考えて何が不都合なのだろうか。
 微小な領域で運動する物体の質量や位置を特定できない理由は前述の通りである。

 当方は、磁石が巨大な単原子であり、ファラデーの単極誘導モーターは、単原子の周囲に電子が周回する様子を想定して、単極誘導モーターの実験を行った。 その結果、ファラデーの単極誘導モーターに生じる力は、次の性質を持つことが分かった。 ファラデーの単極誘導モーターに生じる力は
  1. 磁力線あるいは磁束密度とは関係がない。
  2. 接点あるいは接触する面に生じる。
  3. 電流の経路には関係がない。
  4. 磁石との距離に逆比例する。
  5. 磁石の中央部分、重心付近が最も強い。
  6. 磁石の質量に比例する傾向にある。
  7. 火花放電が起きないときの方が強い。
 実験から分かった性質5について、ファラデーの単極誘導モーターは、磁石の中心にある原子核と周囲にある電子の相互作用だと考えられる。 つまり、ある科学者が述べた「エネルギー軸を中心に全質量を回転させる」という全質量とは陽子・中性子・電子であり、そのうち電子の回転運動は、ファラデーの単極誘導に類似した装置を用いることが近道ではないかと考える。 早坂氏の実験のように物体そのものを回転させる必要はないことになる。 近傍に置く磁石は観測者に対して静止していてもよい。(あるいは回転していても別に不都合はない。)生じる力は接点あるいは接触する面に生じる。

 井出治氏の開発した超効率インバーター内部に生じる正の起電力(第3起電力)の原因は、「距離の7乗に逆比例する力」であることが理論的に分かっている。「距離の7乗に逆比例するという力」は、到達距離が極めて短い。単極誘導モーターの接点に生じる力は、恐らくこの距離の7乗に逆比例する力であろう。
 一般に知られているように、陽子も中性子も静止していない。磁石の中の原子核を構成する陽子と中性子もある確率で一定の方向(磁石の磁極の方向)に揃っているだろうけれど、陽子と中性子を回転させる理論的目途はたっていない。
 また、電子の回転運動は、ファラデーの単極誘導モーターにより実現可能かと思われるけれど、具体的な仕組みは判明していない。 ただ、この仕組みが分かって、実験装置ができたならば実験で予想される効果は次のとおりだろう。
  1. 重量の減少
  2. 温度の低下
 1について、すべての質量(陽子・中性子・電子)について質量・エネルギー軸を中心に回転させることができるならば、観測者側(地球)から斥力を受けて浮上することになると思われる。その場合の物体の温度は絶対零度以下という理解できない状態になるのだろうか?  2について、但し、想定するファラデーの単極誘導モーターによる実験は、いわゆる磁気冷凍とは根本的に異なる現象である。


10.フリーエネルギー装置の理論背景

 フリーエネルギーとは、物理学用語ではあるけれど、空間からエネルギーを無尽蔵に取り出すことも指す。いわゆるオーバーユニティを実現したとされるフリーエネルギー装置は、幾つもの種類があるけれど、概ね静的な装置と機械的なそれがある。 静的な装置にはインバーターやコンバーターがある。動的な装置は、大概は回転運動を伴う。
 インバーター系はLC回路を持つものが多い。これは電気的にパルスを使うこともある。コイルにおいてパルスを使うことで、パルスの頂点に対応した正の起電力が生じるようである。(第3起電力のエネルギー源について参照)

 機械的な装置ではEMAモーターなどがある。EMAモーターにもパルスが使われたようであるが、胴体に巻かれたコイルが謎であった。 今思えばEMAモーターは回転軸方向に磁極が必要だったのかも知れない。磁場や磁束密度は関係ない。ローターの金属材料の原子の向きが揃う必要があったのかも知れない。 火花放電に糸口があるといわれたけれど、井出治氏の開発したエーテルエンジンで報告された「機械的エネルギーを取り出した時にスイッチの(火花放電)音が小さい」という特徴は、当方の単極誘導モーターの実験で観察した「接点で火花放電が起きないときに反発が大きい」という特徴と一致した。問題は火花放電にあるのではなくて、接点あるいは接触する面にあると思われる。


                    某サイトより


 EMAモーターのいろいろな特徴は「未知のエネルギーフィールドp95共振回路とフリーエネルギー、井出治:世論時報社1992年」に詳しい。

 いずれにしろ、フリーエネルギー装置には似通った特徴があるようだけれど、未だフリーエネルギーがいかなる理論で実現されうるのかを示したものを当方は知らない。
 次の動画は、水に働く力のいくつかを使って、フリーエネルギーが可能な仕組みを示した模型である。

                 


 水に働く力は、遠心力や重力などがある。模型では、スターラーにより回転する攪拌子によって容器に渦ができる。渦の表面が我々の存在するM軸(3次元物理空間)である。渦の持つ傾斜は渦の表面にいる我々には力が働くポテンシャルとして認識されるけれど、原因は水面と直交する鉛直方向にある。 模型では渦の表面と重力の働く鉛直方向は直角を成していないけれど、フリーエネルギーを説明する模型に必要な次元が足りないから仕方がない。 とにかく水面に張り付く我々には水面の傾斜角度は認識できないものとする。
 その渦の落差に対してサイホンを設ける。つまり、M軸に直交するエネルギー軸 iEに何らかの方法でアクセスすることで渦の表面に運動を引き起こすことができれば、渦の表面にいる我々には、運動が熱・電気・磁気的エネルギーとして認識できるということになる。

 まだ、具体的な仕組みは分からないけれど、単極誘導に近い装置になりそうである。 空間からエネルギーを取り出す装置を分かりやすく表現すれば「作用・反作用が成り立たない現象」だと考えている。


 次の動画は、食酢を使った単極誘導モーターである。

                 


 ジェット気流は、寒帯及び亜熱帯に存在し、年間を通じて西から東へ吹いており、地球の自転と同方向である。磁北極はS極である。太陽風(電離した粒子:プラズマ)が地球磁場に影響を与えオーロラの原因の一つといわれている。 電離した粒子がもつ電荷はどこかへ放出されるか、反対の電荷と結合して安定な物質(おそらく水素かヘリウム?)になるかは分からないけれど、動画の食酢を大気に代えて考えると、マイナス電極を付けたネオジム磁石が食酢の回転の反作用を受けていることが分かる。 すると、地球の自転を妨げる方向にジェット気流が吹いていることになってしまう。 これは不思議なことだ。 大気の動きは太陽光が地表に届いた結果、受けたエネルギーにより引き起こされる。 それならばジェット気流は自転を妨げる「東から西へ吹いてしかるべき」である。
 そこで、ジェット気流が地球の自転を助けていると仮定するならば、どのような仕組みだろうかと考えた。地球は大気を電極とする単極誘導モーターなのではないか。エネルギー源は太陽風。 接点あるいは接触する面に力が生じる単極誘導モーターで、何らかの方法で反作用を生じずに地球の自転を助ける方向にジェット気流を起こせるのではないかというのが当方の仮説である。 この仕組みが分かれば単極誘導モーターでフリーエネルギー装置が実現するだろう。


 これまでの議論から、原子も惑星もM軸に直交するエネルギー軸 iEから運動を受け取っているのではないかというのが結論めいたものである。 もっといえば、弧理論の考え方によれば、究極の永久機関は宇宙の大規模構造から来ている。 暗黒物質と暗黒エネルギーの物質に対する斥力が主な原因である。 どうもこの仕組みによって、銀河団や銀河系の渦、太陽系の渦のエネルギー源になっているようだ。 拙著弧電磁気論を参照されたい。

 つまり、宇宙の大規模構造が持つ斥力でエネルギーが
 銀河団 → 銀河系 → 太陽系 → 各惑星と衛星 → 物体・物質 → 原子 → 原子核と電子 へと受け継がれているのではないか。
 電子が原子核を周回するに、加速度運動をする電子がエネルギーを失って原子核に落ち込んでしまわない理由は、宇宙の大規模構造からきているのではないかと考えている。周回する電子は何らかの機構により、余剰のエネルギーを空間に放出しているのかも知れない。

 荒唐無稽に思われるだろうけれど、物体・物質には抵抗や摩擦が生じている。やがてはすべての運動が停止するはずである。 ビッグバンに回転運動の初期値を入れるのは理解しがたいことである。点からどうすれば回転が起きるのか。相対性理論は破綻している。
 周囲に何もない空間で渦を作るためには、反作用がゼロ、もしくは「ほとんどゼロ」の運動が存在すると考えるしかないと思う。

 対称性を意識することは大切なこととは思うけれど、より高次の非対称性に見える中に真実があるように思う。
 いずれにしても、現代の物理学は統合失調に陥っていると感じる。


              


 万華鏡を覗くと千変万化、美しい対称的な模様が次から次へと現れるけれど、万華鏡の構造は意外と簡単である。





 筆者の理解不足で「誤り・不確実・不十分な内容」を含んでいますことをご理解ください。
 随時、加筆修正することがあります。











                                                  2014/01/17 更新
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                                                  2013/12/21 更新
                                                  2013/12/19 更新
                                                  2013/12/18 Φ(nsw495kpr8)


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追記 メモ


 E軸との角度θは重要である。
 iE軸とM軸による複素数平面は、ゼータ関数に似ている。

   ゼータ関数  弧理論による空間
 横軸  整数(素数列) 空間(質量mと運動) 
 縦軸  複素数(ゼロ点の並び)  複素数(エネルギー)

 ゼータ関数のゼロ点同士の間隔が原子核のエネルギー準位の間隔と関係があるという。

 素数の謎は、「角度θを介してゼロ点の並びと運動を結んでいること」に気付くことで解けるように思う。
 ヒントは「12進法による素数」にあると、ある科学者はいう。
 確かに、角度や時刻(文字盤)は12の倍数、1日も1年も12分している。星座は12ある。 何故、古来から時刻や角度は12の倍数なのか。 1ダースはいつから何処の誰が使ってきたのか。
 10進法の素数より12進法による素数の数は、大分少ない。もし、宇宙が12進法による数学の方が”馴染んで”いるならば、12進法によるゼータ関数によりゼロ点の間隔を計算すれば、より原子核のエネルギー準位を正確に表すことができるかも知れない。


微小な領域での現象が離散値をとることと素数は関係するのか。
E軸からM軸へ、あるいはM軸からE軸への「電磁気的な積分投影」について、積分の階数(回数)は「整数回」しかあり得ない。 M軸へ積分を伴って投影されたときのM軸(3次元物理空間)での物性(電磁的ポテンシャル等)は、3次元空間での分布になるだろうし、「整数」の影響をもつ分布になると考えられる。だから分布は3次元空間での角度を整数で分割した要素を持つはず。例えば雪の結晶は6角形であるように。
 積分の回数は、3次元空間での物性の拡がりに影響を及ぼし、分布は共振の様を呈するかも知れない。M軸との成す角度θとともに運動質量mとして空間に現れて、例えば

             某サイトより


となる。そのとき3次元空間で取り得る値が離散値であり、3次元物理空間を(E軸M軸の横軸)と考えたときに横軸に12進法の素数の位置に共振点がくるのか。その結果、定在波?・確率密度として認識されるのか。