自然と 物質的自然 の違い 自然科学の問題点

前回記事の補足にて、「自然と 物質的自然 の違い」が何となくわかってきたと記しました。数学者岡潔は、自然科学者にとっての自然とは何かを次のように述べています。「【1】 このままでは人類は滅びる」より引用します。

大体、自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。

自然科学者自らが対象と考えている”自然”をして、自然科学者は「時間・空間」と云いました。岡潔が云うには、「これはかんたんな模型であって、自然そのものではない」とのことです。これを名付けて 物質的自然 といいました。

では、自然とは何かということです。管理人が読んだ範囲では、岡潔自身「自然とは何か」を明確に応えた文章は見当たりませんでした。 これまでの考察によれば、2018年の段階において、自然科学は循環であることがわかっていました。

図1

自然科学は、量ではない角度からつくった時間を用いた循環であるということです。この循環構造は、古代インドの宇宙観と同じだと気付きました。

図2 出典:アメリカの若者「地球って本当に丸いの?」 地球平面説を信じる人が増加中

古代インドでは、重力がどのようなものであるかわからなかったから巨大なヘビが自らを支えている図になったということです。これは自然科学とまったく同じ循環です。これが昨年での認識でした。

 

他方で、以前から言葉は互いに規定しあって成り立っていることに気付いていました。例えば写真1は、言葉で言えば”匙”です。

写真1 人は”これは匙である”と意識する前にわかっている

これを国語辞書で引くと「スプーン」とあります。スプーンを国語辞書で引くと「匙」とあります。そして、言葉の基本単位である音素を組み合わせて匙やスプーンという言葉になっています。この音素に意味はありません。基本単位である音素に意味は無くて、その組み合わせに意味を持たせるということです。人は写真1が何であるかを循環である言葉で意識する前にわかっています。辞書でわかっている訳ではありません。辞書では言葉の堂々巡りに過ぎません。

つまり、人の五感でわかる物や事は、意味のない音素の組み合わせ(である言葉)により「意識を通す」ことができるようになるということです。観測機器の発達により様々な物質を調べられるようになりました。その範囲を次に示します。

表1

 

ここまでは何度も解説してきました。で、還元主義は、「わからないものをわけることによりわかる」とするものです。その目的に最も役に立つとされるのが数学です。ところが、数学を含む言葉は、元を正せば意味のない音素(あるいは記号)に過ぎません。互いに規定しあって成り立っている循環です。


余談です。岡潔は「自然数の1は決してわからない」と云いました。数学における「1」は言葉の音素に対応します。「1は単独では意味は無い」ということです。岡潔は「数は量のかげ」とも云いました。五感でわかる量があって、この量から数を作るというような意味になります。

写真2 金属の板(量)で長さの基準(目盛り)を作り、基準に数をふる だから数は量のかげ


 

観察や観測、あるいは計測して得た物や事のすべては、「意識を通し言葉で言える」状態にした時点で循環に組み込まれている訳です。言い換えると音素(記号)のネットワークです。

ネットワークで検索したら次図が目にとまりました。

図3 出典:仕事に役立つ人脈ネットワークの作り方

図3に示すネットワークの中で孤立した人は居ません。しかし、ネットワークの端に位置する人で、一人にしかつながっていない人が居ます。上記の基本単位の話しに戻しますと、音素に意味はありません。2本以上の「規定し合う」関係がなければそれは意味はありません。つまり、循環に入っていないということです。 この図を考慮すると「 物質的自然 とは何か」がはっきりします。

繰り返します。観察や観測、あるいは計測して得た物や事のすべては、「意識を通し言葉で言える」状態にした時点で循環(ネットワーク)に組み込まれています。この状態(物質的自然)は、何度も解説してきた「外のない内」です。

図4

上記仕組みを考慮するに、物質的自然の外などわかりようがありません。これが岡潔が云った第1の心の範囲です。(自分的にはうまくまとまりました。これまでの考察に大きく外した部分はなさそう。)

 

では、「自然とは何か」です。(正直、難しい。) 言わずもがな、意識を通さず言葉で言えないが「わかる」第2の心にかかる部分を含む何かです。それがどれほどに大きいかはわかりません。人の意識を通し言葉で言える範囲(第1の心)にある循環を回避することはできません

弧理論では、この循環を回避する方便として別の次元軸(E軸という。)に起源を求めています。第1の心と第2の心の仕組みと働きは、E軸上の何かにあると考えます。それ以外に合理的な解決法を思いつきません。上記の関係を図示しました。

図5

物質的自然の範囲をM軸とします。人の肉体が持つ脳や脳を模して造ったAI(人工知能)には「処理」する仕組みと働きはありますが、岡潔が指摘した第1の心が持つ特性はありません。第1の心が持つ特性について語った部分を「【1】 2つの心」より引用します。

人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心はわたくしというものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

岡潔は第1の心の場所を前頭葉と云いました。管理人の意見は異なります。ここ何年かで人工知能の研究開発は進み、処理能力は格段にあがりました。しかし、人工知能は脳を模したものです。

図6 神経細胞(ブラックボックス)→ニューロン(ブラックボックス) 「わけることによりわかる」でAIは実現できる

人工知能には、岡潔が指摘したような「笑いカワセミのようにうるさい」機能はありません。人工知能には「私わたくしというもの」が入っていないと考えます。脳(ブラックボックス)というハードをコンピューターに実装しても中で働くソフトに人が持つ”欲”という能動性はでてきません。ソフト自体言語であり循環です。循環そのものには「笑いカワセミ」のような能動性は備わっていないからです。

第1の心も第2の心も脳の部分に帰納することはできないと考えます。あり得るのはE軸です。それを反映したのが図5です。 循環としてわかる物質的自然の内に、処理機能としての脳もコンピュータも実現できますが、それは第1の心の一部に過ぎません。「笑いカワセミ」のように欲し、判断できるのはE軸にある第1の心です。

この有り様ようはヲシテ研究者である池田満氏によるタマ+シヰの解説に等しいです。第2の心をタマ第1の心をシヰとして観てください。

動画1 2:30~ 以下に書き下します。

行き来の道という。タマとシヰがくっついている。タマは宇宙の源から来る。シヰというのは「欲しい欲しい」という生命欲求。「強いる」のシヰ。タマは心の主体。シヰは生命維持の欲求。それが結びついてタマシヰになる。タマシヰができたところに地球上の物質が集まって人体になる。人の生命が尽きると物質が離れて行って、タマシヰは分解し、タマは大宇宙の中心に戻っていく。「欲しい欲しい」のシヰは地球上に残る。それが生まれ変わりのこと。そうして、人は何回も生まれ変わってくる。

 

こうしてみると自然科学が扱っている(と勝手に思っている)自然は、極めて狭義の自然であることがわかります。何より量ではない時間を用いた自然科学は間違っていますし、人の心の仕組みと働きへの理解がすっぽり抜けています。 本記事にて、「外のない内」の意味がわかりました。物質的自然は映像であって、「外のない内:循環構造」がスクリーンの役目を果たしていることがわかります。

図7

 

Φ について

2010年より研究しています。
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