ある科学者の言う 平和 のための「理解」とは何か

ある科学者は3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)について述べています。これまでの考察により、精神科学と弧理論による社会科学はわかっています。ある学者の言った3つの科学を管理人により解釈すると以下になります。

  • 精神科学 ・・・・2つの心の出処と仕組みと働きについての科学
  • 弧理論による社会科学 ・・・・2つの心の乖離を避けることによって社会に安定をもたらす科学
  • 物質科学 ・・・・2つの心から如何にして自然あるいは宇宙ができているかを探求する科学

上の2つはわかっているのですが、ある科学者によれば、 平和 を叫ぶ人はいるが、解決の方法を提示しないとも述べています。そして、地球に 平和 をもたらすには理解が必要だと説きます。 平和 と理解についての部分を(長いですが)引用します。

私たちが集めた証拠のすべてによれば、一般的な地球市民は、ある周期のあいだ、平和のための用意をしていたことを示しています。愚鈍だと思われるような人が彼らの指導者になっています。政治力または経済力の貧困さが人々を混乱させ、誤った方向に導いているように思えます。彼ら指導者は、いつも自分たちのしている事について、うまく論理のかなった誇張した弁解を行なっています。

数百世代の間、地球人は”平和・平和”と叫んできましたが平和はありませんでした。彼らの最も知的で教育を受けた男女の多くは、平和のための研究に自分たちの一生をささげてきました。そのことは、全く馬鹿らしいと思われるとしても、数百万の人々が、周期的に起こる戦争において、”すべての戦争を終わらせるために”戦って死んでいきました。彼らはどんな直接的な試みによっても平和は決して達成されはしないという単純な事実をまだ理解できていないようです。たとえ、どこを探せばいいかをだれかが知っているとしても、掘ってゆけば得られるような金でもなく、まだすぐ手に入る宝物でもありえません。『平和は単に、人と人、人種と人種、国と国、それに全ての人々の間の完全な理解と、神として地球人に知られている、あまねく広がる力と英知の副産物として自動的に得られるものです。』そのような理解が存在しているときには、平和を探すとか平和のために働く必要はありません。平和は自動的に存在します。しかし、これが理解されるまでは、どんな努力も成功はなしえません。
完全な理解は依然として地球人の達しているレベルを超えている一方、理解いのいくつかの位相は、私たちの達してるレベルをも依然として超えていますので、人が平和を見つけることができるということは、それが理解できるレベルに達しているときだけのことなのです。
一般的理解が人種または人種のグループによって達成される前に、納得されねばならないある特殊な段階があります。物理科学の分野において地球の進んだ人種は、この段階を数世代前に踏み出しました。それが彼らの技術が急速に進んだ理由です。

しかし社会科学の分野では同じ歩みがなされませんでした。重要なものと考えられることさえありませんでした。その結果、私が前に述べたように、彼らはどんな社会科学も持たず、後に続く人々のあいだに惑いと疑惑の念を起こさせるような違った方向に導きがちである指導者たちの信念と態度に頼った本質的な有意義な進歩さえできなかった社会技術だけしか持っていません。

年々、国家の政治的、社会的な問題を処理したり、論争を解決したりする能力を持った国際機構を作る努力がなされました。しかしまだこれらの努力で本当に成功したものはなく、政治的な緊張をいくらかゆるめることがときどき達成されただけでした。

個々の政府はどれ一つとしてその機構に自分たちの権威者や最高の地位にある人を代表として送る気は全くなく、したがって、そのような機構には彼らの結論を履行させる本当の力は何もなく、事実、単なる諮問グループであり、その宣言は、それを命じられた人々に無視される可能性があり、また常に無視されているのです」

下線は管理人による。意味がとりにくいので箇条書きします。

  • 愚鈍だと思われるような人が彼ら(地球)の指導者になっている。
  • どんな直接的な試みによっても平和は決して達成されはしない。
  • 人類すべての人々が(あまねく広がる力と英知)について完全に理解すれば、平和は自動的に存在する
  • 物理科学は進歩したが、どんな社会科学も持たなかった。
  • 人が平和を見つけることができるということは、それが理解できるレベルに達しているときだけ
  • 個々の政府はどれ一つとしてその機構に自分たちの権威者や最高の地位にある人を代表として送る気は全くなかった。

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弧理論による 社会科学 の目的

弧理論は3つの科学からなります。

  1. 精神科学
  2. 弧理論による 社会科学
  3. 物質科学

3つの科学をヲシテ文献にあるミクサタカラに例えて、タマ、カガミ、ツルギと呼んでいます。また、3つの科学は互いにラップしています。既に2つ、精神科学と弧理論による 社会科学 の根幹はわかっています。タマとカガミを手に入れたというところです。2~3年前から早く物質科学の研究に行きたくて焦っていましたけれども無理でした。

そして、2021年より仏教について調べてきました。その結果、世界にある多数の宗教は一つに帰納するだろうとの結論に達しました。

世の宗教を始めた人たちは皆、何かをわかって創始したのでしょうけれども、それが何かは決してわかりません。何とか言葉で言い表そうとしたのでしょうけれども、無理です。言葉は形式ですから、言葉(言語)の数以上に宗教ができるのは必然ではありました。しかしながら、自然がどういうふうにできているかが詳しくできれば、「言葉で言い表せない何か」について、少しは理解できるはずだと感じます。

わかりにくいですけれど、弧理論は特定の主義主張ではありません絵画と画材に例えれば、弧理論は画材に相当します。画材創造の仕組みがあれば、何か素晴らしい世界ができるはずと考えます。

管理人が経験した創造について、その仕組みは岡潔が書いた内容と同じです。

映画「ビューティフルマインド」は面白かったです。数学者ジョン・ナッシュが統合失調を抱えて研究を続けるドラマです。たぶん彼は、第1の心の肥大に第2の心が耐えられなかったのでしょう。

話がそれました。

早く物質科学:ツルギの研究へと進みたいと考えながら2021年から仏教について考察した結果を振り返りますと、仏教の話、あるいは世界の宗教の話は弧理論による社会科学(カガミ)の話であると気づきました。 続きを読む

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事象の地平線  弧理論による解釈

事象の地平線 について検索するとトップに天文学辞典での説明が出てきます。

時間方向に無限の未来まで行っても見えない時空の閉じた領域がある場合、その境界面を事象の地平線または事象の地平面という。イベントホライズンという英語名がそのまま用いられることも多い。
事象の地平線は未来方向に終点をもたない光の世界線でつくられる。事象の地平線が閉じた集合である場合,その内部はブラックホールとなり, 事象の地平線はその表面となる。中心から事象の地平線までの距離がシュバルツシルト半径である。
しかしこの定義からわかるように事象の地平線はブラックホール時空だけにあるものではない。たとえば時間的に有限な宇宙にも存在する。このとき一つ一つの時間的世界線に対して事象の地平線が存在する。また重力がなく平坦なミンコフスキー空間でも、一様な加速度運動をしている観測者に対して、3次元的速度が漸近的に光速度となるため事象の地平面が現れる。

wikiには事象の地平面として解説があります。

事象の地平面(じしょうのちへいめん、(英: event horizon)は、物理学・相対性理論の概念で、情報伝達の境界面である。シュバルツシルト面や事象の地平線(じしょうのちへいせん)ということもある。

情報は光や電磁波などにより伝達され、その最大速度は光速であるが、光などでも到達できなくなる領域(距離)が存在し、ここより先の情報を我々は知ることができない。この境界を指し「事象の地平面」と呼ぶ。

地平線、地平面のいずれも相対性理論の概念とのことです。これまで考察してきたように相対性理論は誤りです。

人がわかるのはです。角度から作った時間は”事”です。角度は物の量ではなくて事の質です。ですから、時間は10進数による12の倍数です。時間を光速度に置き換えて物差しにして時間空間を定義したのが相対性理論です。相対論物理学者に捧ぐ その4 でも、時間は物体の運動(あるいは運動に基づく角度)から作りました。理論の全体は循環です。

図1 運動→時間→光速度→時間空間→物質の運動→・・・・

引用の「時間方向に無限の未来まで行っても見えない時空の閉じた領域」がわかりにくいです。時間方向とは何を言いたいのでしょうか。【5】情の特色より。

時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

管理人が引っかかっているのは「事象」です。弧理論では、事の定義は運動より来ています。弧理論による時間の定義です。 続きを読む

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自然あるいは 宇宙 を理解するに最も大きな制約は「自身の 心 」にある

岡潔は、”人に 心 が2つある”というところから始めねば仕方ないと述べました。【1】2つの心

2021年から仏陀や如来について調べていて感じることは、偉人たちの遺した言葉はいずれも同じことを異なる言語で伝えているということでした。前回の記事で書いたように多数の言語があり、言語の数以上に宗教がある理由は、言葉の成り立ちにあることが原因でした。皆が何を考えているかはバラバラで、偉人たちはそれぞれの言葉で表現したにもかかわらず、伝えたかったことは皆同じなのだとわかってきました。

ところが岡潔でさえ「 心 の本体は”情”にある」と決め打ちしてしまいました。これは間違いです。在ることは確かながら、それが何かは決してわかりません

論理の帰結として「決してわからない」のです

それを言葉で言い表すと様々に表現できるのであって、「情だ!」と決めつけるのは間違いです。なかなかに難しいです。

他の資料では、 心 の本体を「タマ、Buddha、仏、覚、soul mind」などとしています。他にもあるのは当然です。何故なら言葉互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しだからです。だから言葉が形式だと言えるのです。

因みに、ヲシテ文献で心の本体をタマと呼びます。そして、随心としてナサケエダアワレエダがあり、2つの随心をまとめてミヤビと呼びます。これは時の時制を意味します。

  • ナサケエダ 時の現在がわかる(静止画がわかる):岡潔のに相当:何となくその趣がわかる
  • アワレエダ 時の過去がわかる(動画がわかる):本居宣長のもののあわれに相当:わけることによりわかる

2つ合わせてミヤビです。図示します。

図1 ヒトの心に備わっているナサケエダとアワレエダによって、ヒトは(運動)がわかる

当たり前ながら、(動きがわかる)ミヤビには記憶が必要です。これでヒトに社会性が生まれます。ホツマ辞典―漢字以前の世界へ 池田満著にある「ミヤビ」の項よりの考察です。

言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークです。その結果、言葉が”外のない内”だとわかります。インターネットの模式図を見れば誰でもわかります。

図2 インターネットの網目:すべてを覆っているが、外へは決して出てない

岡潔の言った「すべてを覆っているが、外へは決して出てない。」の意味です。2つの心の内、第1の心。即ち、意識を通し言葉で言える第1の心の制約がこれです。ですから、自然や 宇宙 を観察、読み解くという行為そのものには 心 の制約があるとわかっていなければ、決して先へ進むことはできません。

ヒトに心が2つあると十分に納得・会得してからしか科学はできません。現在の自然科学ではどう考えても無理です。

 

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なぜ、「言語の数」と「 宗教の数 」はこれほどに多いのか

ネットで調べますと世界の国の数(国連加盟国数)は196か国で、世界の言語の数6900くらいのようです。また、世界の 宗教の数 確かなことは不明ですけれども、日本国内だけで181、810(宗教年鑑平成27年度版)もあるようです。

図1 出展:宗教の分布と信者の人数が一目で分かる地図

図2 出展:宗教とは(Religion)

 

これまでの考察をもとに世界に言語と 宗教の数 が多い理由をあげます。ただし、人に心が2つあることをわかっておられない方にご理解いただきにくい内容です。

  1. 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク、かつ外のない内である。
  2. 人のに限界がある。(岡潔 ”情・知・意”の順に働く)
  3. 岡潔 「すべてを覆っているが、外へは決して出てない。」
  4. 言葉の持つ特性から、人は言葉でわかっているのではない。
  5. 自己という存在を否定する者はいない。
  6. 自己の存在について、在るのは確かだが、それが何かは決してわからない

世界に言語が多数あるのは、1.によります。人の知識と意識は、自然を思考するにすべてを覆っていますが、「それより外へは決して出ていません」何故なら知識と意識は外のない内だからです。つまり、人は言葉を使いますが、人は物や事を言葉でわかっているのではないということです。サイト内を「匙とスプーン」で検索ください。

ところで、貴方はあなた自身の存在を認めているはずです。自己の存在を否定する人はいないでしょう。「わかる」というのには、2つあります。岡潔の言う2つの心です。岡潔は第1の心、第2の心と言いました。

  1. 第1の心。理解、物の理ことわり。私わたくしというもの入れなければ、決して働かない心。わけることによりわかる。還元主義。わかり方は、意識を通し言葉で言える。
  2. 第2の心。情的にわかる。何となくその趣おもむきわかるわかり方は、意識を通さず言葉で言えない。

第2の心がなければ、一切は存在しません。これが自身の存在です。この存在(岡潔の言う”情”)がなければ、一切は存在しません。ですから、在るのは確かですが、それが何かは決してわかりません。その起源がどういったもので、どこから来たのかについて、岡潔は【8】大宇宙の本体は情であるし、【10】大宇宙の中核は真情だとも言っています。

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物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し( 循環 )である

これまでに考察した過程と結果を箇条書きに示します。

  1. 物質はエネルギーに転換するし逆にもなるというが、本当は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  2. 物質と運動は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  3. 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。(事=運動
  4. ヒトの肉体に備わった器官でわかるのはである。
  5. ヒトが聞き分けられる音の最小単位を音素という。
  6. 音素には母音と子音がある。
  7. 音素をヲシテ文献ではネコヱという。
  8. ヲシテ文献の「ヰクラ ムワタネコエワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ」は大和言葉の起源である。48音韻:アワウタは大和言葉の起源。
  9. ヰクラとは、ヒトの肉体に備わった器官でわかる物と事にかかる5つの記憶(つまり過去の出来):岡潔の第1の心に相当する。クラは蓄える働きを意味する。
  10. ムワタとは、ヒトの肉体に備わった器官でわかる物にかかる趣おもむき5種(視る・聴く・味わう・臭う・触る)と「わかる」の計6種のわかる。(つまり時の現在):岡潔の第2の心に相当する。注
  11. 5つのと10のにかかる「わかる」をそれぞれ母音と子音に振り分けたのがヨソヤコヱ(48音韻)である。
  12. ヨソヤコヱが日本語の起源である。
  13. 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークである。(外のない内=岡潔の言った”すべてを覆っているが、それより外へは決して出てない”)
  14. 物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し( 循環 )

かなり、複雑な過程を経てますが、間を端折ると以下です。

3.の「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」と13.の「言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク(外のない内)」は、11.のヨソヤコヱにより結ばれます。だから、14.を得ます。

つまりは、「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」と「物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し(循環)」は同じ仕組みを言い換えたに過ぎないことがわかります。日本語の起源であるヨソヤコヱは(心の仕組みと働き)を忠実に音素(母音と子音)に置き換えたのです。日本語以外の言葉との決定的違いです。 続きを読む

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なぜ 運動 は相対的なのか?

運動 の相対性。研究を始めたころからの疑問です。考えるようになったきっかけは、ある科学者の次の言葉です。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

二つの次元を持つ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面をあらわす。次に君がその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見るだろう。

宇宙空間を進行している二個の惑星のそれぞれに一人ずつ観測者がいると仮定しよう。この惑星はいわば光速の半分の速度で動いているとする。しかしどれも等速度で平行に進行しているのだ。もし宇宙空間に他の天体が存在しないとすれば、二人の観測者は当然のことながら自分たちの惑星は 運動 エネルギーを持たないと考えるだろう。なぜなら二人の関係位置が同じエネルギー・レベルにあるからだ。そこで三番目の惑星を置いたとして、これが空間に静止しているとすれば、二人の観測者は自分たちの惑星が相関的には運動エネルギーを持たないのに、第三の惑星に関してはすさまじいエネルギーを持っていると感じるだろう。しかし実際にはどの惑星が動いているかを決定する方法はない。ただ惑星間に相対的な運動または異なるエネルギーがあると言えるだけだ。

「別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見る」として、3つの惑星の運動について説明してます。その結果、「惑星間に相対的な 運動 または異なるエネルギーがある」との結論を述べています。注

この運動の相対性は誰もが認める所なのですが、自然のあらゆる現象を見るにつけ、「エネルギー保存の法則」に至るというところに納得できないで来ました。勿論、閉じた環境(孤立系)での総量は保存することに異議はありません。空間全体?で本当に保存しているのかがよくわからないのです。知られているように保存の法則は、一連の実験や観測事実のみに基づいた経験則です。例外があってもよいと考えてきました。ある科学者が言うように別の観測者から見ると「すさまじいエネルギーを持っている」のは誰もが認める所です。

運動の相対性についての解説を探してみました。北大のHPにある第8章 光と相対性理論より引用します。

人間は歩いたりすれば簡単に位置を変えられます。一方、時間に関しては別で、ある時間からある時間まで行くといったことはできません。たとえば、ある時間ごとの位置というのはありますが、時間は位置と別のものということが常識的な考え方です。

- 略 -

重力が働いていない状況をはっきりさせるためにまず、宇宙に出てみます。もちろん、実際には行けないので想像してみましょう。宇宙遊泳に友達と二人で出かけたとします。
友達を押してみると押し返されて自分も友達から離れていくでしょう。こちらから見ると友達が離れていき、友達からみるとこちらが離れていきもう2度と会えないなんていえば悲しい話となりますね。ともかくどちらが静止しているといった言い方はできません。そのため、運動というのも、誰かを基準にしてそこからのずれを問題にしているだけです。この意味ですべての運動が相対的で、絶対的に優位な人はいません。また、これはある程度実験で確かめられた仮説として、宇宙には中心がないと言えます。これはすべての人や物に対する平等の考えかたです。これを相対性と言います。

時間と位置は別のものだとの考えは当然です。位置と位置の隔たり(距離)は量ですが、角度から作る時間は量ではなく”事の質”だからです。上記の引用でも運動の相対性を説明する際の例として重力が働いていない宇宙空間に出た場合を説明しています。 続きを読む

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岡潔「時間を知ろうとするといつも 運動 を使う」 弧理論による運動P_に同じ

弧理論では運動という表現を使います。この表現について、あまり詳しくしていませんでしたので、ここに記します。

物理学では運動量のことをアルファベットのPで表します。ここで、 運動 Pと表現すると運動量と混同する誤解を招きます。 運動量は次元で言うと[MLT-1]です。しかし時間[T]は物の量ではなく、事の質でした。つまり、自然科学には物の量事の質の区別がないため、最終的に何もわからないことになると予想されます。(自然科学は間違いです。) そこで、時間の観念を含まない 運動 を表すに、運動量と区別するためPの記号にアンダーバーを付けることで、運動として運動量Pと区別しています。純粋に”物の動き”と理解してください。

ところで、岡潔は【2】自然科学者の時間空間において次のように述べています。

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。 運動 は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

下線は管理人による。岡潔の「人は何時も運動を使います。」の運動、これが上記の運動です。

解説です。

弧理論では運動を「事」と呼んでいます。人が肉体に備わった器官でわかるのはです。図で示すと次です。 続きを読む

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物と事の間は 素数 でつながっている

普段の睡眠時間はおおよそ7時間ほどです。目覚めてから起床までの間に、これまでの考察を振り返る(復習)ことが多いです。早朝、何となく目覚めて、ぼんやりしていた時、不意に次の言葉が浮かんてきました。

  • 物と事の間は 素数 でつながっている。

弧理論の前提は、「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。」というものでした。 別の次元軸(E軸という)が存在し、我々はE軸上にある何か実体という)が投影されることによって現れる映像M軸という)だというものです。言い換えると、自然はE軸上の実体が投影により作り出す映像だということです。

人が肉体に備わった器官でわかるのはです。弧理論では”事”を運動と呼んでいます。E-M軸を二次元平面として描くと次になります。

図1

投影角が変化することにより、物と事として現れます。あるいは次にように描けます。

図2

投影角の変化により、M軸に物と事(運動)が現れる仕組みです。

その物と事の間は 素数 でつながっているというのです。勿論、この場合の素数は12進数によります。

  • 物と事の間は12進数による素数でつながっている

現在のところ、この言葉が正しいかどうかわかりません。

 

発端は、ある科学者の言葉です。2か所ありますので続けて引用します。 続きを読む

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創造 論文と紙の違い

ここに岡潔の自筆原稿があります。数学に於ける主観的内容と客観的形式とについて(草案)の一部です。

gif1 出展:奈良女子大学岡潔文庫

用紙のサイズはB5なのかA4であったのかはわかりませんけれど、用紙に万年筆のインクで書かれた原稿のようです。

あるのは、用紙+微量のインクです。これに何の価値があるのでしょうか?ただの”用紙+インク”と論文との間には、何の違いがあるのでしょう。ずっと昔からの管理人の疑問です。

今もキーボードを打っています。液晶画面のドットに一定のパターン(文字)を並べているに過ぎない作業を行っています。PCには画面の維持に電力が必要ですけども、しかるべき操作により電磁気的な記録として保存できます。HD内には2010年に研究を始めてからの思索や実験、あるいは原稿などの資料が入っています。ただの箱であるPCと研究考察の内容との間に何の関係があるのか今もよくわかっていません。

情報とは何なのでしょうか? 当サイトでの研究を弧理論(Ark Theory)と名付けています。以下は弧理論の前提です。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 事を運動と呼ぶ。

運動の一つに情報(記憶)があります。ただの用紙と価値のある論文との間には決定的な違いがあります。その違いを岡潔は「 創造 」にあるとしました。

フランスの数学者アンリー・ポアンカレーの経験したような発見の過程を細かに自己分析している人は多くは無いようです。以下は、管理人による「 創造 とは何か。 創造 の過程」についての考察の様子がわかる過去記事です。

ヲシテ文献や岡潔や記紀あるいは仏教にある他力などの示すところ( 創造 )をまとめたのが次図です。

図1

どうも、Buddhaの意味として「(悟り)目覚めた人」とありますけれども、単に「真理、本質、実相を悟った人」というのは違うと感じます。これでは、何を真理とし、本質とは何か、実相とは何か、悟りとは何かがわかりません。 続きを読む

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