弧理論 研究会 参加者募集 是非ご参加ください!

通算で、5回目となります「 弧理論 研究会」を下記の通り開催します。ご興味のある方で参加を希望の方は下記宛てご連絡ください。

日時、開催場所は下記の通りです。

日時 令和3年(2021年)8月28日(土) 13時00分~17時
場所 滋賀県立文化産業交流会館
〒521-0016 米原市下多良二丁目137 TEL 0749-52-5111
第3会議室にて
催物名  弧理論 研究会
アクセス  JR米原駅 西口徒歩10分くらい。


研究テーマ 2010年に研究を始めたころに考えていたことをまとめようと思います。

登山に例えると、頂上は見えていますが登山道がない状態でした。そこから頂上付近に近い「(空間の原因である)宇宙の中心が2つある」ことや「岡潔の2つの心」とヲシテ文献に示される「タマとシヰ」が同じであることなど、あるいは人類の危機が「2つの心の乖離(第1の心の抽象化)」から来ているということがわかってきました。

また、物質科学の観点で捉えると、G・アダムスキーが遺したネガフィルムと足跡から弧理論の着想を得て、井出治氏による第3起電力の説明から発散トーラスの発見へと続き、発散トーラスを組み合わせてできる楕円磁場による重力理論へと続きました。

今回は、研究の発端となった「ネガフィルムにあった紡錘図形に電磁気現象が示されているらしい」という着想を得て、足跡に示される永久宇宙船の航行原理について考えます。

G・アダムスキーによる紡錘図形から現在の2つの心による3つの科学(精神科学と弧理論による社会科学と物質科学)に至る最初の部分についての解説です。これまでを振り返って、より深い理解を目指します。


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素粒子 は物ではなくて「事」である

加速器等で多数観測される 素粒子 群は孤立波(ソリトン)です。

人の感覚でわかるのはです。物は突き詰めれば基本粒子で(陽子・中性子・電子)の3種類です。そのほかの粒子とされるのは波の一種の孤立波で、「」だと考えます。

例えば、音を可視化できますが、音を物質だと考える人はいません。音は波の一種で、物ではなくて事です。

写真1 出典:音源探査システム

素粒子群を可視化できても、素粒子は物でなくて事であると主張してもよいはずです。

「 素粒子 は事である」との考え方に至った切っ掛けは、ある科学者の言葉からです。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

量子力学が抱える根本的な問題点を指摘しています。物理学者達は、観測の事実から波動関数を作り出したのですが、見方を誤っていると指摘したのです。その正しい見方というのが以下になります。 続きを読む

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コンデンサーマイク BM-800 改 ポップガード自作

改造前提で人気のコンデンサーマイク BM-800 相当であるNW-800やSY-1000を改造して使ってきました。

これまで市販のポップガードを改造してましたが、嵩張るし原稿を読みにくいので新たに作りました。

指向性を高めるためにスポンジに切り込みを入れます。

3Dプリンタで作った支持台に市販のポップガードを取り付けてましたが、これでも大きすぎて邪魔です。そこで、より小さなポップガードを自作します。

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物理学:数学を含む 言葉 が循環・ネットワークであると言うことの意味

かねてより、人は物や事を 言葉 でわかっているのではないと強調してきました。その意味をご説明します。

岡潔は「わかる」ということについて、次のように述べています。【4】情のメカニズムより。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

「わかる」には2種類あると言います。これを第1の心と第2の心と呼んでいます。【1】2つの心より。

人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心はわたくしというものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

 それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。

 欧米人はこの第1の心しか知らない。しかし人にはもう1つ心がある、第2の心。心は2つしかないのです。1つじゃない、もう1つある、第2の心。この第2の心は頭頂葉に宿っている。この心は無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、じかにわかる

理解や物の理ことわり、即ち、知的わかるという前に、情的に「わかる」というのがなければ一切は存在しないと主張しています。まとめます。 続きを読む

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日本教の元は ヨソヤコヱ にある

ヨソヤコヱ と日本教の間にある関係について考えました。wikiによれば、日本教について次のようにあります。

山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。

奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる

動画1

日本教の主張は、日本人は「人間を中心とする和の思想」と「絶対者を知らない相対の世界」にあるということです。

 

このような世界観はどうみても ヨソヤコヱ から来ています。2015年にヲシテ文献を知り、ひたすら「ヰクラムワタ ヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ  ヨソヤコヱ 」の意味を探ってきました。意味は大体次のようだと解釈しました。 続きを読む

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岡潔 の”情” 言葉 形式 宗教について

岡潔 は譲渡の関係を次のように述べています。【4】情のメカニズムより。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。

 言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

人の「わかる」には2つあり、意識を通し、言葉で言える理解とか物の理の前に、情的に「わかる」というのがなければ一切は存在しないといいます。ちょうど寝ていて意識がなくても随意筋である肩と腰の筋肉を使って寝返りができるのです。

寝ているからといって死んでいるのではありません。意識を通さなくてもわかっているのです。

で、最初に情的に「わかる」というのがあるから言葉というものが有り得たし、形式というものが有り得たと述べています。形式とは何かを辞書で調べると次があります。 続きを読む

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喋る 私 と喋れない 私

岡潔は” 私 ”には2つあると述べました。喋る私を第1の心、喋れない私を第2の心としました。

動画(4分頃)において、数学者の千葉逸人氏は、問題を解くに6年ほどかかったといい、アイディアを得るのに2~3年、検証に3~4年かかった旨を述べています。

あれこれ、試す期間が2年ほどということです。これが岡潔が云う第2の心の働きによるのです。

  • 無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、じかにわかる。【1】2つの心

の働きにより何となくその趣がわかると言います。またこの心は数学の使えない世界だと言います。これが喋れない 私 です。そのわからないものについて、以下のように述べています。

  • 全然わからんものだったら、それを捜し求めると云うより、関心をXに集めると云った方がよいでしょう。わからんものに関心を集めるということはナンセンスです。出来やしません。これはね、そういうものと云う時には『情的にわかってる』。発見されると云うのは、それが『知的にわかる』。 だから情的にわかると云うのは、普通わかるというのは知的にわかると云う意味ですが、その基礎に、情的にわかると云うことがある。わからなくてわかる、わかってわからない。わかつてわからないと云うのは、わからなくてわかる。しかしそれを言葉に云うこともなにも出来ないから、わかってわからない。そういうわかり方をする。そういうわかり方を人がするから創造ということが有り得る。これが情というもの、あるいはその情を心と云ってもよろしい。【5】 情的にわかる、知的にわかる

千葉氏は「アイディアが出た瞬間が一番うれしい。」と述べています。その過程について、岡潔は「情的にわかるものを知的に言い表すことにより文化は出来てくる。」と述べています。 続きを読む

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如来 の意味。何々の如しの如し・・・・

前回の記事で、ある方から「唯識は、第6識、第7識、第8識、とあり、岡潔は第9識と述べていますが、唯識の考えを続けていくと繰り返しになっている。だから、唯識については、これ以上考えないということになっている。」とのお話しを聞きました。前回記事「唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。

この方は仏教者ですから、阿弥陀如来の 如来 の意味を仰いました。お釈迦様が悟って以来、お弟子さんが、何を悟ったのかを聞いたところ、言葉で言えないとのこと。しかし、弟子達は何とかそれを説明して欲しいと伝えたところ、「何々の如し」と言われたとのことでした。そして、「何々の如しの如しであり、何々の如しの如しの如し・・・・だ」ということでした。

つまり、何々のようなものであり、そのまた「のようなもの」、そのまた「のようなも」、そのまた「のようなも」・・・・と続くと説明されたようです。だから、 如来 だということです。

これは岡潔の情の働きについて、意識を通さず、言葉で言えないが何となくその趣がわかるというのを別の言い方をしたということです。

古今東西、偉人達が言葉で言えない何かを苦心して言い表そうとしたということです。 例えば、YHWH、buddha、仏、善導大師の覚、岡潔の情、ヲシテ文献のタマ、在りて在りたるもの、アルファでありオメガである、あるいは日月神示の”気付く”などです。YHWHなどは母音を補わねば声に出し読むことすらできません。

 

どれも偉人達が何とかしようとした痕跡であるといっていよいようです。

ところで、ヲシテ文献においては、アとワとしています。人の感覚でわかる物と事について、は物と事の初めで、は物と事のおわりを意味します。これをネコヱ(音素:母音と子音)にわけたがヨソヤコヱ(48音韻)です。

図1 出典:日本ヲシテ研究所48音韻図(ヨソヤコヱ)

これは聖書の「アルファでありオメガである」に近いことは言うまでもありませんが、ヨソヤコヱの方が遙かに詳しいです。

 

この図を長年眺めていますが、最近、面白いことに気付きました。

実は、ヨソヤコヱには主体たる”私”がありません。物と事を言葉(ヨソヤコヱ)に落とし込んだだけです。しかも、神仏たる超自然的な何かも含まれていません。切っ掛けは次の動画です。

動画1 象は鼻が長い

ヨソヤコヱに主体が含まれていないことにって、象は鼻が長いという文章が出来るのかどうかわかりません。しかしながら、ヨソヤコヱに主体がないということはとても重要なことだと感じます。何故なら、世界は互いに信じている主義、主張や宗教をを押しつけ合っています。この争いごとを納めるには日本語を使う人を増やすしか方法がないと感じます。

 

神仏たる超自然的な何かが含まれていないことについて、その発想の根幹に日本教があります。右検索欄にて”日本教”で検索すると、過去記事が19件出てきます。ご参考まで。

社会学者の小室直樹氏は、「日本人は、神仏より自分の都合が優先する」と述べています。これが日本教です。

動画2

しかし、管理人は日本教が日本人の本質を示す言葉ではないと感じてきました。日本人が日本人である根拠は日本語にあり、ずっとずっと遡ると日本語の起源はヨソヤコヱにあるとわかりました。それを音素(ネコヱ)で仕分けする元がヰクラムワタであることは間違いありません。サイト内を”ヰクラムワタ”で検索ください。26件の記事が出てきます。

注:2015年頃よりヰクラムワタに拘り、二河白道の例えに至り、そこから唯識に至りました。

「何々の如し」、つまり 如来 というよりヰクラムワタから造り上げたヨソヤコヱの方が遙かにわかりやすいと思うのは管理人だけでしょうか。

 

追記7/15 どうも、例えるならば、合わせ鏡より万華鏡の方がよろしいかと。そういえば、サイト内の過去記事に”万華鏡”を取り上げたのが30件あります。

万華鏡ならば、合わせ鏡による単純な繰り返しではなくて、空間を角度により仕切る形になっていますので、合わせ鏡より万華鏡の方が遙かに高い対称性について理解できます。

 

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唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。

これまでの考察により” 唯識論 は間違っている”と結論づけてきました。

先日、ある方から「気付くというのは、気付かされるということ。」とのお話しを聞きました。参考 2021年7月3日「日月神示 は”他力”を説いている

昨日、同じ方から「唯識は、第6識、第7識、第8識、とあり、岡潔は第9識と述べていますが、唯識の考えを続けていくと繰り返しになっている。だから、唯識については、これ以上考えないということになっている。」とのお話しを聞きました。口頭ですので、ソースは聞き漏らしました。

管理人はこれまで、唯識論の詳しいことは読んでいませんので、わかりませんけれども、第1の心の特性である。言葉が循環でありネットワークでり、外のない内であることを何度も強調してきました。この「繰り返し」というお話しを聞いたとき、まさに我が意を得たりとの気持ちでした。

岡潔が最晩年に取り組んでいたという唯識論が間違いであると気付いたのは2019年8月24日に高知市で開催された「数学者 岡潔思想研究会夏期合宿」に参加したときでした。参考 2019年8月26日「時には 思想 や哲学を捨てなければならない

 

唯識の繰り返しについての、説明では”合わせ鏡”を例えに述べられていました。

写真1 出典:合わせ鏡

後から思ったのは、例えるならば、これまでブログで何度か取り上げてきた万華鏡の方が理解が深まると考えました。過去記事を万華鏡で検索すると29件ほど出てきます。

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日月神示 は”他力”を説いている

これまで日月神示について、幾度か参考にしてきました。過去記事を” 日月神示 ”でサイト内検索すると52件出てきました。以下に最近の3つをあげます。

たぶん、これまでほとんど指摘されてこなかった事も含んでいます。例えば、 日月神示 がヲシテ文献のフトマニの流れを汲むことや、当サイトでも重要なワードである「気(キ)付く」が 日月神示 で頻出していること、あるいは「一二三(ひふみ)、三四五(みよいず)、五六七(みろく)」の意味がわかってきたことなどがあります。

善導大師がbuddhaをして”覚”と名付けた件で、”覚”は「気付く」だとの記事を書きました。先日、ある方から「気(キ)付く」について、正しくは「気付かされる」だとの指摘を受けました。

すぐに思い出したのが仏教で言うところの「他力」でした。管理人は、他力について30年ほど前から意味を知っていました。 しかし、本当の意味で納得したのは、研究を始めてから何年か過ぎてからでした。

実のところ、岡潔の云った「わからないものに関心を集め続ける。情的にわかるものを知的に言い表すことにより、文化は出来てくる。」という態度はまさに”他力”です。

これは完全に待ち受けの状態です。いつどのようなタイミングで”情的にわかる”かは自身にもわかりません。勿論のこと、そのための準備は怠りません。ただ、わからないものに関心を集め続けるだけです。

因みに、管理人はヲシテ文献の「イクラ ムワタ ヲ ネコヱ ワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ」(日本語の元となる大和言葉のさらに基礎である48音韻の起源)については、2015年頃から最近まで「関心を集め続け」てきました。とても長い期間を要する行為です。

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