岡潔 が述べた「2つの心」について まとめ

昨年12月から別のことをやってました。漸く片付きそうです。研究を始めて10年が経過しようとしています。いよいよ11年目です。 ついては、数学者岡潔が述べた「2つの心」について、ヲシテ文献などと比較して1枚にまとめました。【1】2つの心を参照ください。

図1

解説はしませんけれど、過去記事に記したことを現時点でまとめました。この図が3つの科学(タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学)の内の精神科学の根幹です。この図にカガミ:社会科学のヒントが入っています。

図2

考えれば考えるほどに岡潔が述べた「自然は心を映写するための映像に過ぎない」と感じます。時間は物理量ではありませんので、時間を光速度に置き換えた相対性理論は自然科学の循環の一部に過ぎません。

図3

本当の解決には別の次元軸を考える以外にないと確信します。意識を通し言葉※1で言える循環(外のない内、ネットワーク)から逃れて発達を続けるためには、別の次元軸からの投影による映像による仕組みの解明に挑むしかありません。

※1もちろんのこと数学も含みますので、現在のいかなる理論もこの範囲(循環)を逃れることはできません。

 

管理人は、ループ量子重力理論について、図3のループを最小単位にしたように見えて仕方がありません。最小単位とは、素なる空間と素なる時間(つまり、量子場のこと)をいいます。素なる時空間に全宇宙の情報が詰まっているなどということはありません。自然は映像ですから、映像を構成する画素に全情報が詰まっているわけがありません。

 

追記 「複雑化する現代社会において、云々」と挨拶の冒頭に話されることがあります。多くは産業や経済がどうか、あるいは景気が云々という話につながります。しかし、「複雑化するとどうなるのか?なぜ、複雑化するのか?複雑化によって社会は一体どこへ向かっているのか?」などの本質を話されることはありません。本当は、経済や景気あるいは思想信条・主義主張などどうでもよいのです。

新型コロナウイルスはC国の某研究所職員が最初に発症したとの動画があります。人工ウイルスかどうかはわかりませんけれど、トンデモ論者や陰謀論などどうでもよいです。自然科学という枝葉の先端に居る物理学者たちこそ、人には心が2つある事に気(キ)付くべきです。

 

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還元主義 の終端

ある科学者は現在の科学について次のように例えました。

科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める

そして基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。

だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。

科学の進歩について、枝を登るアリに例えました。

図1

発達を続けるためには枝の分岐点まで降りて、再び登り始めるべきと指摘しました。これまでの考察により、自然科学の問題点はわかっています。

  1. 時間・空間という模型は自然そのものではない。
  2. 時間は物理量ではない。
  3. 時間を光速度に置き換えたのが相対論。
  4. すべての基準を光速度に置き換えても自然科学は循環である。図2 運動から時間をつくり、時間を光速度へ。光速度から時空を再定義するという循環。

2.について。量ではない角度から作った時間は物理量ではありません。時間を光速度に置き換えても、その前に時間がわからねばなりません。

ここまで2018年までにわかっていました。その後、2019年に次のことがわかりました。

  1. 言葉は互いに規定し合うことにより成り立つ循環である。
  2. 循環とはネットワークであり、孤立系であり「外のない内」である。
  3. 数学者岡潔の云う第1の心(意識を通し、言葉で言える)は、循環であり孤立系であり外のない内である。
  4. 本当の「わかる」は、岡潔の云う第2の心(意識を通さず、言葉で言えないがしかし、何となくその趣おもむきがわかる)にある。これは開放形である。
  5. 岡潔の云った2つの心は、別の次元軸にその仕組みと働きがあるだろう。

2019年にわかったことは、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から読み取れます。

写真1

著者は「時間とは何か」を考え続けます。第九章「時とは無知なり」より。

かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?

じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。

つまり、物理学者の「物(物質)とは何か?」を探求した結果、量子場に行き着いたけれども、そこには含まれていないということです。何度も指摘したように猫も人もスプーンもオレンジも映像を構成する画素の内には存在しません

写真2 オレンジ

写真3 上記、オレンジの画像の一部

画素はその状態を変化させるだけです。量子場も同じです。第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」(p99)より引用します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

著者は、”言語規範”と量子場を比較して、「同じだとわかっている」と述べています。”物”とは何かを探求した結果、互いに規定し合うことにより成り立っている言葉と同じということであって、そこには猫も人も存在しないのです。

冒頭、ある科学者が云ったことの内、分岐点がどこにあるのかはおおよそわかっています。しかし、(引き返すべき)枝の先がどこにあるのかが長らくの疑問でした。これで漸くわかりました。

第1の心、即ち「わけることによりわかる(意識を通し言葉で言えるはず)」という 還元主義 では何もわからないのですから、枝の先端が著者の到達点に等しいということです。理論物理学者たちに、これより先はありません。何もありません。 還元主義 の終端だからです。

参考まで。2018年頃からの記事をお読みいただくことを推奨します。「降りるべき分岐点」については、2017年頃からの記事が参考になります。

 

近頃、別の次元軸と基本粒子(陽子・中性子・電子)との関係を正と負の発散トーラスを組み合わせた楕円磁場から考え続けています。どう考えても単極誘導がカギであるとしか思えません。 因みに宇宙の中では、日常ありふれた”静止”という状態は例外中の例外です。楕円磁場により基本粒子は互いに回らざるを得ません。量子力学の”確率”というのは「別の次元軸にある実体の投影による結果」に過ぎないようです。(質量と運動Pは一つの実体の異なる面に過ぎない。運動Pの一形態が”波”である。位置を持つ質量と位置を持たない波の関係を取り持つのが確率である。量子の考え方は結果である。)

 

3月5日追記 いろいろ調べると、岡潔が山崎弁栄上人の言葉をひいて、「本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。」と述べました。(【3】 西洋の唯物主義) 物や事と言葉が持つ本質的な循環を(当面)回避するにはこれしかありそうにないです。 で、人の心の仕組みと働きを含む自然が別の次元軸からの投影による映像だと考えるのが弧理論(Ark Theory)です。

ところで、これまで述べてきた「自然科学は孤立系、循環、外のない内である」は、著者の進める理論にある「ネットワーク」とたぶん同じではないかと思います。管理人には、スピンネットワーク重力理論(ループ量子重力理論)というのはわかりませんけれども、心が2つあることを知らねば、似たものであってもまったく異なる結論に至ることが不思議です。

言語規範と量子場が同じであるというなら、量子場は境界であって、映像だとしか考えられません。境界には何もありません。物は必ず「対」に生じます。過去記事「量子場を説明する簡単な模型」を参照ください。「接する」とは何なのでしょう?? たぶん物を物とのみ観ている限り解けません。映像だとすると、第2の心の仕組みと働きにかかってくるだろうと感じます。長らくある科学者の次の言葉に拘りをもってきました。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

「心で描くことのできない状態」というのは致命的です。恐らく岡潔の第2の心に関係するはずです。それは映像だからです。波も確率も原理・原則・原因・法則の類ではありません。映像と考えるならば波も確率も結果であるはずです。

 

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自然>( 時間・空間 )

ある人から云われました。「岡潔って、何か宗教っぽい。」 それには理由があります。

数学者岡潔は、次のように述べています。【2】自然科学者の時間空間より。

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。

続いて、【4】自然科学と生命現象より。

ところで、自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。

自然科学者は、自然について考える際にそれを「 時間・空間 」としました。簡単な模型であって、自然そのものではありません。

自然科学者は、「自然>( 時間・空間 )」であることに気付いていません。だから、理由が付かない、わからないことは全部どこかへ押しやって「非科学的」として済ましています。詳しくすれば次になります。 「わけることによりわかる:還元主義」に当てはまらないもののすべては「彼らの考える科学の外」として思考停止するのです。

岡潔が拘った”情”というものを考察する立場について、自然科学から見れば非科学でしかないのです。次図は2016年11月ころに出しました。

図1

右上の欄がほぼ空白です。この空白部分に自然科学で扱えない非科学のすべてを押しやっています。この部分にはいわゆるオカルトや宗教あるいはスピリチュアル系などのトンデモやUFOやフリーエネルギーなども含まれています。ほとんどの人は、岡潔が何を伝えたかったのかがわからないのです。自然=自然科学の模型( 時間・空間 )だと認識している限りは、問題の存在すら気づけません。岡潔の指摘したとおり、「人は故障がなかったらなぜ見えるのか?」といった質問に自然科学は何も答えられません。

 

管理人も「自然とは何か」という疑問を持っています。岡潔も読むほどに「自然とは何か」と云わずに話しを進めていることに気付きます。「わからないこと」のすべてを自然に含めるならば、自然とは何かを定義することは不可能に思えます。 10件ほど前の記事から読んでいただければわかるとおり、「言語規範と量子場は同じ」であるならば、自然科学は「循環(ネットワーク)であり、孤立系(外のない内)」であるというのは自明のことです。ならば、自然をネットワークとしか感じられないのならば、岡潔の伝えたかった事などわかりようがありません。心は2つあるのです。

 

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自身を含まない 量子場理論 は間違っている 

研究対象とは別の位置に自身を置いて論ずることは間違っていると、かなり前に指摘しました。そういう研究は、自身を”神”の位置に置くのと同じだということです。自然科学、特に物理学に違和感を持っていたのはこの点でした。

先般より考察の参考にしている 「 時間は存在しない(カルロ・ロヴェッリ著」(以下、著者という。)から気になる部分を引用して説明します。

第九章「時とは無知なり」p130からです。

かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?

じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。

著者のこの書き方だと「猫は複雑なもの」だから基本原理に含まれないとでもいいたいように読めます。それとも基本原理に含まれないから存在しないというのでしょうか。全く違います。

数学者岡潔は次のように述べています。

  1. 人の心は2つある。
  2. 第1の心のわかり方は「意識を通し、言葉で言える」。
  3. 第2の心のわかり方は「意識を通さず、言葉で言えないが、しかし、何となくその趣おもむきがわかる」。

2.に示す第1の心は、「わけることによりわかる」とする還元主義のことです。理解とか物の理ことわりといいます。「わかる」の語源は「わける」です。つまり、意識して言葉で言える物をわけることによりわかるはずだという主義、考え方です。

著者は理論物理学者です。わけることによりわかるはずだとして、物を細分化して行きました。200年以上かかって物理学者は 量子場理論 に辿り着きました。著者は「量子場は言語規範と同じであることがわかっている。」と述べています。 言語規範とは、言葉の規則・基準という意味です。

  • 規範 「単なる事実ではなく、判断・評価などの基準としてのっとるべきもの。準拠。標準。規格。」

言語学者は、言葉・言語をわけることにより、音素に辿り着きました。音素とは人が聞き分けられる言葉の最小単位です。音素に意味はありません。音素を組み合わせることによって言葉はできます。意味のない音素を互いに規定しあうことにより言葉・言語が出来上がっています。意味を与えています。

これはネットワークであり、循環です。

図1

いわば言葉は、「外のない内」であり孤立系です。

図2

人の思考、つまり「意識を通し、言葉で言える」第1の心は、循環であり孤立系であるということです。 人の思考もまた孤立系なのです。

孤立系である第1の心により「物」をわけることにより、物の最小単位を求め続けた理論物理学者である著者は、遂に(音素ならぬ)物素に辿り着いたのです。それが量子場です。ですから音素と同じく量子場に意味はありません。

 

著者は「猫は基本的な素材にない複雑なもの」と述べています。著者は岡潔が云った第2の心を知らないのです。猫は複雑だから存在しないというのでしょうか。

写真1

それとも、簡単であれば存在するとでも考えているのでしょうか。

写真2

数十個の単位(ブロック)でできている猫は存在するというのでしょうか。違います。写真1も写真2の中央にあるものも人は、だとわかるのです。それはわけるからわかるのではありません。意識を通し言葉で言えるようになるに、それが何であるかを何となくわかるのです。でなければ(循環であり孤立系である)言葉で言える訳がないのです。それが第2の心の働きによるのです。でなければ、月も太陽も犬も人もいません。 (注:数学を含む。数学の素なる数(数素)もまた意味はありません。岡潔は「自然数の1は決してわからない」と述べています。同じです。【6】 数学の使えない世界を参照ください。)

 

「時とは無知なり」ではなくて、著者が無知なのです。

著者は誤解しています。は現在・過去・未来からなります。著者が用いる「時」とは、この場合「時間」を意味します。これまでの考察により時間は、時の現在と未来を含みません。それがプランクの時間(10-44秒)でもです。

図3

状態(ア)において、本当にわかるのは第2の心です。岡潔によれば、情じょうの働きにより写真1が何であるかを、意識を通さずとも言葉で言えずともわかるのです。それが現在(静止画がわかる)です。それ以降が「知」の領域です。は現在と過去を橋渡ししています。「知」とは記憶であり情報です。それは過去です。それから「」が働きます。そこから初めて「あぁがいる。」とわかるのです。 ついでながら、過去記事にしたように本居宣長の「もののあはれ」は、(動画がわかる)という意味です。それには記憶が必要です。物の動きがわかるのは、過去の記憶(知)によります。

 

表題のごとく、自身(現在)を含まない 量子場理論 は間違っています。

心の仕組みと働きを抜きにして物質科学は成立しません。

著者は時間変数を含まずに 量子場理論 を作ったと云います。しかし、時間を光速度cに置きかえただけです。光速度cがわかる為には、その前に時間がわかる必要があります。時間は物体の運動からつくります。最初、人類は物体の運動にかかる角度から時間をつくりました。だから時間は10進数による12の倍数なのです。角度は量ではありません。だから時間は物理量ではありません。

 

著者の理論は、2018年にわかった「自然科学は循環である」という範囲から一歩も出ていません。

図4

自然科学が循環であり孤立系なのは、人が持つ第1の心が循環で孤立系だから当然のことなのですが、対して第2の心は開放系である(らしい)ことがわかります。第1の心のネットワーク以外です。するとこれら(孤立系、循環である自身)を含む理論を構築するには別の次元軸を考える他無いことに気(キ)付きます。 岡潔が山崎弁栄上人の言葉を引いて述べたように「自然は心があるために映写される映像に過ぎない」と完全に合致します。【3】 西洋の唯物主義を参照ください。

 

因みにビッグバン理論というのは胡散臭いのですけれど、理論にt=0を代入しても意味はないはずです。著者が気付くべきは、「現在に意味は無い」ではなくて、「理論は決定論ではない」なのです。過去記事にあるように古典物理も量子力学を基礎とする現代物理学も決定論にはなり得ません。管理人自身、3年ほど前まで古典力学は決定論だと信じていました。当たり前のこと、未来はわかりません。

追加です。著者は自然において「(あらゆる物や事が)生じる不思議」を強調しています。この点について。弧理論ではもっと積極的です。  元の定義(ヲシテ文献によるカミ)は次です。

「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる

なんとなく生じるなどというものではありません。「生じさせる」のが自然なのです。その仕組みと働きを別の次元軸に求めようというのが弧理論です。過去記事を「カミ」で検索、参照ください。 これまでの考察によれば究極、「回す」と「回る」の違いに行き着きます。回る仕組みがすべてを生じさせています。自然科学の考え方では、すべてを回さねば成り立たないのです。本当は「回る」のです。加速度には2種類あります。数学的には区別がありませんので、物理学者には「生じる」という観点しかありません。宇宙において静止は、例外中の例外です。

 

追記1/15 著者の言葉を真似るならば、『は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。』と云えます。人も車も男も女も何も存在しない。何もわからないままです。  自身を含まない理論が”統一理論”にほど遠いと気付かねばと感じます。

2018年の前半に「自然科学は循環である」とわかり、2019年には「人の思考もまた循環である※1」とわかりました。管理人の人生における最大と云ってもよいほどの研究成果です。この手の話しについて、いくらでも記事に書けますが、これまでにおおよそ網羅していますので、似た記事になります。

※1 思考とは、岡潔の云う第1の心(意識を通し、言葉で言える心)です。言葉が互いに規定しあって成り立っているのですから、思考もまた循環であり孤立系です。著者の云う「言語規範」です。循環であり孤立系であり、ネットワークに過ぎない言葉では何もわかりません。猫も人も。 循環である(数学)言語で記述された量子場もおなじです。それが量子場でも、素粒子でも、基本粒子でも同じです。互いに規定しあって成り立っているのです。では、なぜ人は猫や人であるとわかるのか?それが岡潔の云った第2の心です。意識を通さず、言葉で言えなくとも何となく猫は猫の、人は人の趣おもむきがわかるのです。第2の心がなければ、猫も人も存在しません。このように考察を続けると自然は映像だと考えざるを得なくなります。別の次元軸を考えざるを得ません。

理論物理学者に聞きたいのは、「ブロックでできた”簡単な猫”ならばどうなの?」ということです。

写真2

 

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量子場 を説明する簡単な模型

前回までにご紹介したカルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

写真1

カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その6』の中で引用した子どものための量子場にかかる図を眺めていて気付いたことです。

図1 出典:A Children’s Picture-book Introduction to Quantum Field Theory

この模型では、バネを付けた小さな球が互いに連結しており、揺らぎによって量子(粒子であり波動である物性を持つ。)が生じるを模しています。

著者が本で述べていることの一つの大凡をまとめると以下になります。

  • 量子場は言語規範と同じくネットワークである。
  • 量子場の方程式は、物と物との間の関係を説明する。
  • 世界はと云うより物と物との間にある関係、即ち(出来事)により成り立っている
  • 出来事のネットワークは、より単純な出来事に分解できる。
  • 複雑な出来事は、量子場のネットワークが織りなすと考えるとうまくいく。
  • ネットワークは、「外のない世界」である。

その上で著者は云います。

わたしたちはずっと、この世界をある種の基本的な実体の観点から理解しようとしてきた。物理学はほかのどの分野よりも熱心に、それらの基本的な実体の正体をつきとめようとしてきた。だが調べれば調べるほど、そこに「在る」何かという観点ではこの世界を理解できないように思えてくる。出来事同士の関係に基づいたほうが、はるかに理解しやすそうなのだ。

著者の主張を管理人なりにまとめたのが前回までの記事です。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その6

前々回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

写真1

いつも引用するある科学者の言葉から得た管理人による考察と比較して検討します。著者は、「物ではなく、出来事にある」と述べています。第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」より。「実体」という部分をp99より引用します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

前回までに説明したとおり”言語規範”と量子場を比較して、「同じだとわかっている」と述べています。

  1. 言語「音素の組み合わせ」・・・・音素に意味は無い。音素の組み合わせに意味がある。
  2. 量子場「場の揺らぎ→物(素粒子等)」・・・・量子場に意味は無い。場の揺らぎにより生じる量子、その他の物質の組み合わせに意味がある。

1.と2.を対比させると同じだという意味です。その上で、物理世界がで構成されているとは思えないと述べています。ここで著者が使った「実体」とこれまで管理人が使ってきた「実体」とはまったく意味が異なります。 続きを読む

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数学者岡潔「 2つの心 」・・・頑としてわからぬ人たちが居る

数学者岡潔は、人には 2つの心 があることを説いています。ところがどういうわけかあまり詳しく解説していません。晩年になって、自身の時間が残されていないからなのかわかりませんが、先を急いでいるような感じを受けました。

岡潔を知ってから「 2つの心 」と「時間とは何か」の2点について、少しずつ考えて記事にしてきました。できるだけ具体的な例を挙げながら、第1の心と第2の心の仕組みと働きについて考えてきました。この2つのテーマを掘り下げて考える理由は、自然科学の何が問題なのかを明確にするためでした。

しかし、これまでのところ、十分わかってもらえているという実感が湧きません。その理由について考えました。

 

ほぼ全ての人たちは、岡潔の講演録なり、著書を「読んだらわかる」と思っています。ところが実は、「岡潔を読んでもわからない」のです。誰でも岡潔を読めば、「岡潔は何かを訴えている」とはわかります。それで何かわかったつもりになります。それだけです。岡潔は第1の心と第2の心のあり方を次のように述べています。【1】巻頭言より。

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「」という。これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「」という。しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。何でもすべて本当に大切な部分は無である。だから日本本来のよさというのは無である。ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。真、善、美はすべてその源を無の世界に発して、有の世界へ流れこんでいる。有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

一見、哲学的なことを述べている様な言葉です。ところが直近の記事11月1日の『カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その2』で取り上げたこと、『「今」に何の意味もない』に一致することがわかります。「今」は、「無」より出ているからです。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その5

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

写真1

著者は、1960年代から、時間変数を含まずに量子重力を記述する努力がなされてきたことを紹介しています。p118より引用します。

時間変数をまったく含まずに量子重力を記述する方程式がはじめて書かれたのは、千九百六十七年のことだった。アメリカの二人の物理学者、ブライス・ドウィットとジョン・ホイーラーが発見した。今日ホイーラー=ドウィット方程式と呼ばれている式である。

量子重力の基本式に時間が含まれていなくても、なんの不思議もない。基本的なレベルでは特別な変数は存在しない、という事実の結果でしかないのだから。

この理論は時間のなかで物事が展開する様子を記述するわけではない。物事が互いに対してどう変化するか、この世界の事柄が互いの関係においてどのように生じるかを記述する。ただそれだけのこと。

注:編集の都合、”・”で強調された原文を”下線”で代用しました。 1967年に2人の物理学者によって時間を含まずに記述されたとのことです。最初は納得していましたが、よく考えたら変です。著者たち物理学者の云うことは半分は正しいけれど、間違っています。理由は以下です。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その4

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

写真1

数学者岡潔による「自然科学は間違っている」から得た管理人による考察と比較して検討します。著者は「時間とは何か」を考え続けます。第九章「時とは無知なり」より。

かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?

じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。

前回までに指摘したように、著者は知らないようです。

  1. 時間は計るものではなくて、時間は作るもの。
  2. 時には「現在、過去、未来」があって、時間は、人が「時の過去」に持つ観念である。時と時間を混同している。
  3. 著者は、人が「猫」を見て「猫である」と何故「わかる」のかわかっていない。

1.について、時間は作るものであって、計るものではありません。(日本標準時をつくる) 著者は、どうも観念的な時間の存在は否定しているようですが、物理量としての時間は肯定しているようです。量としての時間は「計るもの」との認識のようです。これまでの管理人による考察では、時間とは次です。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その3

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」の前半から興味深い点を読みます。

写真1

その際、数学者岡潔の講演録から「時間」に関する発言を元に考察した結果と比較検討します。

 

(1) 前回記事に追記した「言語規範」云々についてです。該当部分をp99より再掲します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

この文章の後、世界の出来事を”ネットワーク”という言葉で説明しています。下線を付した”言語規範”をネットで調べたところ、幾つかありました。「言語規範とはなにか?」や「言語規範と言語表現」などです。

下線部分の管理人の解釈は、以下でした。 続きを読む

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