岡潔は、『「わかる」というと物の理とか理解というが、全然理解じゃない。』と言いました。「わかる」の過程は、情・知・意の順に働くと言います。情的にわかるに続いて、知的にわかります。その後に意識できる訳です。「情的にわかる」がなければ、一切は存在しません。
「情的にわかる」を、仏教では他力と言います。他力とは無責任な意味合いに使われますが、本当は岡潔の言った 創造 のプロセスをいいます。
岡潔の言った「情」のほかには、仏教の他力やヲシテ文献のトのヲシテ(心の本体であるタマの働き)、あるいは記紀にあるシラス・ウシハクのシラスなども同じ創造のプロセスです。
図1
現代人に最もわかりやすいのは、「気(キ)づかされる」です。これが 創造 を意味することが知られていません。対して、自然科学には創造の仕組みがありません。「わけることによりわかる」とする還元主義では、創造の仕組みがないのです。
創造のプロセスを最もうまく表現したのが岡潔講演録「【28】ポアンカレ-の発見」にあります。
フランスに、アンリー・ポアンカレーという大数学者があったが、この人の著書に、「科学と方法」というのがあって、その第1章に、「数学上の発見」というのがある。そこで、ポアンカレーは、自分の体験をいろいろ書きつらねてこう言っている。数学上の発見というのは、理性的努力を欠いてはできるものでない。しかし、理性的努力をした時と発見が行われる時との間には、大抵、相当な時間があいている。いつ起こるかわからない。又、その方向は理性が予想したのとは、主に、違った方向の解決であることが多い。つまり、方向が予知できない。意外な方向の解決である。
第3に、発見は一時にパッとわかってしまう。この3種類の特徴を備えている。一体、これは如何なる知力の働きか、不思議である、とそう言っている。これは、西洋文化の本質に触れた問題ですから、フランス心理学界が、直ちにこの著書を問題にして、当時の世界の大数学者たちに、「あなたはどういうやり方で、数学の研究をしていますか」という問い合わせの手紙を出した。
その結果、大多数の答えは、ポアンカレーが言っているのと一致したというのです。それで西洋文化の中心である問題は確立したんですが、解決に向っては、一歩も近づかない。今日、なお未解決のままです。私も、実際、数学をやりまして、何度も体験してよく知っています。数学上の発見がどういうものであるかをです。
”理性的努力を欠いてはできるものでない。”というのは、「わからないXに関心を集め続ける」と同意です。努力と発見の間には相当の時間差がありますし、いつ起こるかわかりません。これが他力の意味です。自分(第1の心:シヰ)ではどうしようもありません。また、その方向性も「理性が予想したのとは違うことが多く、意外な方向の解決」です。そして、「発見は一時にパッとわかります」。
このような創造のプロセスは、あまりに個人的な体験によりますので、一般的に認められるに至っていません。度々、当ブログにおいて解説してきたとおりです。
- 2019年7月3日 数学者岡潔 は”わからないものをわかろうとすること”を「 数学 する」と云った
- 2019年7月13日 数学者岡潔 の云う「 聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く 」ことの難しさ
- 2021年8月16日 岡潔 の伝えたかった「創造」
- 2021年12月9日 ” 他力 ”とは創造の仕組みを言う
- 2022年6月27日 創造 論文と紙の違い

