旧約聖書 「在りて在る者」と新約聖書「アルファでありオメガである」は同じ

先日、すべての宗教は一つに帰納することが可能だとわかりました。ついで、仏教の如来とキリスト教にある「アルファでありオメガである」は同じものだと記しました。

さらに、面白いことがわかりましたのでメモします。以下は、弧理論の前提です。

  • 人の肉体に備わった器官でわかるのは、である。
  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。(自然は映像であることの言い換え。)
  • 物と事は互いに規定しあって成り立つ、繰り返し、循環を含むネットワークである。
  • 物は現在、事は過去である。
  • 事とは「動きがわかる」ということ。
  • 過去がわかるためには記憶の仕組みが必要である。必ず媒体となるハードが必要。
  • 物と事は同時に成り立たない。(現在≠過去)
  • 物と事を音素である5つの母音10の子音に割り付けて、意味付けたのがヨソヤコヱ(48音)、アワウタである。
  • 物と事は同時にわからないのだから、人は物や事を言葉でわかっているのではない

図1 出展:日本ヲシテ研究所

横軸に母音のアイウエオを縦軸に子音のアカハナマタラサヤワをとって、5つの物と10の事を割り付けたのがアワウタです。前提からして、アはワの如し、ワはアの如しです。アは決してわかりません。繰り返し、循環だからです。

仏教の如来は、アとワそのものですし、キリスト教の「アルファでありオメガである」は、同じく「アルファはオメガの如し、オメガはアルファの如し」であって、繰り返し、循環です。如来にも「アルファでありオメガである」にも人格性はありません

大事なのは、アワウタに自然における、物の初めである「ア」から、事の終わりである「ワ」にすべてが収まっているということです。

それ以外はありません。言い換えると「超自然的な何か(神)」は含まれていません。

つまり、如来も「アルファでありオメガである」もアワウタに帰納するということです。言葉は互いに規定しあって成り立っている繰り返しで循環です。だから、その仕組みからして世界中に多くの言語がある訳です。

ついでに言えば、右は左の如し、左は右の如しです。上は下の如し、下は上の如しです。表は裏の如し、裏は表の如しです。善は悪の如し、悪は善の如しです。真は偽の如し、偽は真の如しです。文系の人は右・左を「~如し」で言えば、すぐにお解りだと思います。すべてが相対的であるという意味合いがあります。※↓

まったく同じ理由で、無数の宗教があるのです。なぜならば、人は物や事を言葉でわかっていないからです。どんなに教義や理論、あるいは主張を聞かされても納得するしないは、人それぞれになる訳です。如何なる理論教義、あるいは主義主張も繰り返しになり、循環以外に組み立てることはできません。注:データベースにおけるリレーションシップを思い出してください。1データだけでは意味を成しません。一対一や一対多で初めて意味を持ちえます。

また、如何なる理論教義、あるいは主義主張も繰り返しになり、ネットワークですから、岡潔が言った「すべてを覆っているが、外へは決して出てない」ことがわかります。これを「外のない内」といいます。如何なる理論教義、あるいは主義主張も繰り返しになり、ネットワークですから、外のない内です。

図2 記憶と処理を担う脳はネットワーク、外のない内 すべてを覆っているが、外へは決して出てない

アワウタには、人の肉体に備わった器官でわかる物や事がすべて含まれており、すべてを覆っているが、外へは決して出ていないということです。

 

さて、前提がわかったところで、キリスト教の新約聖書(ギリシャ語聖書)にある「アルファでありオメガである」について、『「アルファであり,オメガである」とはだれのことですか』の解説を読むと次のようにあります。

「アルファであり,オメガである」とは,全能の神エホバのことを指しています。この言葉は,聖書中に3回出てきます。(啓示 1:8; 21:6; 22:13) a

なぜ神はご自分を「アルファであり,オメガである」と呼んでおられるのですか。
ギリシャ語は,「啓示」の書を含む,一般に新約聖書として知られている部分を書くのに用いられた言語です。アルファとオメガは,ギリシャ語アルファベットの最初と最後に位置していて,エホバだけが初めであり終わりであることを示すために用いられています。(啓示 21:6)エホバは無限の過去から,これから将来も永遠に全能の神です。エホバだけが「定めのない時から定めのない時に至るまで」存在しておられます。

初めであり、終わりである(存在)という説明です。他の資料をネットであたっても、おおよそ同じような説明ですし、慣用句「アルファにしてオメガ」(最初にして最後であること。全部、すべて。)としても用いられているようです。

すべての物と事を含むアワウタに当てはめて考えると、「初め終わりの如し、終わり初めの如し」です。ここで、”おやっ?”と思います。どこかで聞いたことがあるような。

 

旧約聖書 の出エジプト記にある「在りて在りたる者」です。「アルファでありオメガである」は、「~の如し」で読み替えると、「初めも終わりもない」と読めます。これは、ユダヤ教の聖書にある「在りて在る者」と同じだとわかります。

ヘブル語の「在りて在りたる者」を日本語に訳すには、いろいろと議論があるようです。

出エジプト記3章14節 אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהについて」にある訳を幾つかあげます。

新改訳 「わたしは、『わたしはある』という者である。」
新共同訳 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
口語訳 「わたしは有って有る者。」
岩波訳 「わたしはなる。わたしがなるものだ。」
文語訳 「我は有て在る者なり」
関根訳 「わたしはあらんとしてある者である。」
フランシスコ会訳 「わたしはある〔エーイェ〕ものである。」
新世界訳 「わたしは自分がなるところのものとなる。」
KJV訳 I am that I am
NASB訳 I am who I am
NIV訳 I am who I am
NKJV訳 I am who I am
NJB訳 I am he who is
Moffatt訳 I will be what I am

いずれにしても、その意味はギリシャ語聖書にある「アルファでありオメガである」の意味に同じです。

 

これで、仏教とキリスト教に加えてユダヤ教の核になる部分が、アワウタに含まれることがわかりました。イスラム教はユダヤ教の神と起源が同じとされます。管理人にはよくわかりませんけれど。

世界の宗教別人口を計算します。

キリスト教22億人+イスラム教16億人+仏教3.8億人の計41.8億人です。ユダヤ教の人数は少ないので含むとしますと、73億人に対して41.8億人ですから、57.2%の人がアワウタに含まれることがわかりました。人口の過半数です。

前回までにご紹介した田中英道氏は講演において、「日本人はユダヤ人を虐待していないし差別していない。ユダヤ人は日本にやって来ればよい」と述べています。同感です。

 

ただ、ユダヤ教は、契約が根拠となっていますので、支障があるとするならば、契約だけです。管理人が弧理論(Ark Theory)を始める際に、本来は、”Arc”を意図的に”Ark”とした意味がここにあります。目途はたっていませんけれども、楽観的になんとかなるのではないかと考えています。

 

※↑ すべてが相対的であるということの理由は、おそらく空間の性質からきているようです。空間には中心がありません。右隣の人から見て自分は左側です。このような性質は空間から来ていると考えられます。空間に中心がないということは、自然が映像だとすると納得できます。境界空間の仮説がありますので、サイト内を「境界空間」で検索ください。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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