自然科学 の問題点(ほぼ確定)

前回の記事で 自然科学 はどこか胡散臭いと書きました。どうにも納得できないものがあるのですが、きっちりわかってきたものを挙げます。

相対性理論は、光速度cを基準にして時間、空間、重力、質量の関係を規定しています。相対性理論は、時間・空間・重力・質量が不変な光速度に対して互いに変化するとしています。しかし、光速度[LT-1]がわかるためには、その前に時間[T]がわかっていなければなりません。しかも角度から作る時間は量ではありません。角度は量ではありません。

図1 出展:量の表しかた

結局、相対性理論は何も説明していないということです。イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」において、次のように述べています。p99から。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのか。原子なのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範に過ぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

下線は管理人による。言語規範とは、物事を規定するルールというような意味合いです。つまり、量子場は規定するルールであるということです。相対性理論もおなじで、要は空間にある物や事を規定しているということです。一見、それでよいような気になりますが、そうではありません。でなければ、カルロ・ロヴェッリ自身がこれほどの疑問を素直に書くはずありません。

これを極限まで簡潔に言ったのが岡潔です。

  • 自然数の1は決してわからない。
  • 数は量のかげ。

写真1

2進数で例えれば、1とはゼロでない数で、ゼロとは1でない数です。では、数はというと”数は量のかげ”です。

カルロ・ロヴェッリが著書で言いたかったことを極言すれば、「粒子は反粒子でない物であり、反粒子は粒子でない物に過ぎない。」ということです。「粒子は決してわからない。」です。で、物とは何かと問われても「物とは量である。」くらいしか答えられないのではないかと考えます。

自然科学 の問題は複雑で「量ではない時間」を用いて表現している点にあります。カルロ・ロヴェッリの疑問は、”物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない”というところに凝縮されています。

彼ら 自然科学 者は、物とは何かを追求したら、互いに規定し合うことにより成り立っていて、それを記述するルールはわかった。だけど、”現実世界はいろいろ「生じる」のに、漸く記述したルールには「生じる」という部分がすっぽり抜けている”との疑問を持っているということです。少なくとも著者はそのように感じているようです。p130からに書かれています。

もっと言えば、自然科学は物と事に区別がありません。時間はです。物ではありません。物は量で表され、事は質で表されます。 岡潔は「数は量のかげ」と言いましたが、正確には「数は物の量のかげ」です。対して岡潔が云わなかったのは「数は質のかげ」です。正確には「数は事の質のかげ」です。

  • 数は物の量のかげ
  • 数は事の質のかげ

物質の質量は数で表しますが、その数は物の量のかげです。時間も数で表しますが、その数は事の質のかげです。量ではありません。その他の組立量(組立単位)で時間[T]を含む数は量ではありません。事の質です。


余談です。熱力学的エントロピーと情報エントロピーが同じ数式で表されるのは、熱力学と情報理論は同じ「事」だからです。長年の疑問がこれで解けました。


上記のように、自然科学に物と事の区別はなく、物と事を混同しています。そして、近接作用を基本として物質粒子と力を媒介する粒子にわけることにより、”わかった”と考えているに過ぎません。

そこはかとない 自然科学 の胡散臭さは、わかりにくさの中に紛れてしまっていますが、その本質はかなり簡単です。互いに規定し合うことにより成り立つ循環、ネットワークであり、外のない内を本質的に回避することは不可能です。これは岡潔が云った第1の心の特性だからです。

自然 > 物質的自然(外のない内)

これ(循環)を当面の間回避するには、別の次元軸を考える以外にありません。それは既出です。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 物質と運動は、一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 時の現在と過去は、一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 物質はエネルギー[ML2T-2]に転換するし、逆にもなるというが、本当は一つの実体の異なる面に過ぎない。

但し、運動は時間を含まない「事」の総称。運動の一形態として速度、加速度、波、エネルギー[ML2T-2]などがあります。波の一つにソリトン(孤立波)があります。ソリトンには素粒子が含まれます。ですからソリトンである素粒子の質量をGeV/c2として計算するのは間違っています。

ついでながら、時の現在がわかるのは第2の心です。時の過去がわかるのは第1の心によります。これをヲシテ文献ではタマ+シヰといいます。運動は過ぎてからしか知り得ません。時間は過ぎゆく運動の記憶を元に人が抱く観念です。だから、時間は時の過去です。ですから、時間を用いた 自然科学 は決定論になり得ません。

 

よく考えたら、時間を光速度cに置き換え、光速度をすべての基準に置けば、理論値と実験値を合わせていけるような気がします。ただ、結局のところ、何も説明し得ないはずです。 余談です。変数や粒子にふざけた名称が多いのは、本質がそこにないからだと感じます。カラーとかチャーム、ストレンジなどです。量とはいいながら実は量ではないだろうということです。五感でわかるものとは何の関係もない量というのは、ちょっと傲慢に感じます。

 

光速度をモノサシにするのではなくて、モノサシを別の次元軸に求めるべきです。これで循環・ループ・ネットワークを(当面)回避できます。

写真2 相対論は空間内に光速度というモノサシをおいた。これは×。

写真3 本当は空間に直交してモノサシを置くべき。

 

よくよく考えたら、「匙はスプーン、スプーンは匙」の図は、かなり本質を突いていると感じます。

図2 何処まで説明すれば事足りるかが問題。

写真4

人は、これが何であるかを言葉でわかっているのではありません。「【4】何故見えるのか

この眼を開ければ何故見えるのか、ということについて、西洋の学問は何一つ教えてくれていない。西洋の学問のうち、この方面を受け持っているのは、自然科学、さらに詳しくいえば医学です。医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。

しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。

岡潔は「(どこかに故障があれば見えないというのは)目をつぶると見えないと言っているのに等しい。」とも述べています。

AIに写真4を学習させて、「スプーン」という言葉を答えさせたからと言って、AIが写真4を何であるか「わかっている」訳では決してありません。繰り返します。人は、写真4が何であるかを言葉でわかっているのではありません。人が持つ「わかる」の本質は第2の心(ヲシテ文献のタマ)にあります。この部分が自然科学に決定的に欠けています。


 

これまでに、少なくとも2種類の加速度があるはずと踏んでますが、それに対応するだろうポテンシャルがどういったものなのかわかりません。電磁誘導と単極誘導は別の現象なのに起電力に区別がありません。似たものに重力の加速度遠心力の加速度があります。同じ加速度として区別がありません。どこかでつながっているはずです。単極誘導と重力は同種の何かであることは、研究当初から感じています。しかし、事はそう簡単ではありません。2つか、それ以上ある加速度とポテンシャル、それに(4種ある)発散トーラスとの関係がわかりません。E軸上の実体が投影されたときのM軸上での形状が発散トーラスです。正と負?(NとS?)の発散トーラスを組み合わせると楕円双極になります。これが単極誘導に極めて近い形状をしています。う~わからんです。

わかっているのは、現象のすべては差分です。電気と磁気は一つの実体の異なる面に過ぎません。電磁気現象でさえ何かと何かの差分だと考えています。単極が運動するとき双極として表れます。単極と双極は一つの実体の異なる面に過ぎません。発散トーラスは、基本は双極ですが、片方の極が発散(位置を持たない)状態にあり、単極のように振る舞うと考えています。面白いことに、ミクロな形状が寄り集まってマクロな現象になっているようです。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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