ヲシテ文献の” ヰクラムワタ ”の「ムワタ」とは何なのか?

ヲシテ文献にある” ヰクラムワタ ”について、ちまたでは五臓六腑と解されていますが、まったく違います。管理人がヲシテ文献の存在を知ったのは2015年頃で、最初から気になったのは以下のところでした。

  •  ヰクラムワタネコエ ワケ フソヨニカヨイヨソヤコヱ

”ネコエ”は、言葉の最小単位で、人が聞き分けられる”音素”のようです。いわゆる発音記号にて表される音韻です。”フソヨ”は24で、”カヨイ”は折り返しのことです。つまり、24×2ということです。それで”ヨソヤ:48”の”コヱ”で、48音韻となります。

このヨソヤコヱ:48音韻は、日本ヲシテ研究所の池田満氏により図にされています。

図1 出展:日本ヲシテ研究所

48音韻は、人の感覚でわかるを5つの母音と10の子音に分けています。5×10から2つ差し引いて48音韻です。

で、人の感覚でわかるのは、物と事なのですが、人の肉体に備わった器官からの刺激は、単に刺激でしかなく、言葉にすると48音韻に落とせるという意味になります。

自然科学では、自然はわかりきったものとして扱われていますが違います。自然をあらかじめ規定することはできません。(言葉は互いに規定し合って成り立つ循環・ネットワークだからです。言葉は外のない内です。人の思考自体が”すべてを覆っているが、外へは一切出ていない”からです。このことを知る人はほぼいません。)

岡潔は「情・知・意」の順に働くとしました。器官からの刺激の前に、”何となく趣がわかる”という第2の心がなければ、一切は存在しません。まず心が2つあって、その上で、器官からの刺激があります。そうして物と事を音素に配列するというのが言葉の始まりです。

ところが、ヲシテ文献には、岡潔が言った”情”のさらに詳細な記述があります。それがホツマ辞典:池田満著展望社刊のP225にある「心の仕組み:イツイロノハニモテツクルモリノカミ ミメカタチ」です。詳しくは辞典を参照ください。

図2 「時」による分類

ミヤビはナサケヱダとアワレヱダによりできています。これは隋心であり、時の時制を意味します。ナサケヱダが岡潔の言った情(時の現在)に相当します。映像に例えるならば、「静止画がわかる」です。アワレヱダが本居宣長の「もののあわれ」をヒントにすると、(時の過去)に相当します。映像に例えるならば、「動画がわかる」です。動画がわかるためには「記憶」が必要です。言い換えると情報を蓄える機構が必要です。これはとても重要です。情報を蓄えるにはわずかばかりのエネルギーが必要だからです。つまり、2つの心があっても、肉体に器官が必要なだけでなく、記憶を蓄えるために肉体が必要なのです。心は心だけで成長することができません。

因みにヲシテ文献のヒトとは、数の「・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナナ・ヤ・ココ・」ですから、ヒトとは経験を積んで成長する存在だということです。

ヲシテ文献で(カミ)とは、「つながり。もたらし、生じさせる。」でした。これにフトマニのア・ウ・ワを入れ込んで、カミとは「アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。」になります。だから「ヒトハアノモノ」なのです。

ヒトハアノモノ

写真1 出展:ヒトハアノモノ(池田満氏書)

さて、冒頭のイクラムワタの「イクラ」についてです。昨年、仏教の唯識について学び検討する機会がありました。その内に、「クラ」には「蓄える」という意味があると教えていただきました。仏教より早い時期に成立したヲシテ文献において、”クラ”に「蓄える」という意味があるかどうか疑問ですが、意味は通じます。 5つの器官からの刺激5つの記憶(5つのクラ)としているならば意味がわかります。図2で言えば、時の過去です。

まず、肉体に備わった器官からの刺激により、何となくその趣おもむきがわかります。これが岡潔の言った””の働きです。と同時に時の現在(静止画がわかる)を意味します。それを器官の数の分だけ蓄えるということです。で、5つのクラ(記憶)になります。だから、動画がわかる(時の過去)ということです。

 

イクラムワタのイクラはわかりました。では、ムワタは何なのでしょうか?思い当たるのはG・アダムスキーが言った5+1です。

感覚器官は5つです。視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の5つです。G・アダムスキーは触覚を(touch と feel)にわけました。それぞれ(確かsense mind と soul mind)と呼んでいたようです。それで、feelが5つの感覚の下支えしていると説明しています。

  1. 視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚(touch)
  2. 触覚のうち、(feel)

2.が1.を下支えしているという構造です。岡潔の1+1=2という分類と同じです。

つまり、feelがなければ、一切は存在しないということです。これは岡潔の”情”とまったく同じですし、善導大師の”覚”とも同じです。 時制で言えば時の現在です。

で、もしかしたらムワタ(6つのワタ)は、G・アダムスキーの5+1を言っているのかも知れません。イクラは時の過去(並びに記憶)です。するとムワタは時の現在を意味することになります。イクラは5つの記憶ですが、ムワタは、もしかしたら「ナサケヱダ」の言い換えになるかも知れません。というより、ムワタが先にあり、その後、隋心としてナサケヱダとして整理されたと考えた方が自然です。 ヰクラムワタ の後に、隋心であるミヤビ(ナサケヱダ・アワレヱダ)として整理されたと考えると理路整然とします。

 

AI(人工知能)の研究には身体性が関係するとどこかで読んだ記憶があります。ヒトも同じです。 まず、アとワがあり、ウ(渦:物質)がもたらされます。そうしてアがヒトを生じさせます。ですから、ヒトの心があって、その働きをもって成長するためには、どうしてもウ(渦:物質)でできた肉体が必要なのです。第1の心(ヲシテ文献のシヰ【生命維持の欲求】)はウ(渦:物質)に近いところにあります。そう感じます。

” ヰクラムワタ ”を五臓六腑と解釈するのはまったくの誤解です。アワウタを唱えるとよいとされるのは、専ら48音韻が心の仕組みと働きに合致しているからです。逆です。心の仕組みと働きにそった音素配列を選んだのですから。

 

最後に、48音韻は12の倍数です。自然が別の次元軸からの投影ならば、投影角が問題だと再三述べてきました。E軸-M軸での投影角です。当たり前ながら12進数が最適なはずとの考えを持っています。ですから、合理的に出てきた48音韻(ヨソヤコヱ:アワウタ)が12の倍数ということが、どこかで自然が映像であることとつながるような気がしています。超合理です。 自然科学の泥縄式よりはるかに合理的です。

 

Follow me!

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  

Φ について

2010年より研究しています。
カテゴリー: 解説 タグ: , , , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA