言葉は 自然 を篩(ふるい)にかけるフィルター

自然 を予め規定することは出来ません

岡潔は 自然 科科学者が考える”自然”について、次のように述べています。【3】五感でわかるものより。

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。

ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。

これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。

「五感でわからないものはないとしか思えない」というのを唯物主義と言います。その上で、自然科学者は 自然 をわかり切ったものとしていますが、この(わかり切ったものと決めてかかった)自然を(時間・空間)としました。しかし、これは「自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型」だと言いました。つまり少なくとも自然科学者のモデルは「自然>模型(時間・空間)」であるということです。

 

同時に、数学を含む言葉は、互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ネットワークです。度々例えてきた匙とスプーンです。

写真1 上は、スプーンであり、スプーンは洋風の匙

図1 言葉は循環・ネットワークかつ外のない内(人は物と事を言葉でわかっているのではない)

岡潔は「情・知・意」の順に働くとしました。写真1が何であるか、何となく趣おもむきがわかります。次いで、知として”スプーン”だとわかります。最初の趣がわかるのは”情”の働きによるわけです。

で、このは知識であり意識です。これは図1のような「外のない内」です。インターネットが普及してかなり経ちました。どのような知識であれ、ネット上に公開されていれば誰でも検索できます。また、誰でもネットが循環(繰り返し)であり、時には再帰的であり、外のない内であることがわかります。

しかしながら、専用線内にある組織の情報であったり、個人の写真であったり日誌などがネット以外に存在することは周知の事実です。ですから誰でもネットが外のない内だと容易に理解できます

 

図2

時には現在と過去があります。【5】情のと特色より。

情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

「新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される」と言います。「情的にわかる」というのが時の現在です。そして、新しい現在が古い現在に変わり、その古い現在が過去になっていきます。その過去がわかるというのが「知と意」です。ですから、数学を含む言葉すべてが時の過去ですし、図1のような外のない内なのです。

 

宇宙を観測しようと素粒子を観測しようと、知と意の領域は既に時の過去であって、外のない内です。つまり、冒頭述べたように自然を予め規定することは絶対に不可能です。

言い換えると言葉で言える段階で既に自然をフィルターにかけたのです。これは自然そのものではありません。永遠に。

自然 > 知識と意識

逆に言えば、”自然にはフラクタルに相当する現象がある”というのは、知と意がその内に持つ特性(フィルター)により現れていると言い換えることができるかも知れません。

 

図3 

観測の限界には2つあって、極大においての限界はたぶん外のない内だろうと考えます。もう一つの限界は極小であって、その限界は”近似の限界”であり、行き着く先は”抽象”であるようです。

既に最先端物理学は検証が不可能な理論であり抽象に過ぎません。 右端は”外のない内”で、左端は”抽象”となって行き止まりです。

このような限界の意味を正しく理解するには自然は映像だとする以外にはないと感じます。【3】西洋の唯物主義より山崎弁栄上人の言葉を引用しています。

本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。

また、【5】自然は映像とも言っています。

自然は映像である。映像といえばテレビのようなもの、この映像は第2の心の世界の深部—深いところから映写されているのである。自然には阻害性というものがある。つまり自然はテレビと違って、堅さとか、抵抗とかいう阻害性がある。

 だから映像とは受け取れない。そういう人があるかもしれないが、人に知と意志との2つの属性があるように、第2の心の世界にも知と意志との2属性がある。その知があらわれて、色、形、音、匂い、味、そういうものになる。意志があらわれて阻害性となる。で、やはり阻害性はあっても、それは映像である。

岡潔は自然が映像であるとほぼほぼ認めています。では、岡潔はなぜ、自然が別の次元軸からの投影による映像だということを探求しなかったのか疑問です。

 

下線の部分はかなり意味深です。2015年頃にヲシテ文献の存在を知り、最初からこだわった部分が以下です。

  1. ヰクラムワタ ヲ ネコエ ワケ フソヨニカヨイヨソヤコヱ
  2. ヰツイロノ ハニモテツクル モリノカミ 、 ミメカタチ

この2つの文は、いずれもホツマ辞典:池田満著展望社刊p226にある「ヰクラムワタヲの構成表-1」に示されています。

ヨソヤコヱが日本語の起源となる48音韻:アワウタです。このヰクラムワタ(5つのクラ)とムワタ(6つのクラ)が下線部分の”その知があらわれて、色、形、音、匂い、味、そういうものになる”に近いか、あるいは同じではないかと感じられます。

そのヰクラムワタから出来たのが人の感覚でわかるです。その物と事を5つの母音と10の子音にわけたのがヨソヤコヱ(アワウタ)です。

図4 出典:日本ヲシテ研究所

管理人はイツイロとヰクラムワタの意味にこだわりました。本当にこだわってきました。過去記事を”ヰクラムワタ”で検索すると28件出てきました。初発の記事は2015年12月でした。本当にながかった。

 

因みに物が時の現在で、事が過去です。弧理論で言えば物質mと運動です。

  • 時の現在と過去は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 物質mと運動は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 第2の心と第1の心は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • ナサケヱダとアワレヱダは一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • タマとシヰは一つの実体の異なる面に過ぎない。

弧理論(Ark Theory)はE-M軸の位相問題です。ただし、E軸が別の次元軸で、M軸が空間、物質的自然です。そして、2つの心の起源はE軸上にあると考えています。その仕組み(ウ・渦:xy平面での回転運動)の結果、身体の頭付近に接続点があると考えます。

図5 E軸は運動Pに直交する。身体を構成する物質にxy平面内での回転運動Pがあれば、z軸にE軸が重なる可能性がある。その接続点が脳と下腹部と考えられる。

まず、第2の心で物がわかり(静止画がわかる)、次に第1の心でその動き(動画)がわかるという順です。当たり前のことですが、静止画を記憶していなければ、動画はわかりようがありません。第2の心がなければ一切は存在しません。シヰ(生命維持の欲求)に記憶の働きがあると見込みますが、ハードはありませんので処理系としての肉体(脳)が必要です。その意味でシヰと物質で出来た身体は近い関係にあるはずです。

 

岡潔の”情”の訓読みは”ナサケ”です。本居宣長の”もののあわれ”がアワレヱダに相当します。別の言い方。

  • 岡潔の情が時の現在に対応する。(静止画)
  • 本居宣長の”もののあわれ”が時の過去に対応する。(動画)

先の池田満氏によるホツマ辞典によれば、ナサケヱダとアワレヱダを合わせて、ミヤビといいます。これによりヒトが社会性を持つとされますし、記憶も司るとあります。

バッチリ突合します。この整合性に気付いたのは2017年頃だったと記憶します。ヰクラムワタの関連記事です。

 


ついでに、言葉(ヨソヤコヱ)のフィルターで抜け落ちるのがオカルトやスピリチュアルなもののようです。あるいは超越的な何かであったり、抽象に過ぎない何かです。最初から神の字義に相当する何か、をヨソヤコヱのフィルターはスルーパスしています。意図的にヲエモノ(魔物)をパスしています。

あまりに複雑(抽象的)な事を考えすぎると心を病むらしいことがわかっています。

如何なる論理も言葉ですから、循環・ネットワークになるのは必然ですし、行き着くところ、抽象なのです。だから、心の本体本題であるタマと論理を司るシヰの2つの心が乖離します。その結果、心を病むのです。だからといって、日本人が抽象的な数学を苦手とする訳ではないようです。(誤:本題 正:本体 訂正します。)

脳の記憶容量が大きくて応答がよければ偏差値が高く優秀だとされますが、一概には言えないようです。数学などによる緊張と集中の行き着く先が抽象に過ぎないのは大きな無駄です。図3の赤い括弧で括った我々にとって”具体”がどのような仕組みで映像として現れるのかが真の問題だと認識しています。それをE-M軸の位相として考えようという訳です。それが弧理論です。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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