宇宙 物質的 自然 は”一筆書き”

前回までで、大和言葉の起源であるヨソヤコヱ(48音:アワウタ)のできる過程のおおよそがわかりました。

図1

人の肉体に備わった器官でわかるのは物と事です。物と事を時制(現在と過去)にわけて、ミヤビとしました。「わかる」は、5+1とわけられ、過去については5つのクラ(記憶)となります。それぞれ物と事を音素(ネコヱ)に割り振ってヨソヤコヱ(アワウタ)ができます。

図2 出展:日本ヲシテ研究所

「どうも 自然 (岡潔の言う物質的 自然 )あるいはM軸(物質空間)は、一筆書きである」という記事を書きました。一筆書きという考え方の新たな視点がありますので、メモします。

最初の発想は2018年ころだったようです。組みひもを例に出しています。

写真1

前回までで、人の肉体に備わった器官でわかるのは、物と事であって、物と事を5つの母音と10の子音に割り振ったのがヨソヤコヱ(アワウタ)でした。

ヰトシフユ ヲハハカマキル
メハカツキ コトハオナオス
アワウタオ ツネニヲシヱテ
カハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤ

アワノウタ カタカキウチテ
ヒキウタフ オノツトコヱモ
アキラカニ ヰクラムワタ
ネコヱワケ フソヨニカヨヒ
ヨソヤコヱ コレミノウチノ
メクリヨク ヤマヒアラネハ
ナカラエリ

ヒトがわかるのは、の初めのから、の終わりのまでです。それこそ、すべてが含まれますが、それより外へは決して出ていません。(外のない内:ネットワーク)です。

コトハ(言葉)には、数学もあらゆる理論も宗教の教義も思想信条、自由主義や共産主義を含む主義や主張も含まれます。それはすべて繰り返し、循環でありネットワークです。それ故、人は言葉でわかっているのではありません。これを忘れないでください

 

物理学者たちは、彼らの理論における数式の内に、ひもループネットワークを見ています。それはいずれも超微細な空間の部分である素なる領域においてです。

昨日、動画を見ていたら、安江邦夫氏が素領域理論の定式化についての話を湯川秀樹氏に由来するという””の話を語られています。16分ころからです。

動画1

大和言葉の起源であるヨソヤコヱ(アワウタ)は、すべてを含みます。だから、湯川氏の”泡”という考え方も安江氏が作った安江方程式もアワウタの内に帰結するのです。

つまり、すべてはアとワの内にあり、一筆書きのようであると同時に、アはワの如しであり、ワはアの如しなのです。繰り返しでありループです。そして、アは決してわかりません。(それもこれも、現在である物過去である事は、同時に決められないからです。)

彼らは、方程式の内に開いたひもや閉じたひもをイメージしています。

図3

彼らは、方程式の内にループをイメージしています。

図4

そして、湯川氏と安江氏は、彼らの方程式にをイメージしています。

肝心なこととして、数多ある彼らの理論の間に何の共通点もないことです。とても、統合できるものではありません。しかも、彼ら自身こそ、唯一の理論と信じています。サイト内をカルロ・ロヴェッリで検索ください。

 

しかし、「四次元時空を分割不可能な最小領域(素領域)に区分する」という発想は無意味です。何故なら、時間は量ではないし、空間とは何かを定義していないからです。空間は自明ではありません。サイト内を境界空間で検索ください。

gif1 弧理論による空間の模型(境界は量的質的に無い。本当にあるのは水と油。→空間に拡張したのが境界空間の仮説)

弧理論の前提として「自然は別の次元軸(E軸)からの投影による映像(M軸)」があります。自然はM軸だという意味になります。これで、空間が定義できます。それが境界空間の仮説です。で、岡潔の言った通り、「空間は量的質的にありません」から、弧理論の前提通りならば、彼らの言う素なる領域などありません。イメージは近いけれど、意味がないのです。かれらの理論は抽象です。

繰り返します。物の初めであるアから、事の終わりであるワによって、できているアワウタは、すべての理論や教義や主義のすべてを包含します。例えれば一筆書き、ループ、あるいはアワ(泡)です。泡の要素は泡自身にはありません。境界空間だからです。弧理論によれば、アワの起源はウ(渦)にあります。それと、自然が映像ならば、近接作用はあり得ません。サイト内を近接作用で検索ください。

 

余談です。日本語の起源がわからないようです。数千年の間に渡来人が何回か大量に渡ってきましたけれども、あらゆる要素を含みながらも基本的な形を変えずに日本語として成り立っていることに不思議があります。

動画2

何があったかについては、三書(記紀とホツマツタヱ)を比較された池田満氏の言う通りヲシテ文献が正しいと思います。定本〔ホツマツタエ〕―日本書紀・古事記との対比

日本語は堅いと記事を書いた記憶があります。その堅さは、本記事のとおりです。如何なる宗教(の教義)もアワウタの内です。ですから、アワウタの内に、すべてが帰納することによって、新しい科学が創れるのです。自然が映像ならば、アワウタは科学です。ヒトの心をどう扱うかの問題もアワウタならば、スマートです。

日本語以外に、物と事を言語の基本構造に持つ言語があるならば、ご教示いただけますと幸いです。

 

追記11/2 以前、多用した例です。これは何かと問われたら。

写真2

スプーンと答えます。辞書でスプーンを調べたら、西洋式とあります。西洋式と匙を調べます。西欧と北米とあり、粉や液体を救う小さな道具、スプーンとあります。スプーンは匙で、匙はスプーンです。西欧と北米を調べます。粉を調べます。液体を調べます。掬うとは何かを調べます。と、延々と続きます。以下を図にします。

図5

辞書には「スプーンは匙で、匙はスプーン」という循環があります。辞書を調べるという行為に終わりがないことに気づきます。図5を厳密に定義したうえで、地球上の全情報を入れ込むネットワーク図を作ることは、原理的に可能です。これが岡潔の言う「すべてを覆っているが、外へは一切出てない(外のない内)」です。

管理人は、図5に示した繰り返し循環ネットワークと”外のない内”を読み取りました。このことと、物理学者たちが100年を費やして、たどり着いた方程式から得た彼らのイメージ「開いたひも、閉じたひも、ループ、ネットワーク」は、図5の基本的な性質と何ら変わらないのです。

写真1や元素や素粒子をブラックボックスとして、還元主義(わけることによりわかる)という方法のもと、探求していった結果は、図5から一切出ていないのです。これが第1の心の限界です。ここに、宇宙 自然が一筆書きに思えてくる根拠があります。

言い換えると、ヒトは物や事を言葉でわかっているのではないのです。「わかる」の本質は岡潔の言う第2の心(ヲシテ文献で言うタマ)にあるからです。

実は、物理学者たちの中に、方程式から”泡”をイメージする人がいるはずと考えていました。湯川氏がどのように泡という発想を抱いたか気になります。ただ、空間の特性を考えると泡(アワ)に行き着くのは当然のことと考えてきました。もしくは球体(タマ:玉)です。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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