何故、誰も 科学 を統合しようとしないのか?

手元に、”数学の大統一に挑む:エドワード・フレンケル著”という本があります。また、物理学においても自然にある4つの力を統一しようと努力が続けられてきました。

図1

ところが、 科学 の全体を俯瞰して、科学の行く末について考えている人がほとんどいません。このことについて、いつも引用するある 科学 者は次のように述べています。

我々は君の国の多くの一流科学者の精神を調べてみたんだ。大抵の場合、我々は科学者たちの精神が既成概念という鋳型で固められていることを知った。彼らは遠くまで進みすぎている。その結果遠い道のりを後もどりしなければならない。私の言う意味を比喩によってもっと優しく言ってみよう。科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。

基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

人類の進歩を木を上るアリに例えています。遠くまで来すぎたことを指摘しています。注意すべきは、科学者たちが”上りすぎた”のではない”遠くまで進みすぎた”ということです。アリの視野が狭すぎて木の全体を見渡せない状態であって、上へ上っているのか、はたまた横、あるいは枝の端を下っているのかもわからないと指摘しています。

図2 大きく観ると進んできた枝は10進数による文明

 

これまで参考にした資料にて考察した結果、我々が科学している”自然”は、概ね次ぎようです。

  • 自然は映像である。

右側ガジェットの自己紹介にあるように幾つかの資料文献から考えるに上記を少し具体的に言います。

  • 山崎弁栄上人が言うように本当に実在するのは2つのだけ。
  • 自然は、心が在るために別の次元軸(E軸)からの投影による映像(M軸)である。
  • 2つの心は(たぶん)E軸上にあって、E軸上の何か(実体という。)が投影されている。
  • 実体は投影によって、M軸上に(運動)として現れる。
  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。E=mcは間違い。
  • 岡潔の言った第1の心によって、物と事を言葉で言い表せる。
  • 言葉は互いに規定し合って成り立つ繰り返し、ネットワーク、かつ”外のない内”である。
  • 言葉には数学を含む。
  • 人が言葉にて思考するすべてが”外のない内”である。これが第1の心。
  • だから、岡潔の言ったとおり、自然科学者が研究の対象とする自然(時間空間)のすべてを覆っているが、そこから一切出ていない

 

古代文明の時代から言葉はありました。つまり、古代の人たちも言葉の持つ特性、イコール心の仕組みと働きについて考えてきました。”文明がはるかにおくれた古代だから、古代人の考えは愚かだ”という考えは間違っています。

先日の記事、2022年4月27日 岡潔が伝えたかったのは” 悟り ”だったのか? において、湯川秀樹氏による弟子の叱責について管理人は不愉快だと書きました。以下、中村誠太郎著「私の歩んだ道」にある当該箇所を引用します。

研究員の一人が、「何と言っても、湯川先生よりオシャカさんの方が偉いと思う。」と口をすべらせた。

湯川教授は、「文明の最先端の基礎科学を研究している者と、古代文化の中の偉人といえども文明ははるかにおくれた時代の人との価値が分からんのなら、研究室にいる資格がない。明日から、もう大学へ来なくてもよろしい」と大へんな不機嫌であった。翌日、坂田先生が取りなしてくださって、事なきを得た。

先般の記事のエピソードを管理人が覚え違いしていました。お詫びして訂正します。湯川氏がお釈迦様を下に観て弟子を叱責したという内容は同じでした。

ある科学者は、”基本的な真理はかんたんだ”として、「幹の上からながめれば枝は、”枝”としてかんたんな理解の容易なものになる」と指摘しています。つまり、第1の心(意識を通し言葉で言える:わけることによりわかる。)の仕組みと働きについて考えれば、古代の人であっても、「如何なる思想、哲学、理論も互いに規定し合って成り立つ繰り返し、ネットワークであり、外のない内」から出ることはないとわかるのです。文明は時間の経過とともに進歩するという考え方は間違っています。

 

以前ご紹介した例を再掲します。匙とスプーンの関係です。これは何かと問われます。

写真1

辞書で調べて、次図を得ます。

図3

上図左下の”物”とは何かというのが物理学者たちの課題です。行き着いた先は場の理論であったりします。しかし、結局のところ、理論に繰り返しやネットワークが出てきた段階で行き止まりです。それは匙とスプーンの関係に同じです。

  • ループ量子重力理論 スピンネットワーク
  • 超ひも理論

図4 出展:高次元世界で弦を奏でる「超弦理論」

図5 出展:超弦理論とブレーン世界

 

ただ、匙とスプーンの関係と上記理論と異なるのは”物”が具体か事の抽象かの違いです。(注:スプーンと匙は物ですが、場の理論などは事の抽象です。)図からわかるとおり、そのまま繰り返し”ループ”であったり、ネットワークです。これは言葉の成り立ちそのものであって、例え実験と理論が合致していてもその全体は抽象に過ぎません

これまで、記事で述べてきたとおり、文明の全体は抽象に向かっています

人がわかるのは物と事です。ところが自然科学には物と事という区分がありません。例えば、7つある基本量(基本単位:”長さ”、”質量”、”時間”、”アンペア”、”熱力学的温度”、”光度”、”物質量”)の内、角度から作った時間は量ではありません。(角度が量ではないから。)

  • 岡潔 (自然科学者は)運動は時間に比例して起きると勝手に決めてかかって、そういう時間はあるとして、時間はわかると思っている。
  • 岡潔 時間という計量的なものはない。
  • 岡潔 時間は人が抱く観念の一つに過ぎず、時の過去で現在を含まない。

その他の基本単位も物の量ではなく、事の質である場合があります。このことは検討の必要があります。

人がわかる”事”の範囲を大きさのスケールでみます。

図6

宇宙の半径(1027m)とされる極大の領域もプランクの長さ(10-35m)とされる極小の領域のいずれも、ではなくの範囲です。第1の心でわかる範囲は事(運動の詳細であって、いくらでも理論化できます。しかし、冒頭のある科学者が指摘しているように「心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいている」というのは、人がについて考え得る限界だということです。

図4と図5は本質的に図3と何らかわりません。このことに気づくことは、はるか以前に可能です。だからこそ、冒頭の湯川氏による弟子の叱責はお門違いであり、不愉快なのです。お釈迦様は言葉の本質(心の成り立ち)に気づいていたはずです。お釈迦様の仏や善導大師の覚、あるいは如来の意味などから推測できます。特に如来は”繰り返し:ループ”から来ています。

 

ことあるごとに自然科学には基礎がないと指摘してきました。岡潔が言ったように、時間空間は、簡単な模型であって自然そのものではありません。時間も空間も自明ではありません。(空間については、右欄の検索窓で”境界空間”という仮説について検索ください。)

実のところ、管理人はゲージ理論も場の理論、超ひも理論も勉強していません。勉強しなくてよいなどと言っていませんけれども、数学を含む言葉の本質的に気づけば、それら理論の行き着く先がわかるのです。例えば、唯識について調べていて、”繰り返し”が現れると聞いて”即納得”したのは、先に言葉の成り立ちを知っていたからです。

繰り返します。如何なる思想 哲学 主義 主張 神学 理論などの学問や知識のすべては、互いに規定し合って成り立つ繰り返しでネットワークで、かつ外のない内です。ですから、如何なる実験も観測も、人の思考の内からでることはありません。(宇宙は外のない内という意味。)弧理論も例外ではありません。

 

詰まるところ、自然 科学 に基礎となるものがない以上、科学の全体を俯瞰するには基礎となる部分(心の仕組みと働き)について知る以外に方法はありません

書いてよいか迷いますが書きます。ブログランキングに登録しています。中に「ユニバーサルフロンティア理論」というのがあります。何かはわかりませんが、おそらく物ではなく事について書かれているはずです。その理論に繰り返しが出ていたならば、既に行き止まりです。素粒子群は、粒子とは名付けられていますが、物ではなくて事(波の一種で孤立波)です。物と事は一つの実体の異なる面に過ぎません。自然が映像ならばという条件付きですが。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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