如来については、数年前から考察を続けてきました。既に107件の記事があります。
それで、漸く 如来の本質 がわかったと言い切れそうですので解説します。
インド人の数学の成果
仏教での「数」
仏教について、考察すると古代からインド人が数学に対して強く惹かれてきたことがわかってきました。その表れが仏教にある「数」です。例によって、Google AIに訊きました。
Q:仏説阿弥陀経に「数」の表記は幾つあるか。
正確な箇所数は、漢数字(一、二、三…、百、千、万、億、那由他など)をどこまでカウントするかによって変動しますが、数十箇所(概算で50~60箇所前後、あるいはそれ以上)存在します。
特に「数」の表記が多い特徴的な箇所は以下の通りです。
・「百、千、万、億、那由他」の多用:
極楽浄土の荘厳(七宝の池、宝の欄干、蓮華の大きさなど)や、そこに住む人々、諸仏の数を表す際に、「億」「那由他」といった大きな数字が頻繁に用いられます。
・「十方」の仏(四方、上下、四維):
あらゆる方向(十方)から諸仏が阿弥陀仏の功徳を讃嘆することが説かれます。
・「一、二、三、四、五、六、七」:
・「七宝(しっぽう)」「七重(しちじゅう)」など、宝の七つの層や、七つの要素が列挙されます。
・「一日、二日…七日」:
お念仏を唱える期間として「七日」という期間が具体的に挙げられます。
AIによる回答には、『阿弥陀経は、言葉で表現しきれない極楽浄土の素晴らしさを、私たちの理解できる具体的な「数」を挙げて表現しているため』とあります。
もう一つの「数」
仏教の数への拘りは須弥山に現れています。
図1 須弥山
- 2025年8月28日 ビッグバン宇宙論と仏教の宇宙観(須弥山)は同じ
海の広さ、陸の大きさ、山の高さに加えて時の長さを時間として途轍もない「数」として表しています。図1の上半分に示されているのが時間の長さです。
行き着いた先が「如来」の仕組み
古代インド人は、自然というか宇宙の全てを数で表そうと苦心の末に行き着いたのが、如来の仕組みです。如来は仕組みであって、働きはありません。
因みに根源的な働きは”わかる”という人の心だけです。
そして、如来のそれは、数を追い求めた結末でもあります。
- 自然をどうしても数で表せない。量れない
- a-mita-tathagata
- 否定-量る-漢訳(如来)
- 阿-弥陀-如来
- 阿弥陀如来(如来は量れない)
如来の型
いろいろ考察を経て、如来には型(あるいは形)が3つあるとわかりました。当然のこと、これら如来の型において、「量る」ことは出来ません。

図2 左は往復(振動) 右は異なる経路による循環(ループ)
如来の仕組みにおいて、2つの型(図2の往復、循環による繰り返し)は、比較的早くわかっていました。そして、3つめの型があるとわかりました。

図3 再帰(自己を呼び出す)
3つめの型は再帰(リカージョン)です。これに関係するのがフラクタルやマンデルブロ集合です。
これらをまとめたのが、次です。
- 2026年1月4日 如来 に精神性は含まれていない
- 2026年1月28日 如来 は事であり、その型は3つある
要は、
- 如来は仕組みの事であり、その型は3つある
と言うことです。それで、
- 如来は事であり、抽象だから
- 物事に意味づけ出来る
- 物と物の関係性において
- 意味づけ出来る
- 如来の型、あるいは形が3つある
と言うことです。ここで、大事なのは循環(ループ)による如来です。
- 大事なのは整数の「3」
意味づけ出来る最小の数
如来は、次のように表現されます。
- の如し、の如し、の如し・・・・
- のような、のような、のような・・・・
あるいは、次のように例えられます。
- 鐘が鳴るか撞木が鳴るか
- 合わせ鏡
これらの例え話には、確かに「量れないし、数えられない」何かですが、同時に仕組みであって、信仰の対象になる何かはありません。如来は単なる事の仕組み、構造に過ぎません。
ですが、管理人の考察によれば、上記の通り、如来の仕組み、型(形)には3つありました。これをどう考えるかです。
如来には、上記の通り「往復(振動)」しか語られていません。ですか、どうも如来の本来の型は(循環、ループ)であるようです。図2に示す右側です。
つまり、最低、3つの結節点(これをブラックボックスと言います。)があると言うことです。これが如来の仕組みによって、
- 物と物の関係性に意味づけ出来る最小の数です。事の仕組みです。
この整数3には思い当たることがあります。
自然科学の限界
これまでの考察によって、自然科学にある幾つかの問題があって、限界があるとわかっています。
- 数学を含む言葉は、有限な記号、有限な音素(母音と子音)の組み合わせに過ぎない
- だから、知識はネットワークであって、必ず閉じている
- どのような思想、主義主張であっても、優れた理論であっても例外は無い
- 人の意識は、言葉の上にある
- 意識は広がりを持つが、基礎となる言葉は閉じている
- これを「外のない内」と言う
これまでに、AIとのやり取りでわかったのは、次です。
- 自然科学は、運動から作った時間と空間を起点に進めてきた
- 自然科学や物理学の全ては循環となっている
- それでも、究極にある(と思われる)物(素粒子)の質量は求めることが出来た
- だがしかし、GeV/c2には時間が含まれる
- ヒッグス場、ヒッグス粒子はトートロジー(同語反復)との批判がある
- 結経、時間が含まれているから物の量はわからないとの結論に至る。(但し、表向きはこれを認めていない。)
- ここで、プランク定数はわかった。これにも時間は含まれている
- この定数は、観測可能な一定の値である
- この定数は、事、動きを示す最小の値
- 物理的に意味のある値を得られたのは偶然ではない
- だから、例え全体が循環であるとしても
- 循環だとは認めない
- ついでに、空間を記述するには角度を用いるが
- 角度は3の倍数ではない。πはより高位の抽象だから
どうも、世の皆が抽象度が高い方がより進歩していると信じて疑わないようです。これは明らかに間違いです。気になる方は過去記事を「抽象」で検索ください。
3の倍数
自然科学、物理学では、角度は3の倍数ではないと結論付けています。しかし、弧理論の立場から考えて、どう見ても「自然は3の倍数」に依ります。順に視ていきます。
- 物と事は別の次元軸(気軸、基軸)上にある何かの投影による映像である
- つまり、物と事は幾つかの実体の異なる側面に過ぎない

図4 物と事の現れ方
(わかる)の順序
このような条件の下、次の順序でわかります。
- 物が”わかる”
- 余(余白)として空間が「わかる」 {境界空間で検索}
- だから、事、動き、運動が「わかる」
- 物と事が揃って、初めて物事に意味づけ出来る。意味が(わかる)
- 物と事を母音と子音に割り当てる。言葉で言える
- だから、物事を意識できる
1.の”わかる”のみ現在(中今)です。それより下は過ぎ去った運動の出来事の記憶に過ぎません。当然、意識は中今を含みません。だから、
- 熱中し、夢中になると時の過ぎるのを気づかない
のです。それで、次の関係があります。
- (わかる:理解)=”わかる”+「わかる」
偶然では済まされない「3」
幾つも3が出てきます。
- 空間は3次元
- 基本粒子(陽子中性子電子)は3つ
- 物と物の関係性は、3である場合に意味づけ出来る(抽象化できる)
これまでの如来の説明には抜け落ちているものがありました。前記の例えを次のように言い換えます。
- 私は、鐘が鳴るか、撞木が鳴るかを聴いている
- 私は、合わせ鏡で視ている
つまり、従前の如来の説明では「私」が抜け落ちています。
- 夫と妻と子
- 私と父と母
3つが揃って、初めて物と事の関係に意味づけによる抽象化がてき、その上で相対性ができます。
- 角度は3の倍数ではない。円周率πの方がより抽象度が高い
自然が映像ならば、これは間違いです。角度が3の倍数であると考える方がより具体的で、有用です。
如来の本質 は、3つある結節点による関係性の意味づけ、仕組みとみるのが正解であると考えます。
現在のところ、物の量はわかりません。本質的に循環だからです。


