仏教にある 如来 の本質については、ほぼ出し切れたと思います。
- 2026年2月19日 如来の本質
ただ、幾つか気になる点がありますので補足します。
如来の呼び方
これまでの考察によれば、如来は仕組みであって、その仕組みは3つあると判明しました。3つある如来の仕組みについて、これまでは如来の型としてきましたが、どうにも居心地が悪くて迷っていました。
そこで、これからは、如来の形と呼ぶことにします。
ですから、如来は仕組みで、その形は3つあります。図は上の記事にあります。
如来の形
- 往復、振動の形
- 循環、回転の形
- 自身を呼び出す再帰の形
この3つの形は何れも仕組みですから、働きはありません。当然、人格性もありませんし、信仰の対象にはなり得ません。
また、阿弥陀如来(a-mita-tathagata:否定-量る-如来 = 如来は量れないと言う意味)の通り、3つの形は、循環ですから量れませんし、決してわかりません。
如来は、関係性と相対性
如来は、互いの関係性と相対性を決める”形”です。
それで、ヒトが(わかる)のは、物と事です。
- 事とは、動き、運動、エネルギーなど
- 波も事の一種である
如来は物と事の関係性と相対性を決めます。
- 物と物の関係性の形
- 物と事の関係性、相対性の形
- 事と事の関係性、相対性の形
これらの関係性と相対性を決める形が3つあると言うことです。
例を挙げます。
「私と貴方、夫と妻、父と子、母と子、男と女、メとオ、歩く(地面と私)、投げる(ボールと私)、掴む(物と私)」などは、一対一で「人物対人物、人物対人」の関係を表します。これが1.の関係性です。
この関係性は、近づくか離れるであって、1.に相対性はありません。
「私と貴方の共通の友達、私と父と母、夫 or 妻 と子」などは、一対二で「人物と人物」の関係性と相対性を表します。これが2.の関係性と相対性です。
以下、複数の「物と事」の間にある関係性と相対性を表す形が3つあって、これを如来の仕組みと言います。これらの関係性と相対性の例は幾つもあります。いろいろな場合を思い浮かべてみてください。
問題は事の複雑さ
紛争の種
地球上にある各種の理論、主張、主義あるいはまた、紛争や戦争の形は、すべて3つある如来の仕組みの形の内にあります。
人の脳、あるいはAI、それとインターネットも、辞書もレポートも論文も、言語の全ては如来にある3つの形(仕組み)による組み合わせに過ぎません。
問題は、上の3.に示した「事と事の関係性、相対性の形」にあります。
会社の人事から、社会の構造に至るまで、すべての互いの関係性と相対性にかかる事の複雑さに際限はありません。
国際社会にある関係性の複雑さは、彼らの歴史と相まって解決の糸口はありません。同じく、数学も物理学も事の複雑さに際限なく踏み込んでいき、極致に達しています。
これらの複雑さに人々の脳は耐えられなくなっています。これが病みとなって現れています。
この記事を書いた頃には、朧気ながらにわかっていましたが、上手く説明出来ませんでした。
「病む」原因は勘違いから
それで、3.に示した物の量と関係の薄い事を抽象と言います。これがくせ者であることは間違いありません。
- ほぼすべての人々は、より高い抽象化を進歩だと勘違いしている
- 物理学において、物の量はわからず、事(運動)の最小の値(プランク定数)だけがわかった
AIの返答によれば「階層の檻」です。階層とはNestです。これは「入れ子構造」でして、3.に示した再帰の一種です。
高い抽象化とは、正に入れ子、階層構造であって、深さに限りはなく、その核には何もありません。あるのは病みです。勘違いです。

図1 タマネギの皮はフラクタル
時間は事
物理学者たちがプランク定数を得たのは、全ての値を波の振動運動に置き換えたからに他なりません。
波は物の量ではなくて、事の質です。
物理学者は、セシウム原子の振動を使って時間を作り、時間を光速度cに置き換えて、これを絶対不変のモノサシにして、循環を断ち切ったのが相対性理論です。

個人的には、相対性理論の教科書を見ても一体何処に「相対性」があるのか、皆目わかりませんでした。
その行き着いた結果が、プランク定数だったと言うことです。
なぜ、言い換えるのか
昔の教科書には、基本量と組立量がありました。その単位としてCGSとMKSと言う2つの単位系がありました。どうも最近の教科書や参考書には基本単位と組立単位となっていて、その単位系をSI単位系として統一されたようです。
気になるのは、「量」という言葉を使わなくなっているのではないか、と言う点です。これまでの考察を鑑みれば、勘ぐってしまいます。
7つある基本単位には、時間(s)があります。時間は「量」ではありません。事の一種、動きから時間を作ります。
- 言葉は要素の繰り返しに過ぎないし
- 出だしを運動から作った時間を「量」としてしまった
- 時間は7つある基本量の一つ
だから、物理学は事の最小の値しか得られなかった訳です。
物理学者たちが上の3つを自覚しているならば、なるべく基本量、組立量という言葉を出したくなくて「基本単位、組立単位」とに使い分けているのではないかと感じます。
最早、数式の遊び
波にもいろいろあります。
- 空気は窒素、二酸化炭素、酸素のなどの混合気体
- 音は空気中を伝わる縦波
- 音には、強さ、周波数、波形(音質)がある
- 音には、雑音、ノイズ、衝撃波、会話、音楽などがある
- 物である空気と楽しいと感じる音楽には関係がない事、抽象である
同様に、素粒子は波の一種、孤立波ですから、その内には強さや、波形があるでしょう。それらの孤立波の性質(質量、電荷、スピン、相互作用、重力)を分類しました。
繰り返しますが、素粒子は粒子と名付けられていますが、事である波の一種です。観測から得られた結果には(物理学者が)美しいと感じる波形があるのでしょう。
それを否定しませんけれども、物の量とは関係ありません。
- 標準模型は物の量とは関係ない事の分類(抽象)
- その事の最小の値がプランク定数
それだけです。
音をマイクで拾って、音の質量を計算する人はいません。
それだけです。
それより先、超ひも理論、スピンネットワーク理論は、最早・・・です。単なる如来の仕組みにある形の1つに過ぎません。
ですから、理論物理学者たちが仏教に関心があるというのは、納得します。それこそ、彼らが自ら閉じこもる階層の檻を破るカギですから。


