再び 「時間」とは何か。 人の五感との関係について

2015年4月10日、時間とは何かに続いて2015年7月15日時間とは過ぎ行く運動の記憶であるという記事を書きました。これをまとめたのが右リンク先にある1.時間とは何かでした。

概ね時間がどういうものか理解できました。 時間とは、人が持つ過去に起こった運動の記憶なのですけれど、

図1

過去、現在、未来と3つある()の内の「現在未来」は含まれないことをもう一度確認しておこうと思います。 時間は、過去の記憶を観念化したものですから、時間を運動の現在と未来に適用できないのではないか、というのが管理人の見解です。

ついでながら、これまでの考察によれば、観測者に対して「物質が光の速さに近いとき」、運動が時間に比例しないように感じます。 (不思議なことには除外される?)

表1

の両端がそうです。 自然科学では、距離や素粒子の質量について、時間を使って表しています。 基準となる時間は、赤い括弧で括った範囲内において「作成」されたものです。 括弧内では、運動が時間に比例して起きていることはほぼ確かです。つまり、赤い括弧内の現象は、時間を使うことにより物理(量)を「数」として取り扱って問題ないと考えます。

表1の両端は、明らかに「五感でわかる範囲」を越えています。五感で分かる現象をもって時間を作り、その時間を使って「五感を越えた範囲の現象」を「数」に置き換えています。 表1の両端に於ける現象は極端に小さいです。右端では現象を10-20倍し、左端では1020倍しています。  これは何かが変です。 「GeV/c」も「光年」も何か変です。

 

弧理論の考え方を示します。 質量を持つ物質について、

図2

の様に、運動1、2となるにつれて質量はM軸上で次元を失います。運動3になると、質量は測定不能あるいは質量ゼロとなります。これがとして観測されるようです。

もしかしたら、人の五感、特に運動に対する感覚は、物質の質量に依るのかも知れません。 実際天体の運行も、素粒子の観測もほとんどが電磁波などの「」として得られるものです。 弧理論による基本粒子(陽子中性子電子)で構成される肉体は五感を持ちます。 五感はそもそも物質の質量と波に依存していると考えれば、表1の両端は時間の観念から外れるのも頷けます。

つまり、はある程度五感で分かる()けれど、「質量の運動が人に時間の観念を形成する」と考えれば、表1が理解できそうです。 逆に「波は人に時間の観念を形成しない」とも云えそうです。   観測者に対して光の速さに近い運動をする物体あるいは物質は、人の五感に対して「時間の観念を形成しない」のかも知れません。   ( 波の性質を用いた観測装置を使って拡大縮小すれば、表1の両端まで「人の五感で分かる」ようにできるという意味です。)

図2を参考に、「波は伝わるのであって、物質の運動ではない」ことを考え併せると興味深いです。 上記の考えでは、セシウム原子時計のことがよく分かりませんけれど面白いです。

 

ついでながら、想念はM軸上で位置を持たないとしています。(想念はAからB、あるいはBからAへ伝わるというものではないということです。)  想念が波ような性質を持つならば、想念は、人に時間の観念を形成しないこととなります。 すると想念は、「在る」ということになります。 波の性質を持つ想念は、無始無終かつ無辺だということになります。

12月31日追記

どうも、よく考えたら「波」の記録には「固体液体気体そのものの運動」を記録するより多くの情報(容量)が必要です。  それと弧理論の考え方(図2)により「波」も離散的に現れるようです。  波の重要な性質に「重ね合わせ」があります。  M軸に「積分を伴う回転投影」される前にあるE軸上の実体とは、「波」のような重ね合わせがあるのでしょうか。  時折、管理人が用いる「E軸上の実体は究極の記憶装置」というのは、「波の重ね合わせ」に近いような仕組みでできているような気がします。 余りにも漠として分からないことですけれど、「波」は非常に重要な役割をもっていると思います。波が重要なら媒質はもっと気になります。空間とは何なのでしょう? ここで云いたいのは、「五感は主に波に依っている」「五感でわかる運動は時間という観念を作る」ということです。波、運動、時間、「五感でわかる」、疑問は拡大するばかりです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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再び 「時間」とは何か。 人の五感との関係について への6件のフィードバック

  1. Π のコメント:

    目の前の三次元空間、時間、お金、自然科学と
    同じ土俵に立ってはいけません。
    それらと同じ土俵に立って論理を進めて、
    相対性理論、E=mc^2を生み出し、
    光速の運動や光速に近い運動を
    理論的に捉えようとしたアインシュタインは、
    最初の時点で大失敗です。
    弧理論は
    目の前の三次元空間、時間、お金、自然科学と
    同じ土俵に立たずに土俵を外そうとしたから、
    あのような理論展開が出来たのだろうと思いますが、
    岡潔、アダムスキー、ダニエルフライ、
    ヲシテ文献、単極誘導と同じ土俵に立とうと
    執着的に努力してること自体が惜しいですね。
    どんな正論であろうと、
    それらと同じ土俵に立とうとしない人も居ますし、
    同じ土俵に立ったら大失敗です。

  2. Π のコメント:

    アインシュタインは多分
    光速を時間、質量、運動で
    捉えようとしたんですね。

    • Φ のコメント:

      それから、光速を時間、質量、運動でどう捉えたのですか。

      • Π のコメント:

        それを実行しようとしたのが
        アインシュタインのE=mc^2の数式
        だと思います。
        結局、彼は失敗しましたけど。

        それと
        時間、質量、運動にもう一つ
        エネルギーも含むと思います。

        • Φ のコメント:

          >光速を・・・捉えよう→E=mc^2の数式→失敗した→エネルギーも含む
          アインシュタインは、光速を時間、質量、運動とエネルギーで捉えようと「E=mc^2」を作ったけど失敗したと?
          何が云いたいのか分かりません。
          ここではっきりします。
          貴方の言葉は軽いです。
          人の言葉は考え方や話の流れにより様々に使われます。やりとりの中で互いの言葉の齟齬を見つけて修正し合い合意点を見つけます。その中に気(キ)付きがあります。それがコメント欄を設けた理由です。
          貴方には予め固定されたルールと辞書があり、相手の言葉を逐次変換している、オウム返しのようです。
          言葉は人の思考そのものです。言葉を丁寧に大事にせねばなりません。
          岡潔のたった50行くらいの言葉を2年ほども掛けて考えてきました。
          岡潔は、素っ気ないほど簡単な言葉用いますが、もの凄く深いです。人類の行く末を左右するほどの言葉です。
          貴方とのやりとりについて、それなりの月日が経ちました。その間に何かが得られたことはありません。
          私の思考過程は 相対論が変→時間に問題がある→岡潔の時間の問題等→→→ヲシテ文献→縄文哲学の核心が紡錘図形足跡の核心と同じ
          というものでした。ここには私自身の言葉で書き込んでいます。
          貴方自身が考えたことを貴方の言葉で書き込まれるならばOKですけれど、逐次変換でしたらご遠慮ください。

          • Π のコメント:

            アインシュタインは
            弧理論における
            E軸を扱っていません。
            その代わりに
            弧理論におけるエネルギーの
            近似(紛い物?)である
            時間を含むエネルギーを扱っています。
            時間という概念を
            現行の状態で維持する為に
            弧理論におけるエネルギー
            という発想に
            行き着かなかったのだろうと思います。
            そういった前提で
            五官で分かる範囲
            (時間、質量、運動)から
            光速の運動や光速に近い運動を
            理論的に捉えようとしたのでしょう。
            その結論が「E=mc^2」だと思います。
            結局、
            弧理論におけるエネルギーを無視して、
            その近似とそれに付随する
            光速の運動や光速に近い運動
            しか得られなかったのですから失敗です。

            弧理論も
            三次元空間とその+α、
            人間そのものを
            完全に無視したら
            立ち行かないですよね。

            それと、
            どんな正論でも
            他者がやろうと思って見聞きしなければ、
            またやろうと思って理解しなければ、
            全くの無意味、空虚です。
            岡潔氏の言葉も同様です。
            岡潔氏の言葉に
            価値が無い、それを認めない
            ということとは全く違います。
            価値が有るだろうし、
            価値は認めるけれど、
            自分自身はそれらから
            物理的に離れるということです。
            余りに距離が近すぎても
            上手くいかなかったりします。

            岡潔氏は
            言葉、理屈、理論、情には
            非常に長けていたようですが、
            大学の教授をしていたこと、
            目の前を非常に重要視していたことも祟って、
            自分自身の命に関しては、
            非常にズボラだったと思いますね。
            まさに灯台下暗しです。
            これは仕方ないと思います。
            彼だけの問題ではありません。
            多くの現代人に共通する問題です。
            そもそも出来る人、やろうとする人は、
            出来ない人、やろうとしない人を
            また、目の前の物事や人生の無意味さを、完全なる絶望を、
            無自覚に、無意識に切り捨ててしまうのです。
            それで良いと思っています。
            生活していかなければならないという
            義務感が強すぎるのも大きいのでしょう。
            自分達の身体、精神、環境を
            滅茶苦茶に破壊してまで
            維持しなければならないものとは
            何でしょうか。

            あと、言葉を粗雑に扱うことには
            賛成しませんが、
            言葉を大切に扱いすぎて、
            病気になったり、過労死したり、餓死したり、
            争い事、対立、摩擦が起きたら
            元も子も無いです。
            言葉は非常に大切ですが、
            それ以上に命の方が大切です。
            生きていなければ、
            言葉を扱えないのですから。
            それと、そもそも
            言葉を見聞きしない、しようとしない存在、
            言葉を使わない、使おうとしない存在、
            言葉を理解しない、しようとしない存在、
            広すぎる位広い世界、
            人間が生きていることや
            目の前の世界の無意味さを無視して、
            言葉の大切さ、重さ、軽さを
            説こうとすること自体に
            しかも
            「~しなければならない」
            という形で他者に強制すること自体に、
            また、
            正当だと思われるものを振りかざして、
            他者を批判(非難)すること自体に
            非常に強い拒否感、拒絶反応を感じます。
            どこの御武家さんでしょうか?

            どんなに
            素晴らしい内容であっても、
            物量でごり押しされたら、
            強い力で強制されたら、
            内容に関係無く
            物量の多さに、
            強制力そのものに、
            疲れ果ててしまいます。

            また、
            Φさんは
            私とのやり取りで得るものは
            無かったと言いますが、
            そもそも
            目の前で得るものなど
            本質的には何も無いと言えるのに、
            何を今更って思います。
            この根拠は
            言葉を見聞きしない、しようとしない存在、
            言葉を使わない、使おうとしない存在、
            言葉を理解しない、しようとしない存在、
            広すぎる位広い世界、
            人間が生きていることや
            目の前の世界の無意味さです。

            最後に二つだけ。
            これらは
            私独自の言葉ではないと思います。
            著作権全盛、知的財産全盛の現代では
            全く理解されないことだと思いますが、
            無意味なことを無意味だと言うことに、
            生きていなければ何も出来ないと言うこと
            目の前を見聞きしない、しようとしない人が存在すること
            目の前を理解しない、しようとしない人が存在することの
            どこが私独自の言葉なのでしょうか。

            流れが繋がっていない面が
            あると思いますが、ご容赦下さい。

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