中今
古神道に 中今 があります。
- 中今は、過去と未来の間を言う
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すべて過去
過ぎ行く動き、運動の記憶、記録は出来事です。事は過去です。
- 動きは動いてからしか知り得ない
- 事は起きてからしか知り得ない
- 動きは中今に届かない
- 事は中今に届かない
- 運動から作った時間は事であって、中今に届かない
- 記憶は中今に届かない
- 記録は中今に届かない
- 情報は中今に届かない
- 知識は中今に届かない
- 言語は中今に届かない
- 言語の上にのった意識は中今に届かない
仏教にある刹那は、最も短い時間です。
- 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、記録に基づいて人が抱く観念に過ぎない
- 刹那は中今に届かない
しかも繰り返し
ここで、数学を含む言語は有限な要素による繰り返しです。何処まで「繰り返し」を掘り下げても、(わかった感)はありません。言語が繰り返しだからです。それこそ心の底からの納得は、中今にしかありません。
如来のわかり方
繰り返しに過ぎない言語でのわかり方には、3種類あります。これが如来三種回向です。
- 往復(振動)
- 循環(回転)
- 再帰
如来によるわかり方は、情的にわかる仏陀とは根本的に異なります。如来は、言語による繰り返しの内にあるわかり方の種類に過ぎません。
- 如来は中今に届かない
物理学と刹那
数学は言語に含まれますし、物理学に使う数学には殆どの場合において、時間を使います。
- 宇宙論は中今に届かない
論理はありますし、計算もあっていますが、t=0を代入しても意味はありません。価値もありません。何故ならば、繰り返しによる抽象だからです。
どのような数学、あるいは物理学、その他の学問もその類型は、如来三種回向に帰納します。如来は形式です。
心
中今にあるのは、釈迦の仏陀、善導の覚、岡潔の情、ヲシテのナサケヱダ、気づかされるのキなどです。ソウルマインドです。
これが”わかる”と言う働きであって、この働きを心と言います。岡潔の言葉は、とてもよく言い表しています。
- 情的にわかるというのがなければ、一切は存在しない
- 心理学は人に心が2つあることを知らない
- このわかり方は意識を通さない
- 情的にわかるというものを知的に言い表すことで文化は出来てくる
繰り返しである言語を用いて、いくら掘り下げても(わかった感)がないのは、中今を知らないからです。中今を言葉で触ることはできません。
- 人がわかるのは物と事
- 物がわかる・・・・唯一、中今
- 動きがわかる・・・・既に過去
- 事がわかる
上の1行目について。本居宣長は、この点を深く探求した人だと実感します。管理人は、物と事を区別すべきだと「もののあわれ」から知りました。
- 情・・・・ナサケヱダ
- 事・・・・アワレヱダ


