アリとサイコロの例えと クオーク

平面世界(2次元)に住む アリ が居ました。アリは唯物主義者でした。※注  アリの感覚では前後と左右しかありません。

※ 唯物主義・・・五感でわからないものはないとしか思えない

ここに3つの面しかもたない奇妙なサイコロがあります。奇妙なサイコロは3面体です。各面に数字を示す記号が書かれています。1と2と3です。

写真1

アリ はこのサイコロを何度も振ります。観察した結果は以下です。

  • 2回に1回しか目が出ない。サイコロは存在するのに目が出ない。
  • は6回に1回出る。
  • は6回に1回出る。
  • は6回に1回出る。

つまり、6回に3回はが出ます。確率は6分の1なのに目は3つしかありません。

そこでアリは考えました。「目(数字)の仕組みがあるはず。それは、4と5と6であるはず。そして、目が出ない(観測されない)のは4、5、6がサイコロに閉じ込められているからだ。」

そして、アリはある結論に達します。「本当は、サイコロには内部構造があって、次のようになっているに違いない。」

  • 1には6
  • 2には5
  • 3には4

という内部機構があると考えました。「1が出るときは7から6が差し引かれ、2が出るときは7から5が差し引かれ、3が出るときは7から4が差し引かれるのだ。こうして出た目と確率から常に7を計算できる。きっと宇宙の本質は7にある。」と結論づけました。こうして平面アリは唯物主義者でありながら観測できない4、5、6という記号を含めて3面体のサイコロと認めてしまいました。 彼らが持つ感覚でわかるのは、3面体のサイコロしかありません。

おしまい。


クオーク の閉じ込めをサイコロの目に例えたお話しです。 平面アリのお話しでは、本質が「7」であるところで切りよく終わっています。しかし、素粒子群の話には終わりがありません。唯物主義だから、ないとしか思えないのです。これは厄介です。既に唯物主義を逸脱していることにすら気づけないのです。別の次元軸を考えることができないのです。

あまり、うまい例えではありません。他の話から派生してできたものでして、上の話はどうでもよいです。 岡潔講演録より「【3】 西洋の唯物主義」を参照ください。

 

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物理学は「物の理」を科学するはずが、時間を用いることで「事の理」を科学している

物理学 は、物の理ことわりを科学します。物の理を科学するから 物理学 です。 人の五感でわかるのは物や事です。物と事とは次の通りです。

  1. 物・・・人の五感でわかるを持つ物質のこと。質量と位置を持つ。質量は重力のもとでは重さに等しい。物の位置と位置の隔たりが長さ(距離)。面積や体積を持つ。位置の変位を運動という。ここでは「具体」と呼ぶ。
  2. 事あるいは事柄・・・人と物あるいは物と物の関係、関連、リレーションシップあるいは出来事(イベント:時の過去)のこと。ここでは「抽象」と呼ぶ。

数学者岡潔の言葉を手がかりに考察すると、自然科学における時間は「物」ではなく、「事」であるとわかりました。注:過去記事『角度 は「量」ではない 角度から作る時間は物理量ではない』と「1.時間とは何か」並びに『【2】自然科学者の時間空間』を参照ください。 つまり、物理学を含めた自然科学は、時間を用いることによって「事あるいは出来事」について科学したものだということです。 要するに 物理学 は「事の理ことわり」を科学したものです。物理学は「物」とは何かを科学していないということです。

 

以下は「1.物と2.事」についての説明です。

1.物はほとんどの場合において均質ではありませんし、五感でわかる重さや大きさも目分量です。そこで、長さや重さの変わらない物(均質な金属等)に刻み目を入れて文字(数字)を入れたモノサシを基準にします。これと比較することにより、確からしい大きさ(長さ・面積・体積)を出します。質量も同じ方法を用います。これが物理量です。 ただし、目分量を「」に置き換えた段階で最初の抽象化が入りますので注意が必要です。 続きを読む

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自然科学の問題点

前回までの記事で、自然科学は間違っていると言い切ってよいようです。ほぼ確定です。改めて 自然科学の問題点 をまとめます。

  1. 唯物主義の限界
  2. 時間は物理量ではない。
  3. 要素還元主義の限界

1.数学者岡潔は、自然科学者が考える自然を物質的自然と名付けました。※ 自然科学者の唯物主義について、「五感でわからないものはないとしか思えない」のだと云いました。人の肉体に備わった五感には限界があります。

感覚器官は細胞でできており、タンパク質であり、元素です。五感でわかる範囲は概ね赤い括弧で括った範囲になります。この範囲内であるというのが唯物主義の限界です。しかし、自然科学者は例えば1020倍ほどに拡大することにより範囲を越える物質や現象を観察してきました。これに限界が存在していることに気付かないのです。ですから、観測や実験の結果は液晶画面上の図やグラフであったり、グラフから得た情報を元に作成したCGが多いです。

図1 https://www.kek.jp/ja/NewsRoom/Release/2013/10/08/709-01.jpg

「わからないものはないとしか思えない」のです。彼ら自身が仮定の元に考えていると思っていません。だから探求に際限がありません。立ち止まって考えることができません。「【 3】 五感でわかるもの

自然とは何か、とても問題です。弧理論の考え方からすると自然の内、物質的自然が扱う領域は4分の1から8分の1くらいではないかと考えています。

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角度 は「量」ではない 角度から作る時間は物理量ではない

これまでに、「宇宙の本質は距離(長さ)ではなく、 角度 にある」と何度か書きました。この観点は、物質的自然※が「別の次元軸からの投影による映像」だとの仮説から来たものです。 しかし、人が時間を作ることとなった原点も 角度 でした。この一致は管理人にとって奇妙なことでした。現在もこの一致はどこからくるのかわかりません。※数学者岡潔の「【3】五感でわかるもの」を参照ください。

人は太陽や天体の運行により方位・方角を知るとともに季節の移り変わりとの関係に気付いて暦を作りました。

図1 出典:太陽の動き

暦(春夏秋冬の変化)とともに年や月を決め、時、分、秒という時間を決めました。 その際に用いたのが大地に立つ人と太陽や天体の動きにかかる 角度 です。

図2 出典:時差とは

だから、時計はアナログの日時計が始まりです。

写真1 携帯の日時計

デジタルになった現在のセシウム原子時計になっても10進数で扱いながら12の倍数であるわけです。 続きを読む

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知識の限界 とは人の心が受け入れられる「抽象の限界」のこと

前回記事の過程で気付いたのは、人は物や事の具体の中に生きていることだということです。だから人の心が受け入れられる抽象には限度があると書いたのです。

それで、気になったのがいつも引用するある科学者の言葉です。2箇所あり、それぞれ長いです。

科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める

そして基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。

だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。

 

君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に変えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほどに複雑になるんだ。

君たちにとって最も必要なのは、自然の基本法則または事実がまったくかんたんだということを発見することだ。

下線と強調は管理人による。

自然科学者(物理学者)は、「電子は確率波をもつ粒子」だと考えています。これは波動関数で記述されるのであって、「電子は原子核の回りを回っているのではない」とよく云われます。極小の世界は確率で起こるのだとの説明です。これが量子力学の始まりです。管理人もそう習ってきました。

これは心で描くことができません。だから(抽象的な)数学を使うのです。このとき質量を持つ電子という具体から数学としての抽象へ移ったのです。 続きを読む

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科学の始まりである 魔法と錬金術 は「病む」の始まり

現代は統合失調(分裂)の状態にあると何度も書いてきました。ブログ記事を検索すると過去2015年8月6日の『バカボンのパパ 「賛成の反対なのだ~」 では済まされない』を最初に計18回も統合失調を取り上げています。 別の書き方では「考え方が不健康」ともしました。 一言で云えば、現代は病んでいます

数学者岡潔の言った言葉です。「【1】 このままでは人類は滅びる

今は間違った思想の洪水です。世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。

そして、自然科学の成り立ちについて、次のように述べています。

自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。

自然科学が間違った思想を元にして自然を科学したものの寄せ集めだというのです。このことは即ち、科学の全体が統合失調であるのと同じです。管理人がそう理解したのは前々回の記事からです。自然科学の構造を図示すると大きく3の部分(古典、素粒子、宇宙物理)に分かれており、互いに不連続(かつ相性が悪い)ことがわかってきました。

図1

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ある研究者にとっての 自然 とは何だろう?

何年か前、ネットで読んだことで気になっていたのですけど、元記事がどこにあったかわかりませんでした。 先日、よく似た話を聞いたのでメモします。

某研究者が保湿剤の試験をします。その材料が持つ性質を利用したいのですが、その材料を使うと併せて防腐剤が必要になります。人に触れたり身体に入る物ですから防腐剤は避けたいところです。そこで、カビや細菌の繁殖しにくい材料が有利であるとして試験をしているとのことです。背反する性質を持つ材料というのはどうも変に感じますけど。得てして無害は有益でないとも云えます。ベントナイトは、無害ですけど有益でもないからダイエット食品に使われます。泥を喰うって・・。

研究者が欲しいのは材料と試験結果を統計処理して有意であると判定が出たデータです。その試験について冒頭ネットで書かれていたコメントが、確か「(自然から)欲しいデータを叩き出す」という表現でした。このコメントに違和感があったので覚えていました。

例で挙げた保湿剤に安全性があるかどうかはもとより、その材料に市場があり、どのような製品に使われ、どのようなマーケティングが行われるかなど一研究者には関係ありません。ましてや研究者が 自然 をどのように考えているかはまったく関係ないのです。

わけることによりわかる」というのが要素還元主義です。特性の一つに着目して、入力と出力を一対一に限定して試験をするわけです。 全体のことはまったく関知しないのです。

数学者岡潔は、講演で人類は滅びるとして次のように述べています。「【1】 このままでは人類は滅びる」より引用します。

今は間違った思想の洪水です。世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。 で、その為に思想の間違いの根本はどこにあるか、それを調べましょう。

一番怪しいと思えるのは自然科学です。それで自然科学から調べます。大体、自然科学というものは、 自然 とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。

だから、かようなものは学問とはいえません。これは単なる思想です。

自然 とは何か、どのようなものかをまったく考えずに「自然とはわかり切っていると一人決めにしている」と岡は云います。 自然科学は「一人決めにしたものを科学した結果を寄せ集めたものであって、学問ではない」と述べています。 自然科学は、めいめいが持つ思想で科学した寄せ集めだというのです。

これは、例に挙げた研究者の態度そのものです。一般に偏差値の高い者が研究にあたります。すると、研究者は対象を学校の定期試験と同じ形態に整えます。つまり「予め答えがあるとわかっている問題に特化(変形)」して研究の対象とするという態度です。

 

これまでの考察の結果、自然科学の全体は、次の図になります。

図1

これを観ると、自然科学が循環かつ幾つかに断裂していることがわかります。さらに細かく観れば、分野間に繋がらない部分があることがわかります。 岡潔が指摘したとおりの形をしています。時間が問題で、自然科学の全体は、古典の範囲とそれ以外(素粒子物理と天文学を含む宇宙物理)に断裂しています。しかも両端に終わりがありません。

 

なぜこのようになってしまったのか、最近、原因が言語にあるような気がしてきました。英語が主流となったのは、それなりに理由があると考えます。

 

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アンケート「 人工知能 が人間を滅ぼす時代が来る?来ない?」 例外はあるけど来るわけない!

ドメインが kodenjiki.com のころから2つのブログランキングに登録しています。

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管理人はSNSをしないのですが、これらボタンも見栄えのために貼り付けています。 昨日、人気ブログランキングの中を見ていたら「 人工知能 が人間を滅ぼす時代が来る?来ない?」というアンケートが気を惹きました。

これまでの考察で、 人工知能 が人間を滅ぼす可能性はありませんので「来ない」に投票するとともに理由を記入しました。 コメント欄の文字数制限によりかなり端折りました。以下です。

AIは脳の模倣物。ニューロネットワークの要素はブラックボックスBBそのもの。脳はBBとして最低限の処理をしている。数学者岡潔は「心の本体は情」だとした。心の本体は脳とは別。脳は身体と心をつなぐコンセントに過ぎない。AIは人を滅ぼせない。

何を云いたいか伝わらない文章ですので少し説明します。以下は既出です。

 

自然科学は、要素還元主義です。「わけることによりわかる(はず)」というものです。

図1

「わからない」ものをブラックボックスとして、「わかる」部分に「わける」ということです。その意味で自然科学は孤立系です。

図2

よく見るとわかるように、「わけられた」方の要素もまたブラックボックスです。こうして、素なる要素を求めて終端が無いという状態が自然科学であったわけです。

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縄文哲学 より「ヲシテ哲学」という呼び名が相応しい

どうも、縄文時代あるいは縄文土器という呼び名は外国人が名付けた、いわば押しつけの呼称らしいです。 ヲシテ文献研究者である池田満氏も 縄文哲学 の呼称を用いておられますので、管理人も 縄文哲学 と呼び習わしています。でも僅かに違和感はありました。何より縄文と云えば原始人のイメージがあります。

時折、読みに行くフリーの物理学者である井口和基氏によるブログKazumoto Iguchi’s blog 2には次の記事がありました。 10月16日の記事『「縄文」の呼び名は語弊を呼ぶ!?:広く言えば、インディアンもアマゾン人も縄文系だ!』には次のように書かれています。

やはり最近つくづく思うのは、

縄文文明

という名前は非常に不都合であるということである。

ところで、この名付け親は日本人じゃね〜〜!

元祖日本に勝手に住み着いた害人さんじゃなかった、外人のエドワード・シルヴェスター・モースだった。

たまたま自分が見つけた土器の模様が縄模様だっただけで、それに「縄文土器」と名をつけた馬鹿者。その後の土器にはまったく縄の後もなく、火焔土器のような際立った物がたくさん見つかったのである。

まったく同意なのですが、いろいろとこじつけが感じられます。 記事「なぜ日本語は外乱に対して堅牢なのか」に書いたとおり、単語の幾らかが似ていても言語の枠組みが違ったら遺伝子的に近くても異なる思想や文化になると考えます。

縄文哲学 の核心は「のヲシテ」と「のヲシテ」にあります。ヲシテとは、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カクのミハタ(フトマニなど)』を記述している文字のことです。「ト」と「ロ」の文字の中には、人々が生きて行くべき方向がしっかり込められています。これほど相応しい呼び名は無いと思います。 縄文哲学を改めて、ヲシテ哲学と呼ぶのが相応しいと考えます。

 

表 出典:日本ヲシテ研究所

ひょうについて、最初はちょっと奇妙だなと感じました。なぜ一音一音に意味を付すのか疑問に思ったのですが、日本語が堅牢な理由がわかってきてからは本当に凄いことだとわかってきました。ヨソヤコヱ(48音韻)素晴らしい!! 12の倍数なんて凄いです。

 

以下、ホツマツタヱ(キツノナトホムシサルアヤ)の一文です。

アワノウタ カタカキウチテ

ヒキウタフ オノツトコヱモ

アキラカニ ヰクラムワタヲ

ネコヱワケ フソヨニカヨヒ

ヨソヤコヱ コレミノウチノ

メクリヨク ヤマヒアラネハ

ナカラエリ スミヱノヲキナ

コレオシル

そういえば、ヲシテ文献について調べ、学ぶ最初に気になったのは「ヰクラムワタヲ ネコヱワケ」でした。

「ヰクラムワタ」が五臓六腑でないことは当然ですが、「ネコヱ」の意味がわかりませんでした。「ネ」なる「コヱ」ですけど、これを「ワケ」るのです。「ネコヱ」は音韻にわけることなのか、あるいは頭の中で考えることを意味するのかわかりませんでした。 頭の中で考えるというのは想念のことです。(弧理論の考え方では想念は位置を持ちません。) コヱに発する前に頭の中で考えます。ネなるコヱにワケるというのは、どういうことか随分考えました。結局、日本語で考えるのですから、同じ事なのです。音韻の連なり思考は同じだということです。

で、素なる音韻に意味を持たせたのが表になります。最近、やっと気付いたのが言葉の内、素なる音韻はピースであって、言葉、言語あるいは思考そのものは、パズルに相当するということでした。音韻の連なりは互いに規定し合って全体(思考)をなしています。そもそも音韻に意味はありません。

写真1

我々の自然も同じ仕組みです。これも凄いことです。 リンクした過去記事にて示したことです。  素なる音韻に意味はありません。ただ、自然が互いに規定し合って成り立っているのですから、言葉も自然にマッチした意味づけができる方が合理的であることはよくわかります。

ついでながら、日本語にはヨソヤコヱの基礎がありますので、漢字あるいは漢語由来ではない日本語が増えていくのではないかと考えます。 ただ言葉遊びはダメです。

 


長い期間かかって次第に充実してきました。当サイトに掲載した内容は、(まったくの見当違いでなければ)陳腐化しません。 3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)には、均等な努力が必要だとされています。いま、管理人が3つの科学にどれほど等しく進んでいるのか見当がつきません。如何なる資料を調べても出てこない内容です。「暗闇研究」ですから、仕方在りません。もう少しで実験にたどり着けるとの思いでやってきましたけれど、正直焦れています。

今年最大の発見は、物質的自然がピースとパズルの関係であることと、言葉も同じであること、それに伴い社会科学の種になり得るものに気付いたことです。  数学でさえもピースとパズルの関係だったのは驚きです。 数学者岡潔「自然数の1は決してわからない」=ピースに意味が無いのは当たり前です。【6】 数学の使えない世界 やはり、岡潔は超天才です。

 

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物理的な 時間 について

2018年9月18日、当サイトに掲載した「時間とは何か」において、 時間 には2つあることを示しました。 読み返してみますと「観念としての 時間 」についての説明は概ねOKの様ですけれど、「物理的な 時間 」の説明は、どうもよろしくないです。 もう少し詳しい説明が必要です。これまで何度も取り上げてきたのですが、この説明が結構難しいです。

そこで、説明に使う小道具を作ってみました。円板に数字を配して、中心に針を取り付けただけです。

写真1

右の円板は、直径20cmで、円周の12分の1は約52.3mmあります。左の円板は、直径15cmで、円周の12分の1は約39.2mmあります。円板が転がるに1目盛りでそれだけ移動する訳です。同じ 時間 であるのに距離(長さ)は変化します。 因みにイギリスにあるウエストミンスター宮殿(英国国会議事堂)に付属する大時計(通称:ビッグベン)の直径は、7mだそうです。これだと円周の12分の1は約1099cmになります。

写真2 出典:ビッグベンの鐘がしばらく聞けなくなる!? 今年でしばらく見納め

物理的な時間は、五感でわかる物質あるいは物体の運動から作ります。運動そのものではありません。

モノサシ位置に数字を置いて「長さ」の基準を作ります。計りたい物とモノサシとの比較によって被測定物の長さを決めています。つまり、物理量である「長さ」はモノサシという基準となる量の裏付けを持っているということです。 続きを読む

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