前提
- 人が(わかる)のは物と事
- 物と事が揃わない何かはわからない
仏陀(Buddha)
- 仏陀は”わかる”と言う働きである
- これを心という
- 仮に、これを自己とする
- わかるのは自己以外の全て
- これを自然という
- 善導は仏を覚と名付けた
如来(tathagata)
- 如来は、tathagataの漢字への意訳
- 如来は物事のわかり方
- わかり方の形には3つある
- 2026年3月24日 如来の2つの形は 如来二種回向文 にあった
いずれも量れない
仏陀(Buddha)と如来(tathagata)はいずれも「量れない」です。
- a-mita → 否定 量る→ 量れない
- 阿弥陀は、a-mitaの漢字への意訳
ですから、
- a-mita-Buddha 阿弥陀仏
- a-mita-tathagata 阿弥陀如来
同じ量れないにしてもまったく違います。
- Buddhaの対象は、自己以外の全てですから量れません。宇宙物理学では、量れると思っているようですけれども、それは嘘です。物と事が揃わない何かは決してわかりません。
- 如来tathagataの物事のわかり方は3つありますが、自然はこの3つの組み合わせに過ぎません。どんなに複雑で大規模であってもです。必ず3つに収束というか分解できます。
要は、ネットワーク図です。

図1
つながらないネットワーク(独立した島)の存在は知り得ません。これを外のない内と言います。例えば、軍の情報は孤立していますので、その存在を知り得ません。
信仰
この働きは何時からあって、いつまであるのか。あるいは、在る理由は決してわかりません。ですから、その原因となる何かを信仰とするしかありません。ですから、如来は単なる仕組みですから、信仰の対象にはなりません。
それとこのままでは(仏教のままでは)科学になり得ません。両立するのが本当の科学です。
- なぜ、全ては対になって現れているのか


