仏陀と如来の違い

前提

  • が(わかる)のは
  • 物と事が揃わない何かはわからない

 

仏陀(Buddha)

  1. 仏陀は”わかる”と言う働きである
  2. これをという
  3. 仮に、これを自己とする
  4. わかるのは自己以外の全て
  5. これを自然という
  6. 善導は仏をと名付けた

 

如来(tathagata)

  • 如来は、tathagataの漢字への意訳
  1. 如来は物事のわかり方
  2. わかり方のには3つある

 

いずれも量れない

仏陀(Buddha)と如来(tathagata)はいずれも「量れない」です。

  • a-mita → 否定 量る→ 量れない
  • 阿弥陀は、a-mitaの漢字への意訳

ですから、

  • a-mita-Buddha 阿弥陀仏
  • a-mita-tathagata 阿弥陀如来

同じ量れないにしてもまったく違います。

  • Buddhaの対象は、自己以外の全てですから量れません。宇宙物理学では、量れると思っているようですけれども、それは嘘です。物と事が揃わない何かは決してわかりません。
  • 如来tathagataの物事のわかり方は3つありますが、自然はこの3つの組み合わせに過ぎません。どんなに複雑で大規模であってもです。必ず3つに収束というか分解できます。

要は、ネットワーク図です。

図1

つながらないネットワーク(独立した島)の存在は知り得ません。これを外のない内と言います。例えば、の情報は孤立していますので、その存在を知り得ません。

 

信仰

この働きは何時からあって、いつまであるのか。あるいは、在る理由は決してわかりません。ですから、その原因となる何か信仰とするしかありません。ですから、如来は単なる仕組みですから、信仰の対象にはなりません。

それとこのままでは(仏教のままでは)科学になり得ません。両立するのが本当の科学です。

  • なぜ、全てはになって現れているのか

 

Follow me!

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  

Φ について

2010年より研究しています。
カテゴリー: 解説 タグ: , , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA