原罪 とは価値の押しつけ

ヒトがわかるのは、物と事です。物と事は必ずとして現れます。これを如来の仕組みと言います。あるいは二元論に同じです。

但し、如来の仕組みには、価値の押しつけはありません。以下は如来の例です。

  • 善は悪の如し、悪は善の如し
  • 右は左の如し、左は右の如し
  • 真は偽の如し、偽は真の如し
  • 男は女の如し、女は男の如し
  • 天国は地獄の如し、地獄は天国の如し
  • 神は悪魔の如し、悪魔は神の如し
  • ・・・・

そして、如来の仕組みの内にあります。これは価値です。

唯一絶対の神という存在に対して、知恵の実を食べた人類は楽園を追放されました。

  • 神(楽園)→ 地上(地獄)

神に対して罪を犯したから、罰として地上において労働を強いたのです。

神の人間への価値の押しつけは以下です。

  • 神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→地上(苦)
  •     イエス:GOD←救い(信仰)

「人間はすべからく罪があるから、地上において悪事を働く、だけれどもイエスキリスト、あるいはGODからの救いがあるから良い行いを保てる。」となります。

日本人にはわかりません。お天道様が見ているのであって、 原罪 を償うために道徳心を持っているのではありません。この強いバイアスが原罪であるようです。過去にも書きましたが、次のように言われることがあります。

  • アメリカ人、信仰を取ったら中国人

これが信仰を無くしたアメリカ人の本質であるようです。共産主義にある中国人の国はなくて、市場があるだけとも言われます。ここで、信仰とは自己の肯定であるようです。(諺「鰯の頭も信心から」は正しい。)

つまり、神という押しつけ、神からの罪の押しつけ、その上で罰の押しつけが重なっており、そのまた上に、信仰の押しつけがあって、最後に救いがあるという複雑さです。これは価値の押しつけのオンパレードです。救いがたいほどです。

人間が知恵の実を食べることによる罪は、日本人には関係ありません。日本語の起源となるアワウタに「超自然的な何か(抽象)」がないからです。日本人は、最後に理屈じゃないところがあります。理論理屈にトコトン拘ると、行き着く先は抽象であって、理屈へのこだわりは2つの心の乖離に至ります。心を病むことになります。結局のところ、人類の自滅につながります。これが原罪に相当します。理由は簡単で、言葉は繰り返し循環・ネットワークだからです。論理に繰り返しが現れたならば、警戒すべきです。

 

ところで、GODは、一般名詞、普通名詞です。本当は、YHWHです。つまり、価値の押しつけがあるのは神(GOD)ですが、YHWHには、それがあるかどうかわかりません。もしかしたら、YHWHには、価値の押しつけが無いのかもしれません。そうすると、YHWHは、如来やBuddhaあるいはヲシテ文献によるカミに近いかも知れません。何せ、名前の正確な発音すらわかっていません。ただ、このままでは、科学になり得ないことは確かです。

図1 出典:ヤハウェ

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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