神 は如来の内にあり、神は人々に価値を押しつける

人々の信仰の対象である神仏における は、仏教にある如来の仕組みのにあります。

特に西洋の神は、人々に価値を押しつける存在です。神はシヰの現れです。

注)シヰは強いるのシヰ

神の字義

漢字の”神”の字義は、偏にすと書きます。

写真1 八足台

示は祭壇のことです。祭壇(机)にお供え物(神饌物)を置きます。”申”は、雷いかずちという意味です。祭壇である机の向こう側にある雷、即ち、超自然的な何かを示すのが”神”という字の意味です。

 

人がわかるのは物と事、必ず「対」となる

ヒトがわかるのは、物と事です。わかるの語源はわけるです。わけることによってわかるとされます。そして、物と事は必ず”対”となって現れます。万物の表れであって、一切の例外はありません。これは弧理論の根幹です。

図1 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎず、自然は別の次元軸からの投影による映像

 

如来の仕組み

仏教にある如来は、ある仕組みを言います。如来に人格性はありません。

  • ~の如し、の如し、の如し、の如し・・・・
  • ~のような、のような、のような・・・・

これは、合わせ鏡や鐘と撞木に例えられます。互いに規定し合って成り立つ繰り返しを例えて「如来」と言い表したようです。

写真1 鐘が鳴るか撞木が鳴るか

 

如来の具体例と二元論

如来の仕組みは、詰まるところ二元論に行き着きます。如来の具体的な例をあげます。

  • 善は悪の如しであり、悪は善の如し
  • 右は左の如しであり、左は右の如し
  • メはヲの如しであり、ヲはメの如し (メ:女 ヲ:男)
  • 表は裏の如しであり、裏は表の如し
  • 真は偽の如しであり、偽は真の如し
  • 上は下の如しであり、下は上の如し

右隣の人から見ると、貴方は左です。前後は向きによります。宇宙空間では、上下はありません。ある人には本当で、ある人に嘘です。

如来の仕組みは、物と事の組み合わせ(対)が繰り返し・循環だからです。そして、これらの例は二元論そのものです。

 

物と事がわかって始めて意味づけできる

それで、物と事がわかって始めて、物事に意味づけできます。これが言葉(言語)です。物と事に意味づけできると物事についての価値がわかってきます。

 

意味づけによって、価値がわかり、欲とつながる

意味づけによって、価値がわかるとヒトにが出ます。ヲシテ文献によるヒトの定義です。

  • ヒト=タマ+シヰ+ウ(渦)

心の本体がタマです。生命維持の欲求をシヰと言います。強いるのシヰです。漢字の”魂”では意味が通りません。ウ(渦)は現在で言う物質です。心であるタマシヰに物質が結びついてヒトになります。

  • ヒトは経験を積んで成長する存在(ふみよいむなやこ)のヒト

 

 

西洋の神は価値(罰)を強いる

聖書では、が人間を創りました。アダムとイブです。神から知恵の実を食べてはいけないとされていましが、蛇に唆されて食べてしまいます。そうして、人間は神から楽園を追放されます。これが人間の持つ原罪です。罪のために、人間は地上において、としての労働を与えられました。西洋の神において、労働は罰です。

  • 神→人間→原罪→罰としての労働

そうして、聖書にあるは、人間に価値としての原罪としての労働押しつけました。神は人間に労働を強いるのです。

検討した結果、あらゆる思想、信条、主義、主張、哲学まで何かを強いています。哲学さえもです。

  • 哲学:真善美 (真は偽の如し)(善は悪の如し)(美しい:シヰ)

 

平等と多様性の押しつけ

では、現代においての価値の押しつけは何かです。それは、平等多様性です。

一見、反対しにくい平等と多様性ですが、実のところその源流は聖書にあります。人間はすべからく、罪を背負って生まれてきたのだと。だから、罰としての労働があります。

西洋の神は人々に価値を押しつける存在です。そして、これまでに考察してきたとおり、神は如来の内にあります。

  • 神は悪魔の如し、悪魔は神の如し

追記11/26 陰謀論や都市伝説についての動画を観ることが多いのですが、陰謀論の中で多様性について語っている動画がありましたので貼ります。20分あたりからです。

追動画 2024年ついに世界大戦が始まる。月刊ムー編集長が語る計画された第三次世界大戦【 コヤスタ in my room / ゲスト:三上丈晴 】

重要なのは、目先の国家体制、経済、景気や宗教、○○主義などの違いではなく、かなり高いレベルの押し付けである点です。誰も反対しにくい考え方を皆に強いることによって、人類全体一方向追いやるという仕組みです。

二元論では、これを乗り越えることはできません。二元論に含まれる押し付け気づくことです。三上丈晴氏は何処まで、何を知っているのでしょうか。気になります。メディアで言えないでしょうけれど。


価値は反転する

大事なのは、二元論に正解はないということです。何故ならば、人々の価値は往々にして反転するからです。

図1 出典:「害虫」と「益虫」

昆虫は、人によっては益虫ですが、時には害虫です。薬も同じで、毒薬もあります。

「全然」という言葉は、これまで否定の意味合いで使われてきましたが、最近では「全然OK」「全然いいですよ。」などと肯定に使われています。その点、如来の仕組みに価値の押しつけはありません

興味深いことにネオコンやディープステートなどと呼ばれる連中は、悪魔崇拝をしているとの噂があります。これがどうも本当のことのようです。つまり、彼らとて所詮、聖書に発する二元論(神と悪魔)から抜け出せないのです。

 

神の存在を利用する金融資本家

いろいろ考察してきた結果、金融資本家たちは神の存在を利用して、人々に特定の価値を押しつけてきました。それも一見拒否しにくい価値の押しつけです。ですから、善とか真理に拘らなくてもよいとわかります。

現在、一部の人々は二元論から脱却しつつあります。二元論による価値の押しつけを拒否しつつあります。価値が反転した悪魔崇拝をする連中を切り捨てつつあります。

 

日本語に原罪はない(超自然的な何かは存在しない)

人がわかるのは物と事で、5つの母音と10の子音に割り当てて、意味づけしたのがヨソヤコヱ:48音韻です。

図2 出典:日本ヲシテ研究所

日本語の起源である大和言葉の大元であるヨソヤコヱ:48音韻(アワウタ)には、超自然的な何か(漢字の神)は存在しませんし、神からの原罪も、対する罰としての労働もありません。記紀に記される天照大みずから、養蚕をされます。お蚕さんのどこが罰なのでしょうか。

どうも、原罪を別の言い方するならば、戒律と言ってもよいようです。日本語に翻訳すると戒律は抜け落ちます。

日本人には、神を受け入れてもBuddhaを受け入れても原罪は関係ありません。日本語があるからです。ですから、残念ながら(論理の帰結として)極楽浄土はありません。

 

東本願寺:上山奉仕募集のポスター 女性差別と奉仕の蔑視(例)

実は、この記事を書く切っ掛けがあります。先日、東本願寺の本山での奉仕作業を募集するポスターの話がありました。(残念ながらポスターの実物はありません。)この本山での作業を上山奉仕と言います。

写真1 出典:失念

ポスターは、本山での床の拭き掃除の様子の写真に募集要項を記載したものだそうです。ところが、これにクレームがついたとのことです。

  • 女性だけに拭き掃除をさせるとは何事か!

問題は2点あります。

  • 女性差別
  • 労働を押しつける

当たり前のこととして、写真は偶々女性だけが写された写真であった訳で、参加した男性も同じ拭き掃除をしています。そして、ポスターを批判した人は、床の拭き掃除という労働にみているということです。床ふきは奉仕です。如来の仕組みを見れば、すぐにわかります。

人々に平等、多様性の名の下に何かを強いるのは、間違いです。

 

追記1:信仰は自己の肯定

すべては”対”になっています。でなければ言葉で言えません。それで唯一、”対”ではない存在に気付きます。それが自己です。自己の存在は言葉での説明は不要です。自己の存在は銘々わかっています。では、自己と”対”になるのは何かということです。

それは、自己以外のすべてです。それは、自然界の物と事すべてです。言い換えますと自己の表れが自然界だということです。お釈迦様は、これをBuddhaとしました。

これは、岡潔が紹介した山崎弁栄上人の言葉に等しいです。【3】西洋の唯物主義

大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。

自己の存在を肯定するのが信仰であるようです。

  • お釈迦様:天上天下唯我独尊
  • バカボンのパパ:「これでいいのだ!」
  • 生活に困窮する人:「仕方がない」

つまり、自然界における自己が置かれた状況を肯定する信仰は、人それぞれだということです。お釈迦様は王族の出です。バカボンのパパは庶民です。どうしようもない状況にある人は、世を嘆いて「仕方がない」という肯定になります。王族の出だからこそ、「天上天下唯我独尊」と言えた訳です。

  • 鰯の頭も信心から

神を信じるのも、その他の如何なる宗教を信じるのも、お金や時間を信じるのも自己の肯定です。しかし、何を受け入れるかは、余程に考える必要がありそうです。

  • 自己の否定は自然界の否定に等しい

 

追記2 ヨソヤコヱ(アワウタ)は如来を含む

図2に示したヨソヤコヱ:48音韻は、「アで始まり、ワで終わり」ます。ヨソヤコヱを五七調で詠むとアワウタになります。

  • アワウタは、物の初めであるから事の終わりであるまでのすべてを覆う

アとワは物と事ですから、アとワは互いに規定し合って成り立つ繰り返しです。

  • アはワの如し、ワはアの如し

つまり、ヨソヤコヱは、如来の仕組みを含みます

  • ヨソヤコヱ>如来の仕組み>神

だから、日本語は何でも飲み込んで、元のものとは似ても似つかぬ何かにしてしまいます。日本語は堅いです。何物にも揺るがないのです。これを日本教と言います。

  • 日本教:神様仏様より人間の都合を優先する

 

参考動画 最早、笑えない状況です。

 

動画1 白人司会者がLGBT論者を一言で論破した結果

 

動画2 LGBT活動家、論破されて正気を失う

 

動画3 ヴィーガン論破後、目前でビッグマックを食べた結果

 

動画4 LGBT活動家、上院議会で論破されてしまう

 

動画5 環境活動家が上院議会で完全論破された件

 

追記11/16 田中英通氏の講演です。43:00辺りから

  • (日本人は)観念的な神なんて信じられない。原罪がわからない

動画6 田中英道「日本の未来について」(2023/11/04) 日本の未来を考える会

管理人が述べてきたことと同じです。

日本人に原罪はありませんので(神-原罪-天国と地獄)という流れが断ち切られます。すると、景教からの影響で仏教に浄土信仰が入ってきましたが、それは形だけです。西洋人が考える天国と日本人の極楽浄土は異なります。

過去記事に書きましたように、ある僧侶は浄土論読んでもよくわからないと言われました。それは私たちに原罪がわからないからです。原罪と(地獄・極楽)はセットでなければ成立しません。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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