お金も時間も 量 の裏付けはない。どうも素粒子物理も相対論も究極「量」の裏付けがない「数字」に行き着くようだ

数学者岡潔は「数は 量 のかげ」と云いました。1971年8月15日に当時のニクソン大統領は、米ドル紙幣と金の兌換を停止しました。(ニクソン・ショック)これ以後、お金は量(この場合は金Gold)の裏付けはなくなり、単なる数字になりました。 また、これまでの考察により、時間は「過ぎ行く運動の記憶、即ち過去」であり、物質の運動にかかる位置から作ることがわかりました。伴って時間は運動そのものではないし、岡潔の云う 量 を伴っていないこともわかりました。

ふと思ったのですが、お金も時間も量の裏付けはないし、どうも素粒子物理も相対論も究極、「量」の裏付けがない数字に行き着くようだと思いました。

のように、大きさのスケールにおいて、人の持つ感覚で分かる範囲は赤い括弧の範囲内です。範囲を越える位置は、時間に対応しないと考えられます。

時間は人の感覚で分かる運動から作ります。例えば、日時計や機械式時計あるいはセシウム原子時計などです。

物質未満である素粒子が人の基本になり得ると考えるならば、素粒子の運動を元にした素粒子時計ができるかも知れません。(管理人はそうは思いませんが。)

 

ここで「計測・測定・観測」について考えます。

図1

自転車が位置Aから位置Bへ運動する場合です。手元のアナログ時計の長針がAにあるとき、自転車はAの位置でした。自転車がBの位置に来たとき、時計の長針はBの位置でした。時計の円板に割り付けた数字を読むと「Aは30で、Bは46」でした。結果、自転車は16分でLの距離を走ったと云うことです。注目すべきこと。距離は物理量[L]ですけれど、時間は位置と位置に数字を置いたものであって、量に対応していません。数字を差し引きして何分という時間[T]を求めました。時間は過去ですし、量を伴っていません。運動から求めますが位置でもありません。

岡潔の講演録【 2】 自然科学者の時間空間より引用します。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

下線は管理人による。 「運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。」の部分に大いに引っ掛かってました。岡潔の云ったこのことは、人が持つ「観念としての時間」だと理解するに苦労しました。こちらはどうしても「物理的な時間」をイメージしていました。 つまり、図1に示した時間です。 物理的な時間は、いくら「計測」について考えても表の赤い括弧の内側において「運動は時間に比例して起きる」と考えざるを得ません。ところが被測定対象物が図1の自転車ではなくて「天体や素粒子」になると人の感覚で分からない範囲になります。時間を用いている限り限界が見えています。 人の時間感覚は人が感覚として分かる運動にしか適用できません。何故なら(当該運動を)経験していないからです。 これが「物理的な時間」という事です。

岡潔が云った時間は、観念としての時間です。子どもの頃の1年は、大人になっての3年から4年にも相当します。 長らく悩んだのはこの点でした。 やはり、表の両端においては、量の裏付けのない数字に過ぎないようです。(被測定対象物が素粒子や超巨大な天体) 事実、教養番組で紹介されるブラックホールや素粒子あるいは超ひもなどはほぼ100%CGです。

 

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宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?

物理学者たちは宇宙を 数学 の数式で表せると考えています。 数学 が宇宙の真理を探す最適な道具だというならば、何故 数学 の難問に挑む学者は心を病むのでしょうか?

自然科学者とくに物理学者たちは、物を「分ける」ことによって、分かる(理解できる)と思っています。分かるの語源は「分ける」です。  数学 は、分けて考える道具として最適であることは間違いありません。しかしながら、数学の難問に挑む学者たちの中には心を病んでしまう人が多いとのことです。

このことは、何を意味しているのでしょう。管理人によるこれまでの考察によれば、自然の内、宇宙の仕組みが「分ける」ことにより、分かるものではないからだと考えます。 数学者の岡潔が一部認めたように、物質は「投影による映像」だろうからです。  「分けて分かる」と思っているのは、岡潔の云った「第1の心」です。数学は第1の心に発するようです。西洋人は心が2つあることを知らないということです。岡潔が指摘したように、実際のところ、「物質は分けて分かる」には、ほど遠い状態です。

恩師のF先生は、あるとき あることに対して「考え方が不健康」と云われました。第1の心の指向が「分けて分かる」ということであり、その行き着く先が「不健康」ということにつながると理解します。

哲学は「真・善・美」を求めると云います。数学が最適だというならば、「病」を付け加えるべきかも知れません。(冗)

 数学 で表せる大きさのスケール

人の感覚で分かる範囲を大きく越えて、理論計算できます。大規模実験によって確かめることができます。しかし、理論や実験を解説する際には、ほとんどがCGによります。 行き着くところ何も得る物がないようです。


研究は8年を終えて9年目に入ろうとしています。この3月に短時間ながら弧理論について発表の機会がありました。 終えてからは、これまでの数年分をまとめることにしました。とりあえずプレゼンの資料を作成中です。プレゼン資料の作成作業は、頭の整理ができます。その後論文形式にしようと考え中です。これまで、空想理論のようでしたが、段々とつながってきました。ここのところ記事の更新は滞っています。

  1. 自然科学は間違っている (時間空間というモデルの時間が問題)
  2. 時間は運動から作る
  3. 人の感覚で分かる「物質の運動」から時間を作る
  4. 時間は運動そのものではない
  5. 上表の左(極微の世界)と右(極大)の世界は人の感覚で分かる範囲を越えている
  6. 五感でわかる(赤い括弧内の)運動から作った時間と人の五感で分かる範囲を越えた物質の運動とを比較している (運動と運動を比較しているのではない。)
  7. 人の時間感覚は、表の両端では消失している
  8. ついでながら、相対論は、運動から作った時間を更に光速度に置き換えて基準としている(孤立系のまま基準をすり替えただけ)
  9. だから、素粒子物理学(表の左端)と相対論(表の右端)は相性が悪い

結局の所、人が持つ時間感覚は、表の赤い括弧で括った範囲にしか適用できないと考えられます。時間を用いるに「日常生活には支障がない」ことは明らかです。しかし、表の両端においては、時間は意味をなさないと考えます。 表の両端において立ち止まって考えることができないのは、「五感でわからないものは無いとしか思えない」という唯物主義なるが故だと考えます。

岡潔の言葉を元に時間について考えて早3年ほど経ちました。未だにすっきりしません。よくこんな誤魔化しを考えたものだと感心します。 1900年代初頭に孤立系である自然科学から開放系の理論に気付く機会を逸しました。 相対論の罪は重いです。

 

追記2022/6/30 この記事を書いてからだいぶ月日が経ちました。今では心を病む原因がわかっています。 原因は2つの心が乖離するからです。ヲシテ文献にあるタマシヰ、つまり、2つの心であるタマ(心の本体:岡潔の第2の心)とシヰ(生命維持の欲求:岡潔の第1の心)のバランスが崩れるからです。

人がわかるのは物と事です。弧理論においては、物と事は一つの実体の異なる面に過ぎません。

上から眺めると物質面(M軸という)が見えます。これがです。

図1

は、物質の運動です。これを運動と言います。物と事(運動)は同時には見えません。これが「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」という意味です。

人の心の本体は、岡潔が言ったように「第2の心(タマ)は、何となくその趣がわかる」という程度です。弧理論では静止画がわかると言います。これが時の現在で、”がわかる”です。

一方では運動であり、第1の心(シヰ)にあたります。これは時の過去です。弧理論では動画がわかると言います。これには時の現在(物がわかる)を記憶できる働きが必要です。その意味で人に肉体が必要です。

図3 タマ=時の現在(物がわかる:静止画がわかる) シヰ=時の過去(事がわかる:動画がわかる)→記憶する肉体が必要

事の複雑さに際限はありません。例えば、計算であれば、人の脳による生理的な電気信号の現れですし、これを紙と鉛筆を使うことで、論理としての整合性を維持したまま複雑化できます。これを抽象と呼んでいます。つまり、第1の心(シヰ)がわかるの複雑さに際限がないということです。

現代は偏差値が高い人ほど社会的に優位です。つまり、抽象的な論理を素早く入出力できる人が優位なわけです。概して(すべてとは言いませんが)知能の高い人ほどタマとシヰの乖離が大きい傾向にありそうです。これがタイトルの「数学の難問に挑むと心を病む」ことの原因です。

次図にまとめます。

図2

人は時の現在(ヲシテ文献にあるナサケエダ)と時の過去(ヲシテ文献にあるアワレエダ)がわかることにより社会性ができます。その結果、社会全体の文化文明の発達があり得ます。ただ、その行き着く先が図2に示す「すべての抽象化」です。繰り返します。事(運動)の複雑さに際限はありません。

例えば、おそらく多くの人にとって胡散臭いと感じるのが仮想通貨です。仮想通貨は論理的ではありますけれども、物ではなく抽象の極致であるです。

「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」という基礎がなければ2つの心の乖離により社会は崩壊すると感じます。2つの心の乖離はなんとしても避けねばなりません。

最近の記事で書いている通り、弧理論は、主義主張や思想信条などではありません。心の仕組みと働きを探っているにすぎないのです。絵画と画材に例えられます。絵画がありとあらゆる思想信条哲学宗教であって、弧理論により示そうとしているのは画材に相当します。 数学 は事を解析する道具ではあっても心の仕組みと働きがわかっていないと病む原因になります。

 

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量 とは、五感でわかる「物や事」

数学者岡潔は「数は 量 のかげ」と云いました。また、「物質は顕微鏡などで拡大するなど工夫してもよいが、最後は人の肉体に備わった五感でわかるものでなければならない」とも云いました。

これまでの考察によれば、時間もお金も「 量 の裏付けがない」単なる数字でした。 次表によれば、人の五感でわかる範囲は赤い括弧で括った範囲です。 この範囲が「物理現象」と云ってよいように思います。

では、現代の物理学が対象としている範囲(表の両端)はどうでしょう。時間は手元の運動から作ります。(しかし、時間は運動そのものではありません。) 手元の運動から作った時間と被測定対象物にかかる運動を比較しているに過ぎません。具体的には時間を含む数式で表しています。前回の記事を参照ください。

量 とは何でしょう。管理人は 量 とは人の五感でわかる「物や事」だと思います。つまり、(概ね)表の赤い括弧で括った範囲だと考えます。その範囲を越えて計算するということは、単に数式遊びに過ぎないと考えます。計算を可能にしているのが量の裏付けのない時間だと考えます。では、素粒子実験はどうかというと、そういう粒子は存在するでしょうけれども、そこに意味を見いだすことは出来ません。自然は存在ではなく映像だからです。自然は投影による映像だというのが弧理論の骨子であり、仮説です。 続きを読む

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宇宙 を数式で表そうとするとき、時間を含んだ数式で表すことはできない

自然科学において時間は特別であって、 宇宙 を数式で表そうとすると必ず時間を含みます。例えば 宇宙 を近接作用として表したとき

式 出典:こちら

上式のように、物質粒子力の粒子と物質に質量を与える粒子の合計になります。 この式の各項には時間を含みます。しかし、これまでに書いたように、時間は(物質の)運動から作ります。(日本標準時をつくる岡潔「自然科学者の時間空間」

物質の運動から時間を作り、かつ時間を用いて物質の運動を記述しています。これは循環論であり、矛盾しています。

これまでの考察によれば、時間は運動から作りますが、運動そのものではありません。運動の位置や角度です。しかも現在を含みません。過去です。

図1

例えていえば、A地点とB地点があったとき、「A住所-B住所」の差をとって時間と呼んでいるに等しいと考えます。時間は位置や角度であって、量ではありません。基本物理量に不適です。岡潔は「数は量のかげ」と云いましたが、時間は量の裏付けがないということです。 (注:これは大変重要なことです。”数”という一見確固たるモノサシ(量)であると認識されるのに「物の運動」に対して伸び縮みするようです。お金に似たところがあります。お金も数なのに量の裏付けがなく、これまた「物や事」に対して伸び縮みします。これが詐欺の構造です。)

振り子について随分考えましたけれど、振り子の運動について等時性は(一応)成り立っていると思います。しかし、(振り子など)手元の運動から時間を作っても、上表の両端の運動に時間を適用できるかどうかが問題です。数学的には計算できても、手元の運動から作った時間を表の両端に示す運動に適用できないのではないかとの疑問を持ちます。 事実自然科学者は1960年~1970年代にかけて単独で取り出せないクオークを物質と認めてしまってからは、抽象的な数学理論を優先してしまいました。これは唯物主義を放棄したということです。このことは過去にも書きました。

では、どうすればよいか。それは別の次元軸を想定して、物質的自然を記述するほかありません。勿論のこと時間を用いずに。 自然科学は孤立系です。そして、上式も孤立系のままです。しかも自然科学の枠組みである「時間・空間」という枠組みでは無く、事実上「空間」の内に理論は閉じています。空間を空間の性質のみで説明しようとするのが自然科学だということです。これはムリな注文です。

量子もつれや量子もつれの突然死、あるいは宇宙背景放射や赤方偏移にゆらぎはあっても方向に偏りが見られないこと。(ビッグバンの中心は地球になってしまう。)さらに重力によって空間が曲がるなどの現象は「余分な次元軸」を想定することによって楽に理解できるようになると考えます。何より上記の空間の性質を以て空間を説明しようという矛盾を回避できると思うのです。

もう一つ。「物質とエネルギーと情報」、この3つの間には密接な関係があります。同時に「物質の運動と時間」には関係があります。 どうも情報時間には似たところがありますし、何か関係がありそうです。もう少し考えます。

こう考えると相対性理論はもの凄く胡散臭く感じます。 ミヒャエル・エンデのモモの「時間とお金」を想起します。思いっきり何処かの誰かに都合良くつくられた世界です。

 

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発散トーラスによる 重力 の理解

2017年5月24日の記事「 発散トーラス の性質について」に続いて発散トーラスによる 重力 について説明します。その前にこれまでの考察を振り返ります。

  1. 自然科学の枠組み「時間・空間」は自然そのものではない。簡単な模型である。
  2. 時間は運動から作る。
  3. 運動は空間の性質の一部である。(空間に物質が存在し運動していると考える)
  4. 時間は空間の持つ性質の一部から作ったものである。
  5. 時間は過ぎ行く運動の記憶である。(人が持つ観念に過ぎない)
  6. 時間は、運動の現在を含まない。(時間は過ぎてからしか知り得ない)
  7. 従って、古典力学・量子力学とも決定論になり得ない。(確率とも精度の話しでもない)
  8. だから自然科学の「時間・空間」という枠組みは間違っている。(空間という枠組みならまだよい)
  9. 自然科学は、時計という装置の運動と被測定物の運動を比較しているに過ぎない。
  10. 量子力学にかかる無限大の問題は「9.」に原因があるのではないか。

E=mcについて、「物質→エネルギー、エネルギー→物質」へ転換するとされるが本当は一つの実体の異なる面に過ぎない。言い換えると物質もエネルギーも別の次元軸に在る実体が投影されることによって現れる映像であるということです。これが別の次元軸を考える根拠です。 少なくとも自然科学では自然が存在ではないことがわかっています。

 

発散トーラスには次の4つがあります。 続きを読む

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ゲージ 場の理論 「場」や「エーテル」は投影による映像だろう

管理人は、ゲージ 場の理論 について、理解できていません。ただゲージ場の理論 は電磁気学から考え出された理論であって、の伝わり方を近接作用として表したもののようです。 物理学者たちは力の伝わり方を近接作用として理解しようとしたということです。観測できる現象と仕組みが同じとは限らないと云うことは、これまでにお伝えしたとおりです。(例えば万華鏡に似ています。)

力が近接作用あるいは遠隔作用であるかの違いは、力の現れ方に対する考え方の違いによると考えます。 マイケルソン・モーレーの実験に見られるように、物理学の発達は時代の流れに影響を受けてきたことは明らかです。(そのあたりの事情は「七つの科学事件ファイル 科学論争の顛末:化学同人」に詳しいです。)

19世紀後期から何回かの実験によってエーテルの存在は(一応)否定されたのですが、「場」というのもよく理解できません。はっきりいうならば、空間というものが理解できていないからです。

これまでの考察によれば、空間は2つの宇宙の中心「アとワ」から出た実体投影されることによって現れる映像だと云うことです。

図1 古語であるカミを幾何学的に表現

漢字渡来以前の日本語にある古い言葉である「カミ」とは、「つながり、もたらし、生じさせる」でした。フトマニの「アウワ」と組み合わせることにより、カミとは次になります。

「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。ヒトは「ア」のもの。ヒトは「ウ」なり。

「ウ」とは、空間であり物質です。岡潔が云った自然科学が対象とする物質的自然です。また弧理論(Ark Theory)で云うM軸(物質空間)のことです。そして、渦(ウズ)の「ウ」でもあるようです。更に宇宙の大規模構造(アワ:泡構造)となっています。

人間が空間を立体として認識できるのは、投影元が「ア」と「ワ」の2つ在るからです。

図2

その空間が投影による映像であるならば、考えられる 場の理論 の背景にある「場」や「エーテル」も映像ではなかろうかと考えるのは当然のことです。 ステファン・マリノフは、絶対静止があると考えたようですけれど、同意しません。身も蓋もないことですが、場もエーテルもあるかも知れないし、ないかも知れません。 量子もつれは近接作用でも遠隔作用でも理解できないことは周知のことです。元を正せば場やエーテルという考えで説明できないということです。 すべては投影による映像だと考えるならば納得のいくところです。 超ひもなどど云わず背後にある投影の仕組みを考えるべきと思います。

真空は何もない空間のことではありません。真空からはみ出したのが物質だと考えられます。真空は2つの中心より出た実体が投影されて均衡がとれた状態のようです。 丁度、二層型の浮沈子における境界面に例えられます。

動画1

で云えば、浮沈子が水と油の境界面に出た状態が「空間に物質が現れた」状態に相当します。当然、境界面には緊張があります。場やエーテルは均衡が取れた結果であって現象の原因ではないと考えます。

 

電磁気学が金融資本家からの影響を受けているらしいことは、過去記事、「電磁気学 の発達は不自然 化学の発達との比較(トム・ベアデンの手紙を受けて)」に書いたとおりです。ならば、なおさら現代の「ゲージ場の理論」に裏付けされた素粒子物理学は(曲げられた)その先にあると理解する方が自然です。

図3

200種もあるという素粒子を17種に分類したと云っても、一つでも例外が出てきたら台無しです。はっきり云って少しも美しくないです。 すべてがE軸上にある実体の投影による映像だと考えるならば素粒子は破片であって、素粒子の分類に意味が無いことを理解できます。

図4 当サイトではエネルギー[ML2T-2]のことを運動と呼ぶ

E軸上の実体は6種類あって、基本粒子(陽子・中性子・電子)を含むすべての素粒子は投影角の違いによって、異なって見えるだけです。

過去に何度も書きましたようにリーマン予想に出てくるゼータ関数の(零点のペアに関する相関を表す式)が原子のエネルギー準位を表す数式と似ているのは偶然でないと感じます。 注:「零点のペアに関する相関を表す式」は、E軸上の実体が持つ真のエネルギー値に対応するとも考えられます。 図5 出典:未征服の最高峰「リーマン予想」 裾野を歩く (3)

これによってある科学者がE=mcについて述べた「物質の質量とエネルギーの同一性についての誤解」が解けるだろうと思います。 素数について考えると云っても12進数による素数である必要があります。 そうすれば真のエネルギー値と投影された映像である物質の質量、運動(エネルギー[ML2T-2])の3つの間における関係が投影角θあるいは「12進の素数」を介して理解できるようになると考えます。

カミの仕組みがわかったのは、2016年11月のことでした。以前は、支離滅裂でしたけれども、大枠から段階を追って説明できるというのは気持ちの良いものです。それにしても、管理人が「七つの科学事件ファイル 科学論争の顛末:化学同人」の古本を購入した際には千円までの値段だった記憶があります。とんでもない値が付いているのに驚きです。

写真1

 

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TOPPING21 故障修理ならず の続き

昨年12月20日の記事「 TOPPING21 故障修理ならず」の続きです。

TOPPING21は、Tripath社のD級デジタルアンプIC、TA2021Bを使っています。

写真1

管理人のTOPPING21(改)は(恐らく)ICが故障したため、格安のデジタルアンプを購入してました。

写真2 ELEGIANT Bluetooth 2チャンネル パワーアンプ ステレオ スピーカー HI-FI アンプ ゴールド 電源アダプタ付き

写真2やお馴染みのLepy デジタルアンプ LP-2024A + Tripath TA2024などです。そして、FOSTEX AP20dを購入しました。

写真3 上からLepy(改)(基盤の赤と黒のやつ)   FOSTEX AP20d と TOPPING20(改)

しかし、どれもいまいち足りません。FOSTEX AP20dはもう少し音が柔らかく出て欲しい。それと後ほんの少し低域が出て欲しい。ネットで検索した低音域改善する改造をTOPPING20(改)にてやってみましたけど、ボソボソした低音でとても聞いてられません。  諦めがたくTripath社のD級デジタルアンプIC、TA2021Bを載せたデジタルアンプに期待してWINGONEER TA2021デジタルアンプ2021B 12Vアンプを買いました。

ところが・・・やってしまった!

写真4

買って直ぐに試聴したところ、ジーッというハム音に似た音が常時出ています。(格安の中華アンプだから、最初からわかりきったことながら、)ICの入力周辺を指で触ると、場所によって少し変化します。一部入力に回り込んでいる? そこでマイナスの小型ドライバでヒートシンクをはずすべく、少しこじたところICのピンごと取れてしまいました。開封してから僅か30分のことでした。  写真4ではわかりづらいですけど、ピン間においてブリッジしているところがあります。データシートと見比べてパターンがそうなっている箇所もありますが、そうでないところもありそうです。写真の通り再度ハンダ付けで付け直すことは不可能です。周囲の電解コンデンサを一旦外すという手もありますがかなり面倒です。ブリッジを手直ししてもハム音?が改善されるとは限りません。

もうICを故障したTOPPING21に移植しようかとも考えます。でも既に部品取りしてこの有様です。

写真5

部品取りしたTOPPING21の基盤にICをハンダ付けすることはかなり難しいけど、出来なくはなさそうです。でも15個ほども部品取りした後ですから、他のアンプから取り戻さねばなりません。なんてこった。思案です。 他にも衝動買いした格安デジタルアンプがありますが、出せません。我ながら病んでます。 そりゃかつてTOPPINGのアンプが売れた訳だ。

 

追記 1月27日 結局 、「WINGONEER TA2021デジタルアンプ2021B 12Vアンプ」のICは逝ってしまった。  思案の末、TOPPING21への移植はせず、元に戻すと決めました。

写真5 何とか元に戻した

ICの右隣の電解コンデンサ2個を取り除いて、再ハンダ付け作業。

写真6 一旦修理できたところ

 

写真7

試聴したところ、一応元には戻ったのですけど、当たり前ながらハム音?(電源からのハム音よりかなり高いです。)は続いてます。発振とは違う、どれかの部品からノイズが乗っている感じがします。パターンからの設計ミスなら全品不良で出荷できないはずです。

仕方ないので、付近のコンデンサを別のものに交換しながら試聴を繰り返したところ、大失敗。ポップ音すらしなくなった。  デジカメのスーパーマクロで撮って確認したら、コンデンサ交換の時にハンダくずが飛んでICのピン間をブリッジしてました。 ICはタヒんだ。TOPPING21修理の方がよかった、といっても後の祭り。

写真8 写真6の一旦修理出来たところからの比較。2-3-4ピン間でブリッジが!!

その後、ブリッジを除去して試したけどダメでした。

修理を検討しているとき、どこかで見かけたのですけど、壊れたTOPPING TP21のIC(TA2021B)に秋月電子の激安アンプ「10W+10WステレオD級アンプモジュール(USBI/F付き)」に使われているTA1101Bを移植してました。ピン配置が違うだけでいけるのでしょうか。

写真9

凄いことする方もいます。

 

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電磁気学 の発達は不自然 化学の発達との比較(トム・ベアデンの手紙を受けて)

トム・ベアデンの手紙(Tom Bearden’s Response to ARPA-E) に 電磁気学 の発達は、金融資本家であるJ・P・モルガンの命令により歪められたと指摘されています。そこで 電磁気学 の歴史と化学の発達史とを比較しました。

写真1 出典:ジョン・モルガン

化学の発達は18世紀後半からの産業革命と切り離せないものがあります。

図1 出典:Tech Note

図1によれば無機化学の基盤が整ったのは1740年~1780年にかけてであり、火薬や写真・塗料への展開が続きます。1820年頃からは種々の化学工業が興り、有機化学工業の基盤が成立したのもこの頃です。 図1を参考にしながら、物理学上の発見と電磁気学の発展を「原子」という視点から整理しました。 続きを読む

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開放系から見た 物質的自然 には、一切の原因は見当たらない

数学者岡潔は、自然科学者が研究している対象を「 物質的自然 」と呼びました。 紡錘図形について、永く研究しているとM軸(物質空間)には、その原因となる物や事が一切ありません(見つかりません)。

紡錘図形は、開放系の模型です。開放系とはM軸(物質空間)が余分な次元軸であるE軸上の実体からの投影による映像だという考え方です。

図1

管理人は、岡潔が云った 物質的自然 と弧理論の考え方に示すM軸(物質空間)は同一と考えています。 M軸(物質空間)には、その原因となる物や事が一切無いと考えると、物質的自然にも物や事についての、原因は一切無いと考えざるを得ません。

自然科学は孤立系の学問です。知りたい対象を常にブラックボックスと考えます。 続きを読む

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単極誘導 モーターに生じる力について、2つの実験の比較

2013年に行ったファラデーの 単極誘導 モーターに生じる力について調べた実験の内、以下の2つについて、比較することで考察します。(今回の記事は、過去の記事と重複しますがご了承ください。)

電磁気学では、誘導起電力Vは次の式1に求められます。

参考:ファラデーの円板

注:単極誘導にかかる起電流は、微弱すぎて定性定量的に判別しにくいので、主に単極誘導モーターに生じる力について調べてきました。 (発電)も(モーター)も時間的に磁束密度が変化しないで起きるものとするならば、両方の現象は対称と考えてよいはずです。しかし、今までのところ、ファラデーの単極誘導(発電)の現象と単極誘導(モーター)に力が生じる現象とが異なる面を示していて、対称だと確信していません。

 

(1) 2013年7月 「接点で生じている」ように感じたのは、スズメッキ線の弾かれる様子を観察したことによります。前々回の記事に記しました。

写真1 続きを読む

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