漢字伝来以前に文字は間違いなくあった。 聖徳太子と蘇我氏の功罪

漢字が伝来する以前に日本に文字はあったと考えざる得ません。 興味深い記事がありましたのでメモしておきます。

一般的には漢字伝来(4C頃)以前に日本に文字はなかったとされます。 ~漢字の歴史~より

●日本伝来時期
では漢字はいつ日本に伝来したかというと、270~310年頃に『論語』、『千字文』が百済から到来したことが公式的に初めてとされています。しかし実際はもっと早く、1世紀ごろにはもう朝鮮半島を経て入ってきたともいわれています。それまでには日本に文字はなかったとされていますが、江戸時代の学者や戦前の右津朝、軍人の中には、大昔の日本には文字があったとして神代文字なるものの存在を、まことしなやかに主張しています。

 

漢字は1世紀頃には日本に入ってきていたようです。そして、漢字以前にあったとされる神代文字を否定しています。

 

次に、紫霄閣というサイトでは、漢字伝来以前の日本に文字が存在したことを前提に論じています。サイトより聖徳太子が封印した日本の優れた古代文化(*1)の一部を引用します。(最近当該サイトは閉鎖されました。日本に忍び入るユダヤが参考になります。2017/02/15追記)

 ・そもそも、よむ、かく、しるす、ふみ、したためる・・など、読み書きに関する言葉は全て訓読みである。漢字以前に文字がなかったというなら、これらは、全て音読みである筈である。

 

dog1b写真1

大和言葉の「いぬ」は「」という文字が日本に入ってくる前から、日本列島にいたからこそ写真1を「いぬ」と呼ぶのです。 ですから、「よむ、かく、しるす、ふみ、したためる」という名詞・動詞は、日本に漢字が入ってくる前から日本で「ふみ」を使って行われた行為だったのです。その対象は「文字」以外にあり得ません。 これほど明確な論証はありません。

 

では、漢字伝来以前に日本にあった神代文字とは何かというと、

ahirukusa1写真2 神代文字一覧より

アヒル草文字や

hotumamoji写真3

ホツマ文字などであったようです。

文献的には、フトマニ、ミカサフミ(三笠記)、ホツマツタヱ(秀真伝)や竹内文書などでした。

ただ偽書であるとされるものも多いです。

(1)竹内文書は、竹内巨麿が昭和3年に公開したもの

(2)第73世武内宿禰を自称する竹内睦泰氏の伝える竹内文書 の2つがあります。

(1)は、関連図書(*2)を読みましたけれどあまりに荒唐無稽な内容で参考になりませんでした。 ただし、竹内文書の編纂を勅命した武烈天皇は、日本書紀において意図的に貶められており、極悪非道な武烈天皇が行ったとされるまともな行為が竹内文書編纂の勅命であったということは興味深いです。また、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への皇位継承の経緯も不自然です。さらに古事記での武烈天皇の伝承と相違があるのも不自然です。このことから武烈天皇が実在したか疑問とされる理由になっています。  *2 高坂和導著[超図解]竹内文書Ⅰ、Ⅱ(徳間書店)

(2)は、竹内睦泰氏によれば本来口伝であり伝承者自身が記憶できないので文書化しているが、一部を除き外には出ていないとのことです。

 

管理人が知りたいのは、「和を以て貴しとなす」という日本的なるものがどこから来ているかということです。

その神髄が日本教なるものにあると確信し、日本教と同時に歴史を調べているのですが、行き止まりとなって難渋しています。(神代文字は訳がわかりません。ホツマツタヱは本物のようです。)

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動画1

ただし、律令制度国家の礎となった十七条憲法が制定されたときに日本が中世ヨーロッパのような暗黒時代に入らなかった理由がなんとなく理解できそうだと気付きました。


 

因みになぜ日本に中世はなかったのかという件に関して一部引用します。

われわれは中世と言えば武士が台頭してきた時代だと教わってきた。しかし、それは政治的王権の移動だけのことで、信仰という国家哲学(アイデンティティ)の根幹部分である宗教改革はまったく起きていないのだ。わずかながらに王となろうとした織田信長や、権現となった徳川家康にその片鱗を見るが、信長は殺され、日光東照宮もまた伊勢・出雲ほどの日本人の信仰の中心にあるとは言えない状況である。

日本の戦国時代にも中世がなかったのは事実のようです。また、憲政史家の倉山満氏によれば江戸時代は、江戸時代(Edo Period)であって中世ではないとのことです。

日本で中世があれば、ヨーロッパの暗黒時代に似た魔女狩りが行われて日本国内でカルト宗教のような粛正が行われていたに違いありません。 もし日本がそのような状態であったならば、とっくの昔に外国に侵略されてしまい、今頃は英語かロシア語を公用語にしていることでしょう。


 

その最初の出来事が冒頭でご紹介した(*1)の出来事だったのではないかと考えます。蘇我氏による焚書と聖徳太子による律令国家体制の整備は、日本史最大の事件だったと思います。 このとき宗教改革が起きても不思議ではなかったということです。

なお、管理人は、仏教の伝来(538)が宗教改革にあたるとは考えていません。動画1において、小室直樹氏が、「仏教も儒教も戒律を全廃してしまい、本来ありうべからざる宗教(や哲学・思想)にしてしまった。」と述べています。 これまで、管理人はインド発祥なのに何故最澄や親鸞なのか理解できませんでしたが、仏教を日本的なるモノに作り替えた故の事だったと理解しました。

日本人は、何でも丸呑みして、できあがったものは元のモノと似ても似つかぬモノにしてしまいます。アニメ映画千と千尋の神隠しに出てくるカオナシのモデルは日本人だと思います。

kaonasi4dba写真4

ついでに萌えキャラ 日本鬼子

日本鬼子123写真5

nihonnki2写真6

追記 2017/06/15

音訓一致である”死ぬ”という言葉について。人は日本に漢字が入ってくる前から”死んで”いました。ですから、相当する言葉があるはずです。 調べてみたらホツマツタヱに該当する物語がありましたので追記します。

まず「死ぬ」という言葉について、ネット上に質問・回答のサイトがありました。こちらから一部引用します。

「死」と言う言葉(文字)が入ってくる以前も、もちろん人はたくさん死んでいるわけですから、当然、日本語にその現象を指す言葉は存在します。和語の「ゆく(逝)」「はつ(果)」「きゆ(消)」「いぬ(去)」「まかる(罷)」「みまかる(身罷)」「をはる(終)」「こときる(時切)」などが使われていたのではないでしょうか。
古事記を見ると、神々や天皇の死には「かむあがります(崩)」「「かむさります(神避」「みをかくす(身隠)」といった言葉が使われているようです。

下線は管理人による。

神々の死には、「みをかくす(身隠)」という言葉が使われていたとあります。 ホツマツタヱの中に該当するところがあります。 アマテルカミさんの母方の祖父であるトヨケさんについてホツマツタヱ講座の「トヨケ・トユケ・トヨウケ」から一部引用します。

 宮津 (マナヰ原) の辞洞に自らに入り、アサヒ神と贈り名される。

下線は管理人により、辞洞は「イナホラ」と読みます。

宮津は、京都北部の天橋立のある街で元伊勢として有名な籠神社の地です。 マナヰ原については、宮津の北西に位置するようです。 籠神社の近くにある真名井神社にトヨケさんが祀られています。  トヨケさんに死期が迫ったときのことについて、ホツマ縄文日本のたから:池田満著展望社より一部引用します。

アマテルカミがトヨケからの使者に会ってみますと、トヨケの寿命が尽きようとしているといいます。・・・・アマテルカミは取り急ぎ宮津へと出発しました。

当時のミヤツノミヤは、今の宮津市内より西北へ約四キロメートル、天橋立の南端にあったものと推定されます。トヨケは、アマテルカミにとって祖父でもあり、師でもあり、また、老齢に及んでからは山陰道の政を委託したいきさつもありました。

はやる心に駆られつつアマテルカミが宮津についた時には、すでにトヨケは十五キロメートルほど北西に入ったマナヰに行って崩御ほうぎょ(おなくなりになる)の準備にとりかかっていました。アマテルカミも追ってマナヰ(現在の比沼真名井ひぬまない神社)に向かいました。

マナヰは、丹後半島の付け根にあって、宮津と久美浜との中間です。

トヨケはマナヰの北西にそびえる久治ヶ岳くじがたけの頂上付近に洞ほらを掘らせていました。トヨケは洞の中に入って崩御ほうぎょするつもりなのです。アマテルカミがマナヰに着いた時には、すでに洞も完成しかけていました。

死期が迫ったトヨケさんは、洞を掘らせて、自ら洞にこもって崩御したのです。この洞は、上記の辞洞(イナホラ)のことです。 辞洞の「いな」は「いぬ(往ぬ・去ぬ)」の名詞化とあります。

いぬ(往ぬ・去ぬ)は、「行ってしまう。去る。世を去る。」などの意味を持ち、関西方言で用いられます。 関西在住の管理人も「いぬ」は日常の会話で(おいとまする)という意味で使います。

神々や天皇が「死ぬ」ことを、洞に「隠れる」や「いぬ」と表現してます。 「死」という字には、死して「無」になるという意味合いがあるように感じます。けれども「身を隠す」や「いぬ」は、無になるのではなくて、どこかへ去る、あるいは帰るという意味合いにとれます。

 

「カミ」とは「つながり、もたらし、生じさせる」仕組みであることがわかっています。 フトマニの中央「ア・ウ・ワ」と組み合わせて、詳しくすれば、「カミ」とは、

「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。ヒトは「ア」のもの。ヒトは「ウ」なり。

つまり、「カミ」とは自然・宇宙の仕組みを意味します。人は死して無になるのではなくて、カミの仕組みの内に自然に帰るという意味だと考えます。それが「いぬ」ために「隠れる」ということです。宇宙は唯一絶対神が創ったというのと、まるで違います。

縄文時代に一般の人々が「隠れる」「ゆく(逝)」「はつ(果)」「きゆ(消)」「いぬ(去)」「まかる(罷)」「みまかる(身罷)」「をはる(終)」「こときる(時切)」などのどれを使っていたかはわかりません。

しかし日本人は、死して無になるのではないと理解した上で「自然・宇宙に帰る」という意味で神として祀るのだと思います。  現在の絶対神としての天照大神には、違和感があります。

 

追記 2017年7月4日  次の動画が興味深いので載せます。

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動画2

で紹介された奈良時代の人たちの喋っていたであろう言葉を再現したものはとても奇妙です。当時は母音が8つあったとされます。 それ故にヲシテ文献は偽書だと判断されるようです。

母音8音の問題について、どう捉えるかは、『ホツマツタヱ』を読み解く:池田満著展望社刊より一部引用することにより理解できます。P20~

『古語拾遺』の編まれた平安時代は、漢字が渡来して国字化されてからすでに数百年の時を経ている。平安時代の初期という時代はとにかく帰化人の活躍が目立つ時代であった。坂上田村麻呂(後漢霊帝の子孫)の東北地方遠征もあり、これら帰化人の進出が極めて著しい時代だった。

ちなみに『新鮮姓氏録』に本朝人(在来の日本人)とされる八〇四氏にたいし、諸蕃(帰化人)は三七三氏を数える。つまり、今に言う紳士録にも載せられるほどの人々についての帰化人の比率は一一七七氏(八〇四+三七三)分の三七三でおおよそ三二%にも及んでいた。現代での外国人の比率はどうだろうか。国際化が叫ばれていても、紳士録での外国人比率三二%にはとても及ぶべくもない。

奈良時代頃には、現在より遙かに多くの外国人で溢れていたことがわかります。そういった中で、古い日本語に変化を及ぼすのは当然だと考えられます。その上で、同氏は次のように述べています。P22~

翻って考えてみると、八母音の存在していたとされる奈良時代には、すでに波羅門僧(インド人)の菩提仙那・林邑の僧仏哲が来日していた。ということは、十二母音ほどもある悉曇音(サンスクリット語)の伝来があったことになる。当時の日本に八母音が実在していたのならば、八十音図などといったように、五十音韻図よりも多い音韻表が作成されていても良いはずである。しかし、五十音図を大きく上まわる音韻表は伝わることがなかった。

そしてもう一つの試論としては、数百年の時を経ただけで消滅してしまうものは、その成立においても古くには遡ることができないと想像される。 比していうならば、動詞の五母音に沿った活用の法則は、漢字渡来以降、千数百年の命脈を保ち続けている。

動画2を観てわかるように、我々日本人は漢字の渡来から、完全に自分たちの物として使いこなすのに千数百年かかっていることがわかります。 今日のような「言文一致」に至ってまだ100年ほどしか経っていないということです。 元々、5母音であった日本語から8母音を経て、再び5母音に戻ったと考えても、それほど不思議ではないと考えます。 逆に云えば、古い日本語の持つ構造が非常に堅牢であるということです。それは今日においても「外来語を飲み込んで、元とは似ても似つかぬ日本的なるものに変えてしまう」という特性に現れているように感じます。

ついでに、

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動画3

 

Φ について

2010年より研究しています。
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