知識・意識
これまでに、言葉、言語における論理の仕組みから来る知識や意識の限界について考察してきました。これを外のない内と言います。
- 2025年8月16日 知識の限界 、意識の限界
図1 論理の基本形は2つ
知識、情報のネットワークの基本形は2つあって、どんなに複雑であってもこの2つの組み合わせに過ぎません。あるいは、この2つに分解できます。
如来の仕組み
並行して、仏教の 如来 についても考えてきました。意味を書き下すと次のようです。
- ~の如し、の如し、の如し、の如し・・・・
- ・・・・のような、のような、のような・・・・
以前、次のような例を挙げました。
- 鐘が鳴るか、撞木が鳴るか。
- 合わせ鏡
もし興味があれば右の検索窓で、上の語句を検索して過去記事を参考にしてください。
これは禅問答のようですから、もう少しわかりやすくします。
- 前は後ろの如し、後ろは前の如し
- 表は裏の如し、裏は前の如し
- 右は左の如し、左は右の如し
- 真は偽の如し、偽は真の如し
- 1は0の如し、0は1の如し
それで、岡潔が言ったように「自然数の1は決してわかりません。」つまり、如来の仕組みにおいて、1は決してわからないし、真も決してわかりません。
- サンスクリット語で「a mita tathagata」は漢字で
- 阿 弥陀 如来(漢字意訳)と言います。
- 「a」は否定で、mitaは「量る」です。
- 阿弥陀如来は「如来は量れない」との意味になります。
- 如来に人格性はありません。
阿弥陀如来の意味からして 如来 は量れません。それで、注目するのは次です。
- 1は0の如し、0は1の如し・・・・
- 1がわかるためには、その前に0がわかっていなければならない。
- 0がわかるためには、その前に1がわかっていなければならない。
- だから、1は決してわからない。
- これを10進数(自然数)に拡張しても同じ。
もう一つの如来
ここで、如来の構造は、図1の左に同じ(往復)だと気づきます。つまり、「Eはmの如し、mはEの如し」ですし、超ひもの一つです。また、「スプーンは匙の如し、匙はスプーンの如し」です。
それで、如来には図1の右に示すループ構造もあり得るとわかります。
- スプーンは洋風の匙の如しであり
- かつ、匙はスプーンの如し(と言うループ)
「往と復が異なる経路の 如来 がある」と言うことになります。これまでに誰か気づいているのかしら。
因みに、図1の右方(論理のループ構造)は、所謂、古代インドの宇宙観と同じです。
図2 古代インドの宇宙観
古代インドには、蛇のループという宇宙観と仏教における如来のような往復の宇宙観があったということになります。
究極の問い
- 「宇宙、あるいは自然とは何か」と問うことは、「ヒトと何か」を問うことに等しい。
自然、あるいは宇宙を追求すると知識・意識の構造、言語の構造の基本形(如来ともう一つの如来)に辿り着くというお話でした。
自己の持つ「わかる」という「働き」は、自己以外の全てに向かっています。それとともに『「わかる」という「働き」を持つ自己とは何か』という疑問に対する答えはありません。決してわかりません。何故ならば、自己と対となるのは自己以外の全てだからです。
これまでの考察の結果(既出分を含む)を以下にまとめます。
- 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。(弧理論Ark Theoryの基礎)
- 物と事は必ず「対」となる。
- 物と事は互いに規定し合う繰り返し。
- 「対」とならない何かは決してわからないし、量れない。
- 対となる何かは、意味も価値も意識でもわかる。
- 物と事は繰り返しだから、意味も価値も意識も幾らでも反転する。
- 対となる物事の総量は保存する。(エネルギー保存の法則)
- 自己と対となるのは、自己以外の全て(自然、宇宙)
- だから、自己とは何かを問えば、自然とは何かがわかってくる。
- 但し、対とならない自然は決してわからない。
- 意識は空間を覆うが、意識は知識・情報の上に載っている。
- だから、意識は(空間を含む)全てを覆っているが、それより外へは決して出てない。
- これを外のない内という。
- 対とならない何かは、量れないので保存しない。
- 観測できる対となる現象、物性は差分である。(弧理論による)
- だから、対とならない何かからエネルギーの流出の仕組みを講ずれば、フリーエネルギーは実現可能である。
- 詳細は略
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