数学者岡潔 の読み方

本記事は、 数学者岡潔 の存在を知ってから気になってきたことです。何とかお伝えしたかったことで、記事にしたものの難し過ぎることから諦めてきたことを、あらためて記します。また、個人的なことも含みますことをご了承ください。

数学者岡潔の存在を知ったのは、フリーの物理学者井口和基氏のブログからです。(現在は、新ブログに移行しています。)それが2013年頃のことです。 2013年10月15日の記事『「時は金なりTime is money.」の本当の意味』において、初めて岡潔を引用しています。それから数えて200件ほども記事にしたことになります。当時、お金の仕組みを調べており、ミヒャエル・エンデがお金を時間に置き換えていることから時間について気になりだしたのが始まりです。

ここまでの間、数学者岡潔の言葉を参考に考え続けてくる内に、どうにも気になることがありました。ネット上に書かれている「岡潔の書籍や講演録などを読んでの感想」について、どうも管理人の読み方は、他の方の感想と異なっているということです。

理系、あるいは文系などと仕分けるのは日本だけらしいですけど、あえてそうわけて考えます。 岡潔は、歌を詠んだようです。2017年11月に訪問した岐阜市の山崎弁栄上人記念館でも岡潔の色紙を観た記憶があります。 例えば文系と見受けられる方による感想では、自然を「花鳥風月」あるいは(仏教などの)思想哲学的に捉えて岡潔の書籍講演録を読みます。 理系と見受けられる方による感想では、岡潔の数学に対する功績に関心を持った上で、岡潔の書籍講演録を読みます。そのどちらも、ある部分正しいのでしょうけれども、間違ってもいます。 岡潔自身は、自然をそのような見方で捉えていなかったと断言できます。その理由は以下です。

 

管理人が岡潔を読むようになったのは、「自然科学は間違っている」と云ったからです。その問題点が時間にあると述べたからです。彼の思想や哲学に魅せられたからではありません。「自然科学とはどういう学問か、自然科学において時間はどう扱われてきたか、時間とは何か」ということについて考える切っ掛けを与えてくれたのです。そうやって考え始めたのが2014年頃からと云うことになります。ですから、岡潔を参考にするのは、数学者岡潔思想研究会のサイトにあるわずか4~5の講演録だけでした。

いろいろと考察を進めた結果、自然科学には適用できる限界があって、その限界の理由は時間にあることが明らかになってきました。で、その過程において気になり出したのが、冒頭の「岡潔の読み方」なのです。というのは、岡潔自身が「考えるということの仕組み」について述べている箇所を読んだからです。講演録にある「【10】 右の内耳」から一部引用します。

夏休み中ぐらい、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい。まあ、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く、これをやりなさい。

観音菩薩はこの1つの修業だけで不生不滅を悟ったのだと云われてるんだから。そう云いましたね。

 そしてこれをやれば、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く ― 関心を集めるというのは精神を統一すること。それがよく出来てれば、その状態において見たら、変わって見える。

【27】 西洋人の創造」の解説からです。

岡はこういっている。「精神集中をつづけていると、いつしか努力感を感じない精神統一になっている」と。

また、「数学する人生」には次のように述べています。

研究中は、あるわからない「x」というものを、どこかにないかと捜し求めます。捜し求めるというより、そこにひたすら関心を集め続ける。そうすると、xの内容がだんだん明らかになってくる。ある研究の場合は、これに七年くらいかかりました。p37

xがどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。

わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。

数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。p38

以上、3つの引用部分をまとめると次になります。

あるわからない「x」というものを、どこかにないかと右の内耳に関心を集め続ける。いつしか努力感のない精神統一になっている。そうして情的にわかっているものを知的に言い表そうとすることで、文化はできていく。

ここで、数学者岡潔が何をやってきたかわかりました。そして、その結果として、数学の実績を遺すとともに「数は量のかげ」や「自然数の1は決してわからない」と云ったのです。 但し、精神統一という語を用いると読む人に誤解を与えます。「努力感を感じない(精神統一)」と述べていますので、まだ理解がしやすいですけれど、それでもわかりにくいです。

 

管理人は、若い頃にG・アダムスキーの本を読みました。そこに書かれていた内容を今の時点で表現すると、次になります。

人の「わかる」には、人の五感(センス・マインド)とは別(ソウル・マインド)にあり、想念として伝わる。その「別」により「わかる」には、弛緩と関心の状態である必要がある。

これを知ったからといって、どういうことはありません。しかし、それこそ20年とか30年という長い年月を掛けて少しずつ「弛緩と関心」の状態ができるようになりました。2010年から研究に専念している今でも希にできるかもという状態です。ですから、上記に引用した岡潔の言葉を読んで、「自分がやってきた方法と同じだ」と感じて即、納得した訳です。 つまり、「弛緩と関心」と「努力感のない精神統一」は、同じ事であるわけです。 これは、冒頭に記した「文系・理系の方の読み方」とは異なります。決して字面で読めるものではありません。 岡潔は、それこそ「7年物間、xに関心を集め続けた」のです。

 

ここで、例え話です。皆様も年間を通じて何度か、神社やお寺にお参りすることがあるでしょう。管理人も同じです。その際には、家人に云ったことがあります。「人は、生まれてこの方、あれこれ願い事や悩みなど、何かしらずっと考えている。だから神仏に手を合わせるときくらい何も考えないように。」 手を合わせるのは、たかだか10秒ほどです。年間で合わせて1~2分もありません。実は、これが結構難しいです。

例えば、管理人の日常における24時間の内訳です。 睡眠が8時間。自室で作業するのはだいたい10時間~11時間くらい。その間に散歩やウォーキングなどを含みます。他は食事・入浴・家族と過ごすなどです。  で、研究としての考察の時間はというと、どんなに気を入れてもトータルで2時間くらいまでです。 その2時間を研究課題(と感じること)にあてているということです。研究課題の内のほとんどは、これまでの考察の結果の反復復習です。そして、研究課題にかかる本当の目的である(あるかないかわからない「x」について)考える時間(弛緩と関心)は、たぶん5分もないでしょう。 それほどに困難です。それは「手を合わせている間、何も考えない」というのに匹敵します。 24時間の内の5分というのは、睡眠後、目を醒ましてから起床までの考察の復習の合間であったり、ウォーキングや入浴の間であったりします。ほんの少しの時間です。 研究に専念しているならまだしも、自営業の方や、サラリーマンであったりすれば、様々な用事や悩み事等を抱えながら生活するわけですから、『あるかないかわからない「x」について、弛緩しつつ関心を集め続ける』などということが不可能なことだと断言できるとご理解していただけるはずです。

何となく(あるかないかわからない「x」について)弛緩しつつ関心を集められるようになってきたなー)と感じたのは、はっきりしませんがここ十数年くらいのような気がします。 あらためて、「弛緩と関心」という心の状態が岡潔の云った「努力感のない精神統一」であることをご理解していただけると思います。それが如何に困難であるかということです。

 

その上で、それまでの気になって調べたあれこれを比較して図にしたのが次です。

図1

岡潔は、「情・知・意」の順に働くとしました。これまで述べたのは、「情→知」の部分です。この部分は、ヲシテ文献で云えば、「タマ+シヰ」の間に相当します。この過程は、既に記事にした「イクラムワタ ヲ ネコエ ワケ」です。日本語の基礎がここにあります。 岡潔は、「情的にわかっているものを知的に言い表す」としましたけれど、「知的に言い表す」というのは言葉「日本語あるいは数学」で「言い表す」ことです。ヲシテ時代(縄文時代)の人たちは、その日本語の基礎である(五七調のアワのウタ)を「イクラムワタ(五感でわかる物や事)」から創ったのです。 その意味では、漢字など後付けに過ぎません。

ついでながら、想念の経路のみについて、図にしたのですけれど、そこにはG・アダムスキーのマインドも入っています。

心と想念の経路

図2

他に参考にしたのは、記紀にあるシラス・ウシハクのシラスの元となる「シル:知る」です。しかし、岡潔の「情・知・意」を含めて現代人には、とてもわかりにくいです。最もわかりやすい表現として日月神示に頻出する「気(キ)付く」があります。で、図に「気(キ)付く」を入れました。図2と図1とでは、矢印の向きが逆になっています。 図1の方が見やすいです。

要は、岡潔が述べている「文化ができていく」過程は「気(キ)付く」ことによりできていくのです。これならば誰にでもわかりやすいです。

 

以上を踏まえて、これまで「ヒトノヨ・カミノヨ」をキーワードに10件ほど記事を書いてきました。過去記事に2017年3月10日の『日本は「 トコヨクニ 」を再興するべき』や2019年1月29日「新しい 天皇 に期待すること」、2019年2月21日「神道 に教理教典がない訳」などがあります。

天皇は神武天皇の時に「人皇=ヒトノヨ」として即位しました。それまでは「神皇=カミノヨ」でした。

図3

日月神示には、「神武天皇は外国勢力に配慮せざるを得ない動きをしたから人皇として即位した」と記されています。日月神示の五十黙示録第2巻「碧玉之巻」10帖に書かれています。『原爆を落とされ戦争に敗れたことがなぜ「岩戸開き」だったのか!? 日月神示は逆説に満ちている! 《謎解きセミナーin the book 1》 (謎解きセミナー in the book)内記 正時 (著)』p155より一部引用します。

神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸に隠して神倭伊波礼琵古命カムヤマトイワレヒコノミコトとして、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸閉めの一つであるぞ。

カミノヨとは、岡潔が云った「努力感のない精神統一により、情的にわかっているものを知的言い表そうとする」行為によって、人々を教え導いた「ヨ:世」だったのです。そうして文化ができていった時代だったということです。それがカミノヨにおける天皇の役割だったのです。ですから、当時の天皇は象徴ではありません。その行為がシラスであった訳です。 ところが「外国勢力(幽界身魂がいこくみたま)に配慮せざるを得ない」ことで、神武天皇以来、ヒトノヨになったのです。ヒトノヨとは、岡潔の行為と似ていますが、全く異なる「祈祷:呪術」によって、人々を引き連れた「ヨ:世」だったということです。

 

余談です。何ヶ月単位で新しい考えが出てくるのではありません。一昨年より昨年、昨年より今年というくらいで少しずつ出てきます。これまで考えてきたのは、次のような装置や考えです。

動画1 フリーエネルギーの概念を示す模型

動画2 同じく、携帯型の模型

動画3 二層型の浮沈子

物質的自然は、別の次元軸からの投影による映像だろうとして、その仕組みを次により説明しました。

「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。ヒトは「ア」のもの。ヒトは「ウ」なり。

これがカミの仕組みです。この「ア」と「ワ」を水と油に置き換えることによって、境界面に「ウ」ができます。「ウ」が即ち物質的自然ですし、動画1と2に示す様な「ウ:渦」によって成り立っているとする仮説です。

次図は、G・アダムスキーが遺した紡錘図形です。

図4

紡錘図形は、2つの円弧(Ark)よりできています。円弧の中心が「ア」と「ワ」です。その結果「ウ」をもたらすのです。

紡錘図形を参考に、井出治氏の本にあるトランス(デゴイチ)にこの仕組みを適用することで得られたのが発散トーラスです。

発散トーラスは、「単極でありながら、渦あり」です。正と負の2つの発散トーラスを組み合わせたのが楕円磁場です。

図5

図6

 

お話を元に戻します。 これらをご理解いただくことは難しいです。しかしながら、プリンストン高等研究所にて研究者たちは日々研究を重ねる上で、もれなく数学を使っています。この数学について、ある科学者が云った言葉は、示唆に富んでいます。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

いわずもがな数学に取り組むときに、人は緊張と集中の状態にあります。それが新しい文化を創るに必要な「弛緩と関心」即ち、「努力感のない精神統一をもって情的にわかっているものを知的に言い表そうとする」行為を阻害しています。 それは、自動車の運転でアクセルとブレーキを同時に踏み込むのに似ています。あるいは信号機の赤と青が同時に点灯している状態です。これで先に進める訳がありません。

上記は、既出です。しかし、おわかりいただくために何度も書いています。

ところで、時折巡回するフリーの物理学者である井口和基氏のブログに以下のような記事がありました。「フリーエネルギー:「フリーエネルギー技術開発の特徴と種々相」という素晴らしいサイトを発見! 」から一部引用します。

実はこれは日本人の特徴、特性でもある。おそらく縄文人の特徴でもあっただろう。インカ帝国の人たち、南米の日本人そっくりな縄文系の人たちもとにかく手先を動かす。

その逆が西洋人、特にユダヤ系の人たちである。彼らは書斎の人、まず頭で考えることが先になる。彼らのことわざの中には、考えずに動くことを嫌う、馬鹿にする、。。。ものが数多い。

一方、ロシア人はギリシャ正教会の人だから、意外や意外、あまり考えるというのとちょっと違って、どうやら感じることが先らしい。反重力マシーンを作ったチェカーコフにしてもニコラ・テスラにしても、彼らは考えたり図面を書いたり計算したりというより先に、天に願うのだとか、。。。

天に願っていると、そのうちふとこめかみの裏にその解答が映し出されるのだと。

テスラは完成図が先に頭にあった。現実はそれを作り出すだけ。チェカーコフもどうやらそういう啓示を受けて円盤を作ったらしい。

彫師は木の中に仏を見て掘る

というような感じで、先に現実に現物の姿をみている。

保江邦夫博士の保江方程式の発見がこれに近い。カソリック教徒型の着想法なのかもしれない。

ところで、私も2度ほど研究ライバルがスーパーコンピュータで同じ問題を研究している相手と競争して勝利したことがあるが、そういう場合、計算では勝ち目はなかったが、着想がただひたすら降ってくる、思いつくのを待った。さまざまの論文を読み勉強したり何かの計算をしたりしながら、思いつくときを待つ。

すると、たまにたまたまいいアイデアが見つかり、それを解明していくうちに、スパコン使う奴らにできなかった理論を構築するわけだ。

どうやら、この世界にはそういう新しい学習法が存在すると俺は思う

学校で勉強し、基礎学力をある程度できるのは結構だが、そうやって塾通い毎日授業に出て勉強すれば、あるレベルに到達できるか?というと、どうもこの世界はそうなっていないフシがあるのだ。

むしろ、学校から離れ、情報不足の状況下に置かれ、一人でなにか適当にやっている方が、いきなりの飛躍を起こすといことがままあるのである。

これの一例がアメリカ留学だろう。国内に残っていれば、ある程度想像できる研究者や人物でしかなかったものが、帰ってきたらいきなり大発見や大発明、あるいは教祖になったりするわけだ。

村上和雄博士、山中伸弥博士、。。、孫正義、大川隆法、。。。枚挙にいとまがない。

村上博士によれば、それは環境の激変によるDNAのオンオフのスウィッチングのせいだということになる。が、俺は必ずしもそれだけではないと信じる。やはり何かがもたらされるのである。この世界から

下線は管理人による。井口氏は何かを感じると述べています。この入り口が岡潔が述べていた「努力感を感じない精神統一」です。それに間違いありません。 ところが井口氏が今、これに気付いたとしても岡潔のように実践できるようになるには、10年や20年はかかるだろうということです。 世界には、数学を使わずに、何かを生み出す人たちがいることは確かです。その方法を何十年も前に岡潔が述べていたということです。 ここに 数学者岡潔 を読むのに難しい理由があります。

 

ついでながら、山崎弁栄上人記念館で求めた図書に書いてあった「外のない内」について、ここ最近、「物質的自然は循環である」と結びつきました。納得です。

図6

それを喩えて、組紐のようだと記事にしました。繰り返しがあり綺麗ですけれども、その組紐は両端がつながっています。

写真1

つまり、外のない内なのです。

 

ここで、一つ大きな落とし穴があります。 努力感のない精神統一ならば、某かのアイディアが得られるかも知れません。ところが世の中、そういった感受性を持ち合わせていながら、仕組みを知らないことから、いろいろ勘違いをする人たちがでてきます。

岡潔は「右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい」と云いました。ところが想念の経路は様々です。興味本位の関心は明後日の方向へ向かいます。それがスピリチュアル系とかオカルトと呼ばれるものです。雑念ともいいます。仕組みがわかっていないものですから、自己の願望とか恐怖に基づく雑念から某かを感じるようです。 ある人は、病気や事故で瀕死の重傷を負い、奇跡的に生還した後、何かを得たと実感します。時には一度死んでから未来を見て来たと言います。それは、その人の五感に直接に訴えかけるのですから、どんなに疑い深い人でも簡単に信じてしまいます。その区別がつかないのです。世に予言はいろいろありますけれども、偽のキリストが多く出てくるとされるのは、例外なくこれです。興味本位に首を突っ込むのはダメです。管理人も同じで、判断に迷うことはあります。難しいことです。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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