「考える」ということの仕組みを 考える

いろんな本や難しい数学の問題について考えた結果、何かを知ったり理解が進んだりします。人はこのような活動をします。 ところがほとんど誰も「自分自身がどのような仕組みで、その理解なり感想なりに至ったか」について考えることはありません。 これまで管理人が自分で考え、懸命に説明してきたのがこの仕組みについてです。 「人が考える」ということの仕組みを考えてきました。 一言で云えば人とは何か、どのようなものなのかを考えてきました。 過去、何年もの記事の多くは「人が考える」ということの仕組みについて考えてきたことを記したものです。

数学者岡潔が云ったように、自然科学は間違っています。自然科学は明らかに統合失調です。このままでは人類は滅びます。誰しもが感じる不安はこれです。しかし、どのような平和活動も実を結ぶことはありませんでした。ある科学者は、「単に問題を提起するだけで解決方法を与えていないからだ」と云いました。そして、「人類と文明と社会に最も必要なものはかんたんで、人と人との間、国と国との間、すべての人々と自然を制御している偉大な力と英知の間の基本的な”理解”なんだ。”理解”が君の人類が生き残るための鍵だ。もし人々の間に理解がなかったら、政府間の協定、協約や保証などにおける価値は全く少ないことになる。」と云いました。

これまでの検証で地球には、精神科学と社会科学はほとんど無く、物質科学の一部として自然科学があります。しかも自然科学は、量では無い時間をもってエネルギーの量を測っています。これらは一重に精神科学・社会科学が未発達だった結果です。

図1 物質科学の発達は、精神科学と社会科学の発達が無ければあり得ない

前回の記事「新しい 天皇 に期待すること」の意味がわからない方は、残念ながらこれからの発達は見込めません。

ある科学者が云ったように”理解”が必要です。この理解は、「意識を通さず、言葉で云えない。何かを知的に言い表していく」以外に方法はありません。これを「気(キ)づく」と言います。山崎弁栄上人や岡潔などごく少数の人を除いてあまりに未発達だからほぼ誰も気(キ)づけないのです。

岡潔に関する著書「数学する人生」より一部引用します。

大宇宙は一つの心なのです。情だといってもよろしい。その情の二つの元素は、懐かしさと喜びです。p35
情は常に働いていて、知とか意とかはときに現れる現象だから、情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には、「情的にわかる」ということがあるのです。
わたしは数学の研究を長くやっていました。研究中は、あるわからない「x」というものを、どこかにないかと捜し求めます。捜し求めるというより、そこにひたすら関心を集め続ける。そうすると、xの内容がだんだん明らかになってくる。ある研究の場合は、これに七年くらいかかりました。p37
xがどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。
わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。
数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。p38
情の働きがなければ、知的にわかるということはあり得ません。知や意は、情という水に立ついわば波のようなもの。現象なのです。

下線は管理人による。 冒頭の理解とは、知的にわかるということです。平和へ向けての解決方法は、このような方法で示される以外にあり得ないと考えます。新しい天皇に期待するのは、このようなことです。形骸化した式典・儀式や呪術などではありません。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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