神道 に教理教典がない訳

管理人は以前、日本人の原点は何の何処にあるのかという疑問から日本教について調べました。その際に社会学者の小室直樹は、何者にもなり得ない日本人の特性を日本教として説明し、その過程において「 神道 に教理教典すらない」と述べていました。地元神社の氏子ですけれど、宮司さんからも関係者からもまったく聞いたことがありません。それがどんな意味を持つのか疑問でした。その過程でヲシテ文献に行き着きました。その後の考察の結果です。

管理人は、「物や事は12の倍数で現れる」と何度も記しました。自然科学者が云う(時間・空間)について、物質的自然にある「物や事」は、距離(長さ)ではなくて角度が大事だとも記しました。人類は手指の数である10進数を元に文明を発達させてきました。人の持つ五感は、非線形にできており、距離(長さ)に敏感です。ですから、文明の発達において、長さや面積、体積、あるいは重さの基準を作る際は、10進数を元として作りました。 しかし、実際には「人と人、人と物」という関係位置が重要です。この関係位置を認識するには角度が重要です。 ですから、物や事を「わかる」には、12の倍数として捉えることが重要であるはずです。

以下は、古来より伝わる日本の宗教である 神道 になぜ教理教典がないのかという疑問について考えたことです。

(1) 数学者岡潔は、自然科学者が考える「自然」を物質的自然と名付けました。自然科学者は「空間に物質があり時間の経過とともに運動する」と考えます。これは簡単な模型であり”自然そのもの”ではありません。また、岡潔は、「時間という計量的なものはない」と云いました。時間は元々太陽と地球の自転による関係位置から作りました。具体的には太陽の光が地上に作る影の角度です。角度は量ではありません。だから岡潔の指摘したように時間は、物理量ではありません。 自然科学者が扱う物質的自然をまとめたのが次図です。

図1

つまり、自然科学は時間を用いた循環論法です。一目でわかるのは、自然科学には答えがないということです。

(2) 日本語の元は、ヲシテ時代(縄文時代)にできたヨソヤコヱ(48音韻)です。これを簡潔にまとめたのがヲシテ研究者の池田満氏です。

図2 48音韻図表 (C)池田満

人の五感でわかる物や事を人が認識できる音素を使って仕分けたものです。人の五感でわかるを5つの母音とします。これを(態たい)といいます。人の五感でわかるを10の子音とします。これを(相そう)といいます。2つ欠落していますので5×10から2を引いて、併せて48音韻となります。

ヨソヤコヱ(48音韻)の元となったのがヲシテ文献にある「ヰクラムワタ ヲ ネコヱワケ」です。該当部分を引用します。ミカサフミ キツヨヂのアヤ の一部です。

コトハオナオス
アワウタオ ツネニヲシヱテ

アカハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ

アワノウタ カタカキウチテ
ヒキウタフ オノツトコヱモ
アキラカニ ヰクラムワタヲ 
ネコヱワケ フソヨニカヨヒ
ヨソヤコヱ コレミノウチノ
メクリヨク ヤマヒアラネハ
ナカラエリ

何故、ヰクラムワタ ヲ ネコヱにワケるとヨソヤコヱ(48音韻)になるのか、ずっと考えてきました。イクラムワタとは、大雑把に言って「人の五感でわかる」ということです。

人が持つ「わかる」には3つあります。

  1. わけることによりわかる」意識を通す。言葉で云える。要素還元主義。
  2. 何となく趣おもむきがわかる。岡潔の云う情じょう。意識を通さない。言葉で云えない。静的にわかる。ヲシテ文献にあるナサケエダ。
  3. 何となく動きがわかる。動的にわかる。意識を通さない。言葉で云えない。本居宣長による「もののあはれ」。ヲシテ文献にある「アワレエダ」。

「ヰクラムワタ」について、まず「人の五感でわかる」のは、2.と3.です。いきなり「意識を通し、言葉で云える」ものではありません。言葉以前です。とにかく物や事について「直じかに何となく趣おもむきわかり、動きがわかる」のです。その「わかる」がヰクラムワタなのです。 このヰクラムワタを「ネコヱ」、即ち「音素」を使ってわけた結果がヨソヤコヱ(48音韻)であるということです。これが「フソヨニカヨイ(24で折り返す)ヨソヤコヱ」である「アワノウタ」なのです。

アカハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ

おまけに五七調になっています。5+7=12としています。12でリズムを刻む五七調であるアワウタを「カタカキウチテ ヒキウタフ オノツトコヱモ アキラカニ」なるのです。つまり、楽器にあわせて歌いますと声の調子も良くなり、身体の調子も良くなります。そして、「ヤマヒアラネハ ナカラエリ」となります。つまり、病にかかることなく、長生きになります。  これはスピリチュアル系の話ではありません。理由は後述します

では、言葉はと言うと「音素を集めた」のであって、音素に意味はありません。音素は互いに規定し合って言葉となります。つまり、如何なる言葉(言語)であっても循環に過ぎないのです。既出ですけれども、その例を次にあげます。

これは何?と聞かれれば、匙さじあるいはスプーンと応えます。

写真1

匙あるいはスプーンを国語辞書で調べます。

写真2

匙はスプーンであり、スプーンは匙とあります。

写真3

これが言葉の循環です。人が写真1を何であるかをわかるのは、言葉以前の2.と3.によります。いきなり1.ではないのです。

ここまでをまとめます。

人の五感で「2.と3.によりわかる」を48音韻とするのが日本語です。日本語で考える日本人の思考は、12の倍数で自然に在る物や事を捉えるようになります。

 

(3) ホツマツタヱの キツノナト ホムシサルアヤ の一部です。 管理人は、原文の意味はよくわかりませんけれど、解説の一部はわかります。 原文と解説を「ホツマ縄文日本のたから:池田満著」から引用します。ワカヒメが弟のソサノヲに答える場面です。注は、管理人のわかる部分です。

ミソフナリ イマミソヒトハ

コノヲシエ アメノメクリノ

ミムソイエ ヨツミツワケテ  注:ソは10の意味365日余りを4×3に

ミソヒナリ ツキハオクレテ  30日になる 月は遅れて

ミソタラズ マコトミソヒゾ   30日に足りない

シカレトモ アトサキカカリ

ミソフカモ アルマウカガフ  32

ヲエモノオ ハラフハウタノ  魔物を 払うウタの

コエアマル シキシマノエニ  コヱ余る

「では、大自然の天体の運行から詳しく見てみましょう。一年の日の運めぐりは三六五日よりすこし多いぐらいの日数があります。これを四季に分け、前中後の三節に別けると三十一日になります。つまり三十一にと云うのは、お日様の周めぐりから割り出された一月ひとつきの日数です。もうひとつ、お月様もありましたね。月は、周めぐり方が遅いのです。お月様は重たい元素ばかりが集まってできているために、周回に遅れが出るのです。それで、三十日にも満たない周期になります。しかし、本来の天体の運行の周期は三十一日ですので、月の場合は、前後が多少かかって三十一日と考えられないこともないのです。というのは、月の変わり目というのは真っ暗の新月になってしまうので、ここに魔物が入り込みやすくなるのです。

魔物に入り込む隙を与えなくするには、どうすれば良いか。その解答が、字余あまらせのウタ短歌なのです。ひと月の日数よりも一日多くの三十二音でウタを詠んだならば、月と月との間の真っ暗な日も、音韻の賑わいで魔物を寄せ付けないのです。

そもそもヒトがこの世に生まれてくるときには、天地自然の様々さまざまな恵みを受けます。しかしその実のところは、ヒトとは、目に見えないモノを実体としているのでした。つまり、目には見えない”こころ”が本体としてあるところに、多くの元素が寄り集まってきて赤ん坊になるのです。この原理を「シキシマ」ともいうわけです。

目には見えにくい元素のヲの周めぐりは、太陽のように三十一日です。しかし、それに備わってゆく元素のメは、月のように遅れやすいものなのです。ですから、目に見える元素たちとの間にはとくに隙間が生じ易いのです。このため三十二音にした字余らせウタが、魔物の侵入を防いでくれるのです」

1年は365日余りです。これを方角と同じ2、4、8、16にわけずに「4×3にわける」ことで12ヶ月にしています。これが謎でした。読んで行くに従い、魔物という言葉が出てきます。つまり、12で割り切れるようにウタを整えています。「足らず・余り」を魔物として、入り込まないように苦心しているということです。

人の五感で「2.と3.によりわかるを48音韻として言葉にしたのに、物や事の内の12の倍数に合わない(足りないか余る)部分を魔物として排除しています。

(4) どうも、物質的自然は、干渉が多いようです。冒頭に述べたように基本は12の倍数でありながら多くの干渉があって、音楽で云うところの不協和音が出るようなのです。だから循環である自然科学の物理学において100以上、あるいは200とも云われる素粒子群は12の群れにわけられるのです。

人の五感で「2.と3.によりわかるを48音韻とする日本語で思考する日本人は、当たり前のこととして物や事を考えるに「隙間がない」のです。あるいは隙間を当然のこととして排除するのです。 だから、魔物が入る隙がない日本語で考える日本人には、教理教典が不要なのです。

ところで、伊勢神宮の主な祭神は天照大神(ままてらす おおみかみ)です。天照大神は女性ですけれども、まるで一神教です。恐らく渡来人からの影響で景教(ネストリウス派)によるものと思われます。しかし、教理教典はありません。必要が無いのです。

(5) 現在、世界共通で使われる英語はどうかということについて。英語は、アルファベット26文字を用いるにもかかわらず(母音16個、子音29個)だと云います。「母音と子音の発音記号の違い!母音16個と子音29個を解説」を参照ください。 人間が聞き分けられる音素の総数は150個以上だとされます。英語は、その内の最大16×29=464個の組み合わせが可能だということです。実際に聞き分けられるのが150だとしても非常に多いです。1.の「わけることによりわかる」という要素還元主義において、英語ならば物質的自然をより詳細に分析できるというメリットがあります。

逆に、デメリットというのは、「物質的自然が示す不協和」をふるいにかけられないという点です。それは、物や事の内に何が重要かあるいは重要でないかを見分けることができないことを意味します。 その不協和とは抽象です。人は具体から離れすぎてはいけません。「足らず・余る」をわけ続けるということです。 結果として、ヲシテでいうところの魔物が入るのです。 神武天皇は”人皇”として即位しました。その原因は渡来系の人々に配慮せざるを得なかったからです。 この頃、”カミノヨ”から”ヒトノヨ”になったのです。原因は神頼み(シャーマニズム)です。

図3 出典:ホツマ縄文日本のたから:池田満著」より

神頼みに加えて、不協和を排除できずに来た。これの行き着く先が(恐らく)悪魔崇拝です。10進数の化身とでもいうものです。その意味で「神は細部に宿る」というのは真っ赤な嘘です。

まとめます。 「足らず・余る」の内に本当のことがあると思い込み、「わけることによりわかる」と決めてかかった結果、抽象から、妄想へ入ったのです。それを後押ししたのが神頼み(シャーマニズム)です。

ヨソヤコヱ(48音韻)は、これを避けられるのです。だから、アワノウタ カタカキウチテ ヒキウタフ オノツトコヱモ アキラカニ ヰクラムワタヲ ネコヱワケ フソヨニカヨヒ ヨソヤコヱ コレミノウチノ
メクリヨク ヤマヒアラネハ ナカラエリ なのです。 これは、スピリチュアル系の話ではありませんし、善悪の話でもありません。ましてや天国と地獄・地獄と極楽の話でもありません。 「足りない・余り」→抽象→不協和→神頼みという欲望→悪魔崇拝 に至ったと考えてよいと思います。

「足らず・余る」を魔物と云ったのは偶然ではないと考えます。彼らの直観です。

ここで、気になってきたことの解答があります。ある科学者が云った言葉です。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

数式とはE=mcのことです。 「一つの実体」というのは、別の次元軸上にあるとするものです。これは、(3)に引用したヲシテ文献にもある”実体”と同じです。

そして、もう一つです。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

心で描けない状態とは、抽象であり、ひいては妄想に至るようです。ある科学者は、抽象的な数学と呼んでいます。数学は「足らず・余る」物や事を「正しくわける」ことができます。岡潔は「数は量のかげ」と云いました。しかし、数には量を持たないのもあります。量のない数を扱うのが数学ですし抽象です。人の心はあまり具体から離れてはダメなようです。例え論理的で、精密であっても限界がありそうです。それが心で描くことのできない状態です。

何故なら、1.による人の思考には限界があるからです。その限界とは循環です。その行き着く先が抽象的な妄想であるようです。だから、数学の難問に挑むと心を病むのです。2018年3月27日の記事「宇宙の真理を探究するに最適の道具は数学だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」を参照ください。

管理人としては、極めて論理的です。スピリチュアル系でもオカルトでもありません。別の次元軸にあるという、目には見えない実体に注目する以外にありません。 ある科学者は3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)に等しく努力しなければならないと云いました。その内2つ(精神科学・社会科学)の絶対的必要性を強く感じます。何せ人の五感は長さに特化されています。関係位置にこそ、大事なことが隠されています。人と人、人と物との間にある関係、即ち社会科学が重要です。こうしてみるとすべての成り立ちは一つです。物質空間に原因は一切ありません。長くかかりましたけれど、日本人の原点はこの辺りにあると結論できます。そういえば、日本人に原罪は関係ないと書いた記憶があります。 一神教にすり替えようとも、日本人には関係ありません。孫悟空のように頭に輪をはめる必要がありません。契約なんか更に関係ありません。

それと、かつて恩師であるF先生から云われた「考え方が不健康」というのは、まさにこのことだろうと思います。

 

追記2/22 聖書で気付いたこと。アダムとイブが食べたというリンゴ(禁断の果実)は、言葉(言語)だとすると辻褄が合います。 岡潔は、「情的にわかっていることを、知的に言い表そうとすることで文化はできていく」、「情知意の順で働く」と述べています。リンゴは美味(文化)ですけれど、ヨソヤコヱを元にする日本語以外は(情知意の働きで得られる文化とともに、具体から離れて抽象→妄想)へと繋がるをもっています。言葉は禁断の果実そのものです。 だから、日本語以外の言語を持つ人たちには、彼らの箍たがとなる契約(石の板)が必要だということになります。文明の発達という意味で契約は有効だったのですけど、十分期間が過ぎました。2000年来の争いの元ですから。

ある科学者が云った3つの科学についてです。

  1. 精神科学・社会科学・物質科学(Ark)
  2. 人文科学・社会科学・自然科学

どうも2.は1.の劣化コピーです。石の板は箱に入っていますので、物質科学が有用だと証明されれば、契約は期間満了で無効にできます。

写真4

 

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神道 に教理教典がない訳 への2件のフィードバック

  1. shibuchin のコメント:

    Φ さん続けて失礼します。

    何故なら、1.による人の思考には限界があるからです。その限界とは循環です。その行き着く先が抽象的な妄想であるようです。だから、数学の難問に挑むと心を病むのです。

    私のブログは、抽象的な妄想を吐き出しているのかも知れませんね、特に確定申告のこの時期は数学が苦手と言いながら「損か得か」に捕われてしまい色々と先送りにしていました。

    読んでいて色々と腑に落ちたところが有ります、お陰さまでどうやら仕事が手につきそうです、有り難うございました。

    • Φ のコメント:

      こちらこそ。人は具体から離れすぎてはダメなようです。水泳の通信教育はダメなことくらい誰でもわかります。皆だまされる。

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