時間のドレイにならないこと

弧理論への入り口で引用したある科学者は、自身は時間の奴隷にならないと述べたという。管理者である私は、研究を始めた頃に、この言葉を知り妙に気になっていたけれど、当時は意味が分かりませんでした。 最近の考察により「時間」の何が問題なのかようやく分かってきました。

文明の根幹である1.自然科学(その要素として時間と空間をもっている)は間違っていると数学者の岡潔は言いました。2.相対性理論は誤りであると杉岡幹生氏は書きました。

光速度c(次元は[LT^(-2)]であり時間を含む)を基本に据えた相対論は誤りであり、相対論を包含する自然科学の間違いは時間であるということです。この間違いを一言で言えば「時間は運動より求め、運動は時間より求める」からということです。究極的には、自然科学において時間は定義されていないことになります。上記の考察において、時間が定義されないことで文明にどのような影響が出てきているのかよく分かっていませんけれど、おそらくは私たちの自然科学は孤立系にのみ適用できるものではないかと考えられますし、少なくとも弧理論で言うエネルギーの真値は測れていません。

私たちは市民(Citizen)であり、自然法としての自由である権利を保有していると思っています。 古代ローマの市民は演劇を鑑賞したり議論を交わしたり自由な時間を持っていたようです。労働や役務は奴隷にさせたようです。当時の奴隷の衣食住は所有者が面倒をみなければなりませんでした。 一方、現代においては、お金を得るための労働により時間を奪われ自由に時間を過ごすことを制限されています。 私たちは市民ですけれどローマ時代の市民ではありません。現代の市民はローマ時代の奴隷に相当するということです。しかも所有者である「お金の制度を管理する人」はドレイ(Citizen)の衣食住の面倒をみる必要はありません。 上記の考察において、お金:通貨も時間も両方とも意味はなく、諺「時は金なり」はゼロ=ゼロ、または無限大=無限大といっているに等しいと書きました。 弧理論から見て時間がどのような仕組みで生じるのかはっきりしませんけれど、考察は続きます。

懐かしいテレビドラマに刑事コロンボがあります。 富裕なビジネスマンが犯人だとにらんだコロンボの質問に対してビジネスマンは、腕時計を見ながら「きみに(質疑の時間を)5分与えよう」というシーンがありました。 忙しく立ち回ることで豊かになったビジネスマンが格好良く描かれていました。 しかしながら本当にお金:通貨制度を支配している人間(どこの誰かは知りませんが)は、ローマ市民のように時間に縛られていないはずだと確信しています。 普通に推理ドラマを楽しむ人には申し訳ありませんけれど、時間を分単位で働くことで資産家になる(時間=お金)ことで幸福が手に入る、つまり(時間=お金=幸福)というイメージを刷り込む手段にテレビが使われているといえます。何も定義されていないのに。

では、時間のドレイにならないにはどうすればよいのでしょうか?

お金:通貨は究極的には数学の概念である数字にしか過ぎません。数学的な概念であるお金:通貨が現実世界で唯一の無限大を許容されていることが問題だと思われます。 一方で、自然科学にはどうしても無限大を持ち込むことができません。つまり、孤立系の学問しか許されていないことが問題の本質だと考えています。 一体、誰が宇宙は有限であると実証したのでしょうか。 少なくとも宇宙が閉じていると実証されるまでは、孤立系の学問と開放系の学問を並列に扱うべきだと考えます。いかがでしょうか?

なお、赤方偏移や宇宙背景放射を以て宇宙が閉じている証拠というのは、根拠として弱いように感じます。過去記事過去記事を参照ください。どうも宇宙空間は、電磁波は電磁波として伝搬しない、もしくは伝搬しにくいようです。地上で観測する電磁波は地球上空で生じるようです。

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Φ について

2010年より研究しています。
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