Buddha(仏)と如来の関係をわかりやすく説明するに苦心しています。仏も如来も”量れない”という意味では同じですが、そのわからなさ(量れなさ)には、決定的な違いがあります。
如来のわからなさは、論理的な結論として決して量れませんし、仏のわからなさは、何もかもを越えた(論理を越えた)わからなさがあります。2つのわからなさに違いを見つけるヒントに「 阿弥陀 」があります。
阿弥陀とは
阿弥陀仏や 阿弥陀 如来と言います。 阿弥陀 とは、サンスクリット語の「量れない:無量」という意味の漢字への当て字です。
- コトバンクより「阿弥陀はamitabha(無量光),amitayus(無量寿)の音略。」 a-mita(否定-量る)→(量れない)→阿弥陀
仏や如来がどう量れないのかというお話です。そのわからなさの違いです。
- 2022年6月17日 如来 フトマニ ヨソヤコヱ(アワウタ)はみな同じものの異なる表現に過ぎない
仏とは(他資料との比較)
一般にブッダ、あるいは仏陀といいます。仏陀とは、お釈迦さまのことを「ブッダ」と呼びますが、サンスクリット語で「目覚めた者」という意味のようです。しかし、人を指す言葉ではありません。
a-mita-Buddhaであって、決して量れないBuddhaです。”目覚めた者は量れない”というのでは、意味が通りません。そのほかの資料では、どうなのかを比較します。
善導大師は、Buddhaを漢字の音に当てて「仏」としました。その意味を漢字で「覚」と名付けました。管理人が調べた心の仕組みを図で示します。
図1 各資料による心の仕組み
注)昨年の段階で、善導大師が示したとおり、仏(Buddha)=覚としていますが、その後、Buddhaの部分が「覚」であることがわかっています。「Buddha>覚」となります。次の項目で説明します。
図でわかるとおり、人はすべからく本質的な「わかる」という働きを持っています。岡潔はこの心を無私の心と言いました。これが第2の心です。その心を情と言います。また、岡潔の情も心の働きの部分であることがわかっています。
ヲシテ文献においては、心の本体をタマと言います。比較すると肉体につながるすべてを下支えしているという意味において、善導大師の覚に同じです。つまり、自覚や感覚は、特別の人のみがもつものでは無いということです。誰もが持つ心の働きであって、それを情やタマあるいは覚と名付けただけです。
では、覚という働きを含むBuddhaとは何かということになります。
仏(自然は自己の現れ)
人がわかるのは物と事です。「物がわかる」であり、事、即ち「動きがわかる」です。弧理論では、事を(運動P)と呼んでいます。 続きを読む
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