研究 は知識の量や理論の複雑さとは無関係

研究 を始めて12年目になりますが、参考としている資料の全部を読み込んではいません。気になる部分のみについて、何年も考え続けてきました。大量に覚えるよりその方が研究は深まる結果となっています。

 

例えば、2015年頃に数学者の岡潔とヲシテ文献の存在を知りました。2つの資料で気になったのは次です。

  1. 岡潔:自然科学は間違っている。時間は量ではない。
  2. ヲシテ文献:ヰクラムワタ ヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ

時間とは何かについて、およそ4年くらい考えました。ヰクラムワタについては、6年ほども考え続けています。ヰクラムワタからの経過は次です。

 

5つのクラ、6つのワタとは何か? 日本語の元である大和言葉のそのまた元であるヨソヤコヱ(48音韻)は、文明や科学の基礎であるとともに、日本人の日本人たる所以そのものです。それほど大事な話なのにヰクラムワタが何なのかわからない状態でした。

関連で気になったのは「二河白道の譬え」に出てくる四大・五蘊・六識・六根・六塵です。

図1 出典:二河白道の譬え

これらは四大を除いて心の仕組みと働きをどのようにカウントするかの違いに過ぎないと考えました。

図2

善導大師がお釈迦様のbuddhaの正音が”仏”であり、意味を示して「覚」と名付けたわけです。で、人の感覚でわかるのは視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の5つです。G・アダムスキーは触覚をtouchとfeelにわけました。岡潔とヲシテ文献では心を2つとカウントしました。つまり、心を5つとするか5+1=6とするか1+1=2とするかの違いに過ぎません。

そして、前出の六識から唯識論が出ているらしいと考えていましたが、その通りでした。唯識論講義(上)安田理深著:春秋社刊p84からの図を示します。注:管理人が作図。出典が間違っていました。お詫びして訂正します。正しくは「仏教の深層心理太田久紀著:有斐閣選書刊」です。

図3 人に第6感、第7感、第8感があると言っているのに等しい。そのようなことはない。

しかし、岡潔は2つの心について、「情・知・意」の順に働くとしています。つまり、の次に働くのが知であり、最後に意がはたらくのです。そして、知も意も第1の心です。

情(第2の心)→知識(第1の心)→意識(第1の心)

仮に唯識論が第1の心の仕組みと働きを解析的に説明しようとしていたならば、その行き着く先は抽象ですし、第2の心(岡潔の情、釈迦のbuddha、仏、善導大師の覚)も含めて説明しようとしているならば、それは不可能です。

何故なら、情は意識を通さず言葉で言えないがしかし、その趣がわかるというものであって、そもそも数学を含む言葉は循環でありネットワークであり、外のない内だからです。

図4 言葉は循環・ネットワーク・外のない内

何となくその趣がわかる、映像がわかるという第2の心の仕組みと働きは、唯識論の範囲ではありません。たとえ図4に唯識論の全体を組み込んだとしても、それは相変わらず循環でネットワークの内に過ぎません。岡潔の云う「すべてを覆っているが、そこから一切出ていない」のです。

 

まとめると、管理人の研究は、日本人の根幹に関わる「ヰクラムワタ」から、五蘊・六識に関心が移り、そこから唯識論へと続いたのです。

しかしながら、目的は日本語の根幹であり、人の感覚でわかる「物と事」をネコヱ(音素)にわけ、48音韻としたというところにあります。

これまでの考察によれば、自然科学の問題点として、量ではない時間を用いていることとともに、物と事の区別が付いていないところでした。次なる科学は物と事の区別をきっちりつけたものでなければならないというのが管理人の結論です。

物と事は別の次元軸上にある一つの実体の異なる面に過ぎません。要は、物と事は映像であるということです。これを言葉に落とし込んだのが日本語であるということです。五蘊・六識・六根がどういったものであるかどうかは、それほど詮索する必要を感じません。

ついでながら、ヲシテ文献には、イツイロノ ハニモテツクル モリノカミというのがあります。要は人の感覚でわかる、わかり方を5つと捉えるか、6つと捉えるか、はたまた2つとするのかの違いに過ぎないということです。

研究は知識の量であったり、知識の深さ(複雑さ)に依存するということはありません。そのようなことを競うものではありません。確かに専門書や経典を多年にわたり読み込み、記憶する方が有利ですけれども、「わからないものを”第2の心”によってわかろうとする」行為と無関係です。

岡潔は、「情的にわかり、それを知的に言い表すことにより文化は出来ていく。」と述べています。様々な物や事を知的に言い表せる前は、図4の外です。唯識論もその一つであることは間違いありませんけれども、その対象が第2の心であるならば、不可能である事が既にわかっています。ヲシテ文献では、それは「ア」から出ています。アとは「物と事の初め」という意味です。対してワとは「物と事の終わり」です。アとワは互いに規定し合うことにより成り立っています。ですから、アは決してわからないのです。つまり”ア”は、在ることは確かですが、決してわからないのです。ヒトハアノモノです。ここに情も覚も仏も、アも仮の呼び名です。決して言い表すことはできません。YHWHによく似ていますし、「アルファありオメガ」にも似ています。

 

これが何であるかについて。

図4のネットワークが深くて複雑であればあるほど、より偉いなどということは決してありません。知識、意識は図4に示す循環・ネットワークから決して出ません。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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