「 二河白道の譬え 」の解釈は間違いかも知れない

過去に浄土信仰を促す「二河白道の譬え」を採り上げたことがあります。

どうも、極楽浄土を願う信仰を二河白道に例えるのは、間違いかも知れません。

「二河白道」とは

図1 出典:法話

出典元の解説から一部を引用します。

「二河白道の譬え」とは、七高僧の第五祖である中国の善導(ぜんどう)大師が『観経疏(かんぎょうしょ)』「散善義(さんぜんぎ)」に示されるものでこの譬えは貪瞋(とんじん)二河の譬喩(ひゆ)ともいわれ、浄土往生を願う衆生が、信を得て浄土に至るまでを譬喩によって表したもので、その内容は以下のようです。(略)

図の左上が対岸で、弥陀(仏)が居る浄土で、浄土往生を願う民衆の目的地です。右下の民衆の居るところが現世?で、悪獣がいわゆる煩悩のようです。そして、こちら側に居るのが実在の人物である釈迦です。

煩悩は、悪いことではありません。ヒトが必然として持ちますから。

  • ヒト=タマ+シヰ+ウ(渦)

ヒトは、心の本体であるタマ生命維持の欲求であるシヰに物質であるが組み合わさってできています。欲しいしいのシヰ、強いるのシヰは、当然です。牛や馬、あるいは野菜を殺さねば、身体を成長、維持するための食物として栄養を摂取できません。過剰が悪だとも言えます。

 

浄土論(地獄と極楽)とユダヤ教・キリスト教の神(天国と地獄)

管理人の古くからの疑問でした。仏教にある地獄と極楽は、西洋のキリスト教にある天国と地獄に余りに似ています。というか、まったく同じです。その理由として挙げられるのは、シナには古くからトルコ人、ペルシャ人やインド人がユダヤ教あるいは原始キリスト教、仏教をもたらしていたと言う事実があって、日本に伝わった仏教にも色濃く反映されていたに違いないことがわかりました。

やはり、仏教にある(地獄と極楽)は、ユダヤ教やキリスト教にある(天国と地獄)におなじだということです。シナに浄土信仰がもたらされた過程がわかる資料として、浄土論と世尊府世論があります。世尊とはイエス・キリストのことです。

図2 出展:浄土論(著者:菩提留支、刊行年:慶安元刊)(売却済みになるとリンク先は消えます。)

世尊府世論については、次にあります。

ユダヤ教あるいはキリスト教はインド経由か直接にシナにもたらされたということになります。しかし、(地獄と極楽)と(天国と地獄)という対称は成り立ちません。過去記事で示したように日本人には原罪がないからです。

 

日本人には、原罪が無いから浄土論は成り立たない

天国と地獄が成り立つ過程を示します。

  • 神が人間を創る
  • 人間(アダムとイブ)は、神から禁じられた「知恵の樹の実」を食べた(原罪)
  • 人間は楽園を追われた(地上)
  • 楽園を追われて人間は労働を強いられるようになった(罰)

楽園と地上が天国と地獄ということのようです。そして、人間は罰として労働を強いられているということになります。つまり、ユダヤ教やキリスト教では、原罪とは、人間の労働は神から与えられた罰ということになります。天国と地獄が成り立つためには、原罪が不可欠ということになります。

ところが日本人には、原罪はありません。天照大神自ら養蚕されています。神様自ら労働をするのです。これでは、原罪は成り立ちません。ですから、日本人には原罪はありません。

 

原罪とは

では、原罪とは何なのでしょうか。元はと言えば、アダムとイブが果実を食べたからです。樹は知恵です。知とは、岡潔の言った通りです。

  • 岡潔 情・知・意の順に働く

的にがわかって、初めての領域になります。「情的にわかる」とは、「言葉で言えない」領域になります。それからになります。知識・意識は、「情的にわかる」の後に来ます。つまり、アダムとイブが言葉を話すようになったことが神から見て禁断であった訳です。

しかし、人類皆、言葉を発します。

岡潔は、次のように述べています。【3】西洋の唯物主義

西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。

おまけに、日本語以外の言語は、言葉の仕組みに物と事の区別がありません。物と事の区別もつかないままに、五感でわかるものだけを、わけることによりわかると突き進むことに問題があります。当サイトで散々述べてきたとおり、知識意識は、外のない内です。

  • 言葉は、互いに規定し合って成り立つ繰り返し・循環であり、ネットワーク

物と事が揃って初めて言葉で言えます。しかし、言葉の仕組みに物と事の区別が無い言語で、かつ唯物主義であるならば、その行き着く先は抽象です。現代は、その行き過ぎた抽象化の世界です。管理人はこれを原罪と言って良いと考えます。日本人に原罪は無縁です。それでも唯物主義かつ「外のない内」に気付かないのであるならば、矢張り危険です。

そこに警鐘を鳴らしているのが如来です。

  • 如来 ~の如し、の如し、の如し、・・・・

天国は地獄の如し、地獄は天国の如し、メはヲの如し、ヲはメの如しです。善は悪の如し、悪は善の如しです。真は偽の如し、偽は真の如しです。そして、神は悪魔の如し、悪魔は神の如しです。

  • 悪魔は善人の顔をしてやってくると言う。

つまり、言葉や知識は繰り返し・ネットワークですから、物や事のすべては相対的だということです。これを如来の仕組みと言います。如来に人格姓はありません。冒頭の、「二河白道の譬え」の図で言えば、(図に描かれていませんが)如来は、左下、民衆の近くにあると言えます。

 

外のない内(唯物主義・還元主義)から抜け出すことの難しさ

「二河白道の譬え」に示されているのは、知識・意識が外のない内であって、そのことに気付くのは、とても困難だということの例えだとするならば、意味が通ります。生命維持の欲求であるシヰを原因として、唯物主義「西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。」のに、還元主義「わけることによりわかる」と信じ込んでやまないならば、果てしのない抽象化によって人類は滅びること間違いないと感じます。

岡潔の、善導大師の、G・アダムスキーのソウルマインドノヲシテを基礎に置かねば、未来は拓けません。

図3

何せ、創造の仕組みは、心の本体に備わった働きですから、知や意にはありません。それが外のない内だからです。知らないものは無いとしか思えないのです。

二河白道の譬えの解釈

結局のところ、浄土論(浄土信仰は)は成り立ちませんから、日本人には、浄土あるいは天国という考え方の本質を理解することはできません。働くことが、天から与えられた罰だなどとと考えたことがありません。ですから、二河白道の譬えの図において、向こう岸は、浄土では無くて、知識・意識では越えられない何かであると解釈すべき例えだと考えます。それほどに外のない内を越えるのは困難です。それは、知的でエリートである人ほど顕著です。

善導大師や親鸞上人が上の意味で解釈していても、民衆にわからせるには難しすぎるから、方便で浄土を解いたのならば、間違いであると断定できないでしょう。

 

ピノキオが自らの「操りの仕組み」を理解する不思議

これまでに書いた考察は、考えてみれば実に不思議です。ヒトの自らの仕組みを理解できる(らしい)ということが変です。それは、操り人形であるピノキオが、操りの仕組みを理解しているに似ています。

写真1 出展:豪華スターが『ピノキオ』を歌う、Beatsの最新動画:日本から赤坂沙世、Miyaviが登場

このような仕組みがあるヒト自ら理解できそうなのは、実に不思議です。自然が映像であるという考え方は、これまでの考察にかなうものと感じます。ここからが弧理論の領域になります。ついでながら、知と意は、何処まで行っても繰り返し循環・ネットワークですから、「自然は別の次元軸からの投影による映像」として、理論の繰り返しを回避するものです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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