想念の仕組み(イメージの幅と事実)

これまで、G・アダムスキーによる宇宙の意識(因)と2つのマインド{ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)}並びに縄文哲学による魂(タマ+シイ)について考察してきました。

農業生産の効率化等により、社会が豊かになるにつれて、人々の欲求が次第に大きくなりました。その結果、魂(タマ+シイ)のシイ、つまり欲シイ欲シイのシイ(生命維持の欲求)は、時代とともに肥大化しました。

富と権力の争奪によりシャーマニズム(神頼み)が生じ、その結果縄文文明は衰退しました。 シイの欲求からからシャーマニズム(神頼み)が生じたのではないでしょうか。

文化シャーマニズム曲線図1

時が流れ、いつしか日本にもシャーマニズム(神頼み)の形代(かたしろ)とお金結びつきました。 それがいつの誰によってなされたかわかりません。

形代とお金図2

 

想念(イメージ)の幅と事実(物理空間での現象)の関係について考察します。

G・アダムスキーによる【センスマインド(感覚器官の心)】は、縄文哲学の【シイ(生命維持の欲求)】と同じもののようです。 つまり、シイ(生命維持の欲求)は、感覚器官の心から来ていると考えられます。

感覚器官の心は、

kankaku図3 こちらから拝借

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚(touch)の各感覚器官から来ています。 言い換えるとシイ(生命維持の欲求)は、感覚器官に起きるイメージ(想念)そのものです。

宇宙には、善悪を含め「在る」のであって、そこには想念の違いがあるだけだと述べました。想念の違いとは、(幅)があるということです。チャンネルが異なるだけともいえます。

 

イメージの幅図4

にイメージ(想念)の幅を示します。 イメージの幅を横軸に表します。 湧くイメージに名称を付けます。右端に神や仏などを置き、左端に悪魔(サタン)やルシファー(堕天使)などを置きます。 間には種々雑多な名称を置きます。例えば、ある人が得たイメージを元に、発明を成すかも知れません。 あるいは、ある人のおかれた状況と全く場違いなイメージが突然起きることがあります。いわば雑念です。ですから、「名称」とは、各人の頭の中に湧いたイメージに名前を付けたということです。

このイメージ(想念)には、強度と明瞭度があります。右端に行けば、湧く想念はとても弱くなります。逆に左端ではとても強くなります。ですから右端での明瞭度は低くなります。 その下の難易度というのは、シャーマニズム(神頼み)です。左端が神頼みで、右端が自助努力です。

人が希望をもって目標を立て計画的に努力して願いを叶えるのは大変です。 同じ願いでも安易な願いが神頼み(シャーマニズム)です。

ここで、G偶像、I想念、B物理現象(事実)とします。 今ある人がG偶像に礼拝をしたとします。Gは、仏像やキリスト像などです。ある人が礼拝のとき、Gを前にして心の内に(神頼み)が強ければ、その人のI想念は、左端に寄っています。このときの名称は、例えば「悪魔」ということになります。目の前にあるGが仏像であってもです。 人のシイは、シャーマニズムよって簡単に(左右)反転します。

また、ある人が心の内に、{「**するがよい」という地底人からのイメージ(想念)}が湧いたとします。イメージ(想念)に含まれるメッセージは、B物理現象として正しいかも知れませんし、間違いかも知れません。かつ地底人もB物理現象としての人物かも知れませんし、そうでないかも知れません。  意外と、この区別がつかない方がおられるようです。  何せ感覚器官の心が受けた”I想念”だから、本人にとって感覚器官からの信号と”同じ”です。つまり事実だと認識します。 I想念が、即B物理現象であるとは、誰も思いませんけれど、ややもすると「感覚器官の心」に湧くI想念(イメージ)は、そのままB物理現象に等しいと思ってしまうのです。事実だと認識してしまうのです。

  • 幽霊の正体見たり枯れ尾花

幽霊がI想念(イメージ)で、枯れたススキがB物理現象(事実)です。

耳という感覚器官にB物理現象の「音波」として入ってきてI想念(イメージ)が湧くのと、想念として感覚器官の心に湧くのとは、違いがあると理解することが必要です。強くはっきりしたI想念(イメージ)であれば、尚更間違いやすいということです。  恐らくヒトラーは、「あいつ」のイメージをB物理現象(事実)として理解していたものと思われます。 難しいのは、強いはっきりしたI想念でも、ある程度本当のことを含んでいることがあるようです。(予知とか予言?)

シイの虜になった連中が、G偶像としてのフクロウを用いて儀式を行う理由は、強くてはっきりしたI想念を得る為だといってよいでしょう。それが図4名称の「悪魔」です。

まとめますと、

  1. 強く、はっきりとしたイメージ(想念)は、ほとんど無意味である。ほとんどが雑念。
  2. 強く、はっきりとしたイメージ(想念)で意味がある場合は、シイの虜、あるいはシャーマニズムの虜になってしまう可能性がある。
  3. イメージ(想念)が事実であるとは限らない。
  4. 大切なイメージ(想念)ほど弱く分かりにくい。雑念に紛れてしまう。
  5. シイが極大化した状態が悪魔崇拝である。
  6. 無神論者であっても、心の内に神頼み(シャーマニズム)があれば、相応のイメージ(想念)が湧く。

無神論者も日本教である人たちも同じです。でなければ、宝くじもFX(外国為替証拠金取引)も売れるわけありません。宗教にお布施(お賽銭)としてお金を出すのは、まさに神頼みです。

かなり荒いですけれど、強いはっきりしたイメージ(想念)は危ないし、その示す内容がB物理現象として存在しない可能性が高いということです。 分裂や不安、あるいは恐怖を伴ったイメージは、ダメです。

生命維持の欲求であるシイ、つまり感覚器官の心に効率的に訴えるには、図3の感覚器官に直接訴えるのが一番効率的です。どこかの誰かは、このことを熟知しています。それが3S(スクリーン・スポーツ・セックス)政策として行われていることです。

過去、かなりの期間にわたり「お金」とは何かを調べました。 その過程で動画「お金が出来る仕組み。銀行の詐欺システムMoney As Debt」に関する記事を書きました。

お金は、負債である。お金と時間は関係がありそう。時間は存在しない。時間とは、過ぎ行く運動の記憶である。(運動/時間)の比を未だ決定していない。だから自然科学は間違っている。・・・などがわかりました。 動画では、お金の仕組みと機能の説明はありました。しかしながら、我々はどうすればお金の柵(しがらみ)から抜け出せるかの方策を示したものではありませんでした。

ここにてき、お金の仕組みではなくて、

お金の存在を許しているのが「私利私欲」を手っ取り早く実現する「神頼み」にあることがわかってきました。シャーマニズム(神頼み)に使う形代(かたしろ)に図2のお金を持ってくるというアイディアこそが、お金の柵の根源だったのです。

想念の仕組みによって、安易な神頼みに向かうからこそ、お金から抜け出せないのです。  神頼みの形代に(利子という負債の仕組みを入れた)お金を持ってきたのは、どうもヒクソスのようです。羊たちにヤハウェを拝ませながら、名称「悪魔」にすり替えたのがヒクソスだったのではないか?

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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