ある科学者の言葉に「 理解 」というのがあります。この理解とは何かを考え続けてきました。
数百世代のあいだ地球人は「平和、平和」と叫んできましたが、平和はありませんでした。 彼らの最も知的で教育を受けた男女の多くは、平和のための研究に自分たちの一生をささげてきました。そのことはまったくバカらしいと思われるとしても、数 百万の人々が周期的に起こる戦争において「すべての戦争を終わらせるために」戦って死んでゆきました。彼らはどんなに直接的な試みによっても平和は決して 達成されないという単純な事実をまだ理解できていないようです。たとえ、どこを探せばよいかを誰かが知っているとしても、平和というものは掘ってゆけば得られるような黄金でもなく、またすぐに手に入る宝物でもありません。
平和は単に人と人、人種と人種、国と国、それにすべての人々のあいだの完全な理解と、神として地球人に知られている宇宙に偏満する『力と英知』の副産物として自動的に得られるものなのです。
そのような理解が存在しているときには、平和を探すとか平和のために働く必要はありません。平和は自動的に存在します。しかしこのことが理解されるまでは、どんな努力も成功しないでしょう。
“完全な理解″は依然として地球人の達しているレベルを超えています
「知的な男女が平和のために研究し、あるいは戦争を終わらせるために戦って死んでいったが、平和は達成されませんでした。」
知的な男女は理解力があると言うことを示しています。”完全な理解”があれば、平和は自動的に存在するという言葉と矛盾しています。完全な 理解 とは何かという疑問です。
人がわかるのは物と事です。物には量があります。事には質があります。弧理論では物と事には次の関係があります。
図1 物と事は一つの実体の異なる面
- 物と事(動き)は互いに規定し合う繰り返し、循環
物と事は補い合うような関係にあって、しかも事の複雑さに限度はありません。複雑な事を抽象と言います。物事のわかり方の順序を示します。 続きを読む
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