「 仏 」はヲシテ文献にある「ア」の部分であるようだ

先日、某所にて とは何かについて講演を聴きました。元の話は浄土真宗の正信偈にある「善導独明仏正意」について解説したお話しです。

注:「善導独明仏正意」の解説は『「善導独明仏正意」と「一経両宗」』というpdfの6ページ下段にあります。これに関するお話しです。

講師は、善導大師の教えを次のように書き下しました。

 仏  西國(インド)ノ正音ナリ 此(中国)ニテハヅク

現在の言葉に直すとおおよそ、次の通りです。

 仏 というのはこれすなわち、インドの言葉(buddha)の音おんを漢字に置き換えたものである。(善導大師がいた)中国では「覚」と名付けた。

講師は付け加えて、「とは、気付くということ」と言われました。仏陀という言葉は、wikiによれば「悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す」とあります。

しかし、管理人は悟りという言葉を嫌っています。「悟り」はあまりに多くの人により手垢が付いた言葉です。むしろ、当サイトでは「気(キ)付く」を多用してきました。因みにサイト内を「気付く」で検索すると52件の記事がヒットしました。「気(キ)付く」でも多くの記事があります。

 

どうも、ヲシテ文献の「アウワ」について、アとワは、互いに規定し合うことにより成り立っていて、決してわからないものながら、「ヒトハ ア ノモノ」ですから、2つある大宇宙の中心である「ア」の部分が 仏 であるようです。そして、仏の意味は「気付く」ということであり、岡潔はこれを「情の働きによる」と言ったわけです。これで辻褄が合います。

岡潔は情の働きにより知に至り、次いで意が働くとしました。(情・知・意) 情的にわかるものを知的に言い表すことにより文化は出来ていくと言いました。いわゆる、気付いた人である仏陀であっても、気付いたことを知的に言い表せねば、文化・文明を築くことはできません。

アとワは互いに規定し合うことにより成り立っています。ですから、アは決してわかりません。仮に「ア」と呼んだに過ぎないのです。善導大師はこれを「覚」と名付けたのです。ですから、その呼び名が全部あるいは全体に決してなり得ないのです。これを外のない内と言います。そして、循環・ループ・ネットワークなのです。

図1 第1の心は、互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ループ・ネットワークであり、外のない内。

古今東西、多くの人が何とか言い表そうとした結果が、 であったり、であったり、あるいは「気付く」であったということです。 それは、論理的に決してわからないのであり、何と呼べばよいのかさえわからないのです。この「ア」は、ヲシテ文献では、アメノミヲヤと名付けているようですが、アとアメノミヲヤとの関係は未確認です。 アメノミヲヤについて、人格性はありません。偶像ではないという意味です。 岡潔的に言えば、大宇宙の中心であるアとワは、意識を通し言葉で言えるものではないということです。

 

これまでの考察をまとめた図が次です。

図2

少し別の見方で整理したのが次図です。

図3 2つの心の仕組みと働き 注:少し内容が古い。更新が必要。

上の2つの図だけでは、全体の見通しが悪いですけれど、これに、仏の意味を加えるとともに、これまで取り上げた「二河白道(にがびゃくどう)の例え:下記記事を参照ください。」についても書き加えると、もう少しわかりやすいものになりそうです。

 

どうも、浄土信仰は間違いです。上記の正信偈にある「邪見驕悪衆生」の(マーナ:計る、比べる)からくるという分別心(自力の執心:日頃のこころ)、即ち比べる心は不要とのことでした。ですから、極楽浄土と地獄を比べるのは無意味です。

善と悪、天国と地獄、正義と他との比較は「アとワ」の成り立ちからして無意味です。例えば、BLMやANTIFAなどの組織は、人種差別やファシズムがなくなると仕事を失いますし、そもそもBLMと黒人の人権は無関係です。むしろ組織の存在は人種差別を助長しています。その最たるものが宗教間の争いである事は言うまでもありません。

 ここで、「分別心=計る:比べる」とは(わけて比べる)の意味になります。わけることによりわかるという還元主義に通じます。ですから、自然科学の元と同じです。わけることにより科学するというのはわかりますが、そこから先、比べるというのは避けようということです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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