普遍性 があって、はじめて発見や創造がくる

最近、発見というのはほとんど無いと感じます。発見や創造などは基礎に” 普遍性 ”があって、初めて来るものだと思います。

管理人は近頃、弧理論の研究がある程度まとまってきたと感じています。その内に、管理人が発見したというものはほとんどありません。研究は専ら、参考とする資料の間に共通するものを見いだすという作業を行ってきたに過ぎません。これまで参考にした資料は以下です。

  1. G・アダムスキーの遺したネガフィルムと足跡図
  2. ダニエル・フライの遺した宇宙人アランの話
  3. 数学者岡潔の講演録
  4. ヲシテ文献(ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニ)にある核心部分
  5. 本居宣長の解説した「もののあわれ」
  6. 日月神示が示す「気(キ)付く」
  7. 仏教が示す「仏」「覚」あるいは「気付く」

ここにあげた資料は、それぞれ時代・年代も人種も言語もまったく異なります。それこそ資料の起源が人類ですらないかも知れません。それぞれに共通する中身がほとんど同じであると言うことを見いだして、これに 普遍性 を感じるのです。単に”自分はこう思う。この発想は独自のものであり、発見だ!”と考えて人も多いでしょう。しかし、現在の自然科学には基礎がありません。

岡潔は講演で「自然科学は間違っている」として自然科学を痛烈に批判しています。要は西洋人は自身の間違いに気付かないのです。「【2】空間と物質」より。

自然科学者はこう思っている。「始めに空間と言うものがある」空間とは何か、全然わからない。しかし、それは問題にしていません。空間とは何かを問題にしないで、始めに空間というものがあるというのは相当な仮定には違いありません。その次がひどい。「その空間の中に物質というものがある」、とこう決めている。物質とは何かと言うと、「途中は少し工夫してもよろしいが、最後は肉体に備わった五感でわかるものが物質である」、こう決めてるんです。ではいかに工夫しても肉体に備わった五感でわかって来ない様なものはどう言っているか。「そんなものはない」と決めているのです。

 これはほとんど原始人に近い幼稚な仮定です。しかもそう仮定して疑わない。仮定していることも知らないんです。

実に強烈な言葉です。 岡潔は「人には、心は2つ(わかるという働きが2つ)あり、2つの心は情・知・意の順に働く」として、そのわかり方に2種類あることを述べています。「【4】情のメカニズム」より。下線は管理人によります。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

 それから先がですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。

言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

1つめの「わかる」は情的にわかる。そのわかり方は意識を通さず言葉で言えないが、何となくその趣がわかる(岡潔の云う第2の心)というものです。次いで、情的にわかるものを知的に言い合わす。ここで、意識を通し、言葉で言える段階になります。これが知的にわかる(岡潔の云う第1の心)ということです。

ところが、自然科学者のほぼ全員が第1の心である理解あるいは物の理、即ち、知の段階しか知らないのです。第2の心がなければ一切は存在しないことに気付かないのです。

つまり、自然科学の研究者が第1の心で”わかった”として、内容を論文なりにまとめて発表するという行為、その前に基礎となる重要な部分が抜けていること知らないのです。

しかしながら、これを”いい加減に気付け”と強制はできません。ひたすら岡潔が望んだ「気付いてくれ」というのを待つしかないのです。 ほとんど信じられないような日月神示がくどく繰り返してる「気付いてくれよ」の意味がここにあるのです。

冒頭の1~7の資料に共通するのは、岡潔が述べた2つの心であり、気付くということの仕組みと働きであり、人が備えた五感との関係なのです。人が時(現在と過去)の内に住めるのは2つの心があるからです。時の現在として映像の趣がわかり(第2の心)、次いで不連続な映像の記憶に基づいて動画(過去の映像)わかる(第1の心)のです。映像が第2の心によりわかるということがなければ意識を通し、言葉で言える第1の心も含めた一切は存在しません。

なぜ、これほど簡単なことがわからないのか、実に不思議です。最初に述べたように、まったく出自が異なる各資料がほとんど同じ事を示しているのですから、人類の持つ心の仕組みと働きは、岡潔が云った内容に間違いはないと確信します。これが 普遍性 というものです。この基礎が無ければ、いかなる理論による発見も創造も価値を持ち得ないと思います。

空間とは何でしょうか。既に時間は量ではないとわかっています。場について議論するには空間が何であるかをわかっていなければなりません。なぜ問題にしないのでしょうか。勿論、空間にある光速度をモノサシにすることはできません。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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