畢竟して何の用ぞ

畢竟して何の用ぞ 。畢竟は、「ひっきょう」と読むようです。確か正信偈の最後の方にも「畢竟依を帰命せよ」として出てきます。意味は「詰まるところ。結局」です。【『正法眼蔵随聞記』畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ】に解説があります。 「 畢竟して何の用ぞ 」を平たく云えば「だからどうする?どうなの?何なの?」とでも云えそうです。一部引用します。

「どうしようもない」と思う事がある。そこには、どうする事も出来ない自分への苛立ちと、他者への怒り、憤りがあり、苦悩する。それはやがて、「あきらめ」という心境へ向かって行くのではないだろうか。
若き日の道元禅師が宋国にいたときのこと、禅寺で、古人の語録を読んでいたところ、四川省出身の僧で、修行を立派になさった方が、問いかけていわれた。
「なにの用ぞ」 【訳】『《語録を見て》何の役に立つか』
「郷里に帰(かへつ)て人を化せん」 『郷里に帰って、人を教化するためです』
「なにの用ぞ」 『何の役に立つか』
「利生(りしょう)の為(ため)也」 『衆生に利益を与えるためです』
「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ」 『結局(究極、最終一点)求むべきもの、それは何か』

自分の力で出来る事であれば、どうにかしようと思う。けれども、身の振り方によっては、相手はもちろん、自分の立場、利害、評判、などに関わってくる。まず、自分が大事なのである。色々な駆け引きや、やりくりがあって、自分の力では、どうする事も出来ない為にあきらめる。端的に言えば、これまでは、「どうしようもない」けど、「どうにか出来る」やはり、「どうしようもない」もう、 「どうでもいい」という風になっていた。しかし、この言葉に出会ってからは、「どうしようもない」という思いがおこる所に、【 畢竟して何の用ぞ 】と出てくるのである。

若き日の道元禅師が宋国に学んだときの話しだそうです。修行を立派にされた方が「(道元禅師)に《語録を見て》学んだとして、だからどうする?どうなるの?だから何の役に立つの?」と聞かれたという話しです。

このお話しにどうも既視感がありました。思い出すに、心理学者多湖輝の人気シリーズ「頭の体操」に似た話がありました。検索しても出てきません。記憶だけですが、書き下します。

  • ある人(A氏)は、皆の中で誰が一番大きなものを食べたかという「話し比べ」をしようと言い出した。ある部屋にAが居る。まずB氏が部屋に入って(例えば)鶏肉を4kg食べた話しをしたが、BはAに負けた。次にCが部屋に入り、牛を5頭食べた話しをしたが、CはAに負けた。こうしてD、E、Fも部屋に入ってより大きなものを食べた話しをしたが、いずれもAに負けた。最後にGは、部屋に入って「わしは宇宙を喰った」という話しをしたがAには勝てなかった。Aは何を食べたと話したか。誰が来ようと話しの後に一言、「そんなお前をわしゃ喰った。」と云っただけ。

 

ただ、「どうしようもない」ではダメだと感じます。人は生まれてもがくしかないです。少なくとも修行を立派にされた方と同じ言い方を誰かにすべきではないと感じます。道元禅師の話しと頭の体操の話しは異なるものですが、管理人には、いずれも道元やB、C、D、E、F、Gに対する「後出しじゃんけん」にしか思えません。話の腰を折るもので、そのやり方は言葉遊びに過ぎます。修行を立派にされた方やA氏は、新規性のある何かを見出すことは無いと確信します。

もう一つあります。別のあるところのある集団における無意識に云い放つ言葉に「(そのようなこと、そのような人に)いつまでも付き合っていられない。」というのがあります。ずっと気になっていた言葉です。何かの課題について討議している際に、相手を突き放せばそこでお話しは終わりますけれども、何も解決していないのです。その点は「畢竟して何の用ぞ」、あるいは「そんなお前をわしゃ喰った。」に似ています。

はっきり言えば、ある種の胡散臭さを感じます。何というかマイケル・サンデルに似た胡散臭さがあります。どこか不遜にさえ感じます。新たな知見を生まない、実に不毛な会話です。「畢竟して何の用ぞ 」の本来の意味とは異なるのかも知れませんけれども、そう感じます。

 

人の言葉も思考も含めた自然が循環ならば、どうしようもないのは事実ですけれども、自然が映像ならばとりあえず回避できます。日月神示にさかんに「気(キ)付け」と繰り返すのは、おそらくそのことです。地獄などありはしませんけれど、不毛な循環を示すのならば、地獄と云ってもよいような気がします。地獄も天国も人が創り出した抽象です。

自然科学は自然(の一部)を切り取って「わけることによりわかる」と思っています。(孤立系) ところが循環ですから、そこに結論はなく心を病むのです。最後は「どうしようもない」に行き着きます。「どうしようもない」というのは、数学者岡潔が最後までもがいた行為(身を挺して狂わんばかりの戦い)をむげにするように感じます。

 


余談です。 ただ物と事があり、運動(渦)があるだけです。渦の細部に拘ってはいけないです。何故、渦があるかが問題です。渦(回転運動)の原因が別の次元軸にあるというのが弧理論の核心です。

gif1

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

確率的に離散して現れる電子、かつ波動である電子(ex. gif1)は映像であって、別の次元軸からの投影による映像だとするならば、理解が容易です。

gif 2

心の仕組みと働きからいって電子が回転運動している(gif2)と理解する方が容易です。別の次元軸からの投影により回転運動が起きる仕組み(原子模型)を考えています。その観測結果がgif1です。素粒子は基本粒子(陽子・中性子・電子)以外の破片です。

基礎資料とする紡錘図形を解析した結果、どうも基本粒子にかかる別の次元軸上にある実体は、6種あって反転するようです。また、直接に観測できないようです。

図1

なぜか単独で取り出せないクオークの数と同じです。ですから、「観測される素粒子群(波)は12の倍数に整理される」というのと整合性があります。素粒子という波動を観測して、物理量ではない時間を用いて波を質量に換算しています。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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