研究は収集整理ではない

管理人は2009年12月より研究を始めました。既に5年が経過し、6年目に入ります。 当初は、それなりにフリーエネルギーに関する資料を集めました。調べた限りでは、こちらのサイトの情報が最大だと思います。

初めの頃は動画も検討しました。一時詳しく調べたものが

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というものです。これはインチキですけれど。

その他、お決まりのE.GrayのEMAモーター関連やBeardenやTT.Brown

adamskipeter-lindemann

peter-lindemannなどです。

Beardenの資料だけで211個、圧縮して230MBもあります。 しかし、ほとんど何も得られませんでした。というより、英語が出来ませんので何が書いてあるのか理解できません。

UFOの目撃記録から

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その形態を分類しても何も得ることがないのに似ています。時間の無駄です。

結局、自分の直観に沿って、その指示に従った方がよいようです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
カテゴリー: 雑感 タグ: , パーマリンク

研究は収集整理ではない への2件のフィードバック

  1. 熊谷 雄一 のコメント:

     わたくしも,40年前に,科学を一変するような思いで,清家新一の超相対性理論を学んだことがありました。メビウスコイルや回転電場の実験などをしたことがあります。しかし,半信半疑で部品を買って,会社の休日に少し実験したぐらいでした。
     そんな時に,あるきっかけで聖書を学び始めました。それまで,創世記は神話と思っていましたが,今の科学と通じる面が数多くあることがわかりました。そして,聖書が述べていること,例えば,人間は死んだら魂になって浮遊するのではなく,塵になること,また,死んでも創造者に忠実なら死んでも地上に復活するという預言は,完璧なまでに証拠の裏打ちがあったのです。
     それに比べて,UFOの原理とされる超相対性理論や付随する実験には何の証拠も根拠も見当たりませんでした。フリーエネルギーや超自然な出来事は,聖書の中では何も怪しむのではありません。例えば,イエスは,大勢の病人を即座に癒やし,死んで4日たった友人を生き返らせました。ガリラヤ湖の水面を歩き,祝宴で水をぶどう酒に変えもしました。しかし,イエスの本当の目的は贖い(あがない)でした。
     もしΦさんがお望みでしたら,無償で聖書のレッスンをお受けになり,イエスについて学ぶことができます。
     
     

     

    • Φ のコメント:

      コメントありがとうございます。管理人も同時期に会員でした。廃刊時まで。長い間に先生が何を言いたかったのかは理解できませんでしたけれど、幾つかの概念は確実に先生から学んだものです。
      人の一生の内に成果が見える形で現れると限りません。もし大筋が間違っていたとしても、それが無意味だとは思いません。久保田八郎氏も清家新一氏も苦労して組織を立ち上げ、長期にわたり活動されたことはものすごい価値があると思います。ただ、ご自分が立ち上げた組織が大事なあまり、本来の目的と道筋が違っていったと感じます。それでも誰にでも出来ることではありません。お二人の存在がなければ管理人の活動はありませんでした。
      ご教示ありがとうございます。個人的に宗教には関心があります。しかし、極端な話、一人一宗教でもよいという考えでおります。 私自身、宗教といえるのかどうか、アダムスキーの哲学が中心に存在しているようで、近いものでいえば神道に近いです。
      アダムスキーは”因”と言いました。何かの主体と感覚器官の心と真自我。三つが揃って人があるということで、人に現れる現象は、すべて結果です。事実・現象の前に”因”があり、その”因”が何かの主体だということです。聖書でいえば「父と子と精霊」というらしいことを比較的最近知りました。 私は、これを万華鏡に例えています。レンズの中をのぞいて見える模様は、すべて結果です。主な原因は鏡です。小さな素片の動きを観察し、いくら詳細に動きを理論化しても無意味なことは誰もが理解します。
      ところが自然科学は違います。風邪をひけば、ウイルスが原因とします。例えていえば、川の流れの途中を原因と決めつけ、流れをせき止め、流れの方向を変えようとします。岡潔は、「自然科学者はわかると思っている」と述べました。。「目で見えない、わからないもののなかに原因があり」その結果が「目で見える現象」になっているかも知れない。そういう想像すらしないで「わかる」と思っている自然科学者を「原始人的無知」「酷い無知」と述べました。
      アダムスキーは「組織化はするな」と述べたらしいです。イエスも自身のことを「宗教あるいは組織にするな」という主旨のことを述べたとどこかで読んだ記憶がありますけれど、本当ですか。 以後に書き換えることは可能です。私は「100かゼロか」という判断はしたくないですし、宗教者による宗教的解釈が当時、現場で起きたことかどうかや、その場面の本当の意味であるかどうかはわからないかも知れません。
      例えばエゼキエルは、丸い車輪のようなものを見たのだろうけれど、何らかの意図があって車輪と言わずに「4つの顔と4つの翼を持つ」と表現したのかもしれません。しかし、彼が天使や幻影を見たと解釈するのは同意しかねます。
      あまり、好きな言葉でありませんけれど、「愛」と訳される言葉は、聖書では3つの言葉で表現されているとのことです。3つはそれぞれ異なる意味なのに一語で訳すのは無茶だと思います。
      このように、私が知っている聖書に関することは誤りかも知れません。熊谷様がお教えくださる方法がよりよいのかも知れません。けれども今は、アダムスキーが述べた方法で進めるのがよいと判断しています。これまでのところ研究を進める方向は、概ね正しいと考えています。

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