これまでに幾度となく時間について記してきました。考察を都度書き記すことで少しずつ前に進んできました。
時間に関する主な過去記事には、時間とは何か、お金 時間 エネルギー 数学、質量・運動・エネルギー・時間があります。 もう少し具体的に書ければと思います。
数学者岡潔思想研究会から該当する講演録「自然科学は間違っている」の一部を引用します。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。
時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。
が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。
が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。
抜粋して順にまとめますと次のようになります。
- 自然科学者は、運動は時間に比例して起こると決めてかかっている。
- 自然科学者は、そういう時間があると決めてかかって、時間はわかると思ってる。
- 時間を表すとき運動を使う。
- 人は時間の中なんかに住んでいない。時の中に住んでいる。
- 時には現在、過去、未来がある。
- 時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。
- その一つの性質を取り出して、観念化したものが時間である。
岡潔は物理現象は、最終的に五感でわかる必要があるとして次のように述べました。
最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。
五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。
まとめますと
あ) 五感でわかるものでなければならない。
い) 自然科学者は、五感でわからないものはないと思っている。「ない」としか思えない。仮定とも思っていないから、検討しない。
う) 自然科学者は、原始人的無知である。自分が仮定していることにさえ気付かない。
上記の3.から自然科学者は、「時間は運動から求め、運動は時間から求め」ています。 それで事足りると思っています。何故なら1.の「運動は時間に比例して起きると決めてかかっている」からです。 確かに
振り子の等時性は、誰もが認める所なのですけれど、上記1.の暗黙の了解があるからに他なりません。 実際は、運動が時間に比例して起きるかどうかだれも確かめたことがありません。
つまり、(運動/時間)の比を決定したことがないのです。それどころか時間が存在するかどうかもわからないのです。
では、自然科学者の時間とは何かというと、岡潔は、4.「人は時の中に住んでいる」と述べて、5.「時には現在・過去・未来がある」ことを示しました。 そして、6.「時の過去の性質の一つ『時は過ぎゆく』」という属性を指摘した上で、7.「その性質を取り出して観念化したものが時間である」と述べました。
上記を言い換えると、運動が時間に比例して起きるかどうかわからない。時間は、時の過去の性質「時は過ぎゆく」という性質を取り出して観念化したものだから、「時間」を時の現在と未来に適用できるかどうかはわからないのです。 それどころか、時間があるかどうかもわかりません。
岡潔の言うように物理現象は(あ)「五感でわかる」必要があります。考えてみるに、人が五感でわかるのは温度や圧力を含めて、究極には「運動」です。
時間は、時の過去の内にある「時は過ぎゆく」という性質を観念化したものですから、五感でわかる「運動」を時の過去に当てはめることにより、よりはっきり時間というものが理解できるといえます。
結局、時間とは、過ぎゆく運動の記憶です。従って、現在の運動と未来に起きるだろう運動に、「時間」を適用できないと考えられます。 もっと短く言うと「時間とは過去の記憶」に過ぎません。
時空(時間・空間)と呼ぶ時間軸など存在しないということです。 自然科学者は、運動を時間に置き換えることにより、宇宙を容易に理解できると考えたのでしょうけれど、「運動は時間に比例して起きる」と思い込んでいるからできたことです。 ですから有名な公式
E=mc^2 ・・・・式1
で示されるエネルギーは運動を時間に置き換えた上で、さらにエネルギーに置き換えたのですから間違っているといえます。 少なくとも近似です。
式1について、過去にも引用したことがある杉岡氏の相対論物理学者に捧ぐ その4からサイトの核心部分を掲載します。ページの中程です。
アインシュタインは、”時間”を速度cを用いて定義したのです。(ここで「はっ」と気づいた人もいるでしょう)
おかしいと思いませんか?時間を光速度cを用いて定義するには、その前に時間というものが分かっていなければならない。なぜならcとは①の距離/時間で求められるものだからです。アインシュタイン出現以前の素朴な時間概念で認識されていた光速度cを用いて時間を定義するという決定的論理ミスをやっているのです!(引用者注:c=299863381m/s・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・①)
杉岡氏はアインシュタインが「蛇が己の尻尾を噛む」ようなことをやっていると指摘されていますけれど、もっと本質的な問題を数学者岡潔は指摘しているのです。
岡潔はまさに天才です。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。

