新約・旧約聖書と紡錘図形・足跡は同根ではないか

弧理論(Ark Theory)は、研究対象である

ネガフィルム写真1 紡錘図形

足跡図1  足跡

の解釈からきています。 弧理論の考え方とは、写真1と図1から得られる宇宙の解釈です。

管理人は、キリスト教徒でもイスラム教徒でもユダヤ教徒でもありませし、聖書の研究者でもありません。 聖書は世界で最も読まれている本ですから、管理人も聖書の有名な言葉を少し知っているだけです。

弧理論の考え方、つまり写真1と図1についての解釈の仕方について学び初めてすぐから、聖書との強い結びつきに気付きました。 研究を始めたのが2010年で、2011年6月ころには解釈の手法に大きな誤りがないと見当がつきました。 それで理論と実験の研究を続ける中で気付いたことを

弧理論の考え方は旧約聖書の「ある」に近い

聖書「初めに言葉ありき」は、「弧理論のE軸上の実体は全情報を持っている」に等しい

ヨハネの福音書14章2節にあるイエスの言葉「住まいはたくさんある」は比喩ではないようだ

の記事にまとめました。

久保田八郎氏が主催した日本GAPの会誌UFO contactee には、ジョージ・アダムスキーからの情報としてアダムスキーがコンタクトしたオーソンは、イエスだったと記されています。 しかしがなら、その根拠は示されていませんでしたのでイエスともノーとも判断できませんでした。

聖書の何カ所かが弧理論の考え方に等しいか、あるいは近いに過ぎませんけれど、管理人にとっては、十分な根拠と見てよいと考えました。 つまり、新約聖書と旧約聖書のいずれもが、写真1と図1のもたらされたものと同根だろうということです。 ただし、聖書全体が同根かどうかはわかりません。

 

余談です。  それと、なぜか管理人には、旧約聖書、新約聖書のいずれも宗教書には見えないでいます。  上記3本の過去記事は、いずれも科学的な内容であって、スピリチュアルや宗教ではありません。 そこには、

  1.  宇宙が無始無終であり、かつ無辺であることは聖書の「ある」に近いこと
  2.  3次元物理空間に直交するE軸上にある実体が「投影されて出来る宇宙のすべての陽子中性子電子にかかる組み合わせ情報をE軸上の実体が保持していること」が聖書の言葉に等しいこと
  3.  イエスの言葉はどうも比喩ではなく「宇宙には人が住める場所が多くある」らしいこと

というかなり具体的合理的な内容が書かれています。つまり、聖書の記述のある部分には、宇宙の実態が書かれていると解釈出来るということです。

これは不思議なことです。何故なら現代物理学(素粒子物理学、宇宙物理学など)においては、宇宙は

bigbang264図2

ビッグバンに始まり、膨張を続けて、その大きさは130億光年だとされています。 つまり、有始有終かつ有辺だということですから、聖書の記述に反しているということになるからです。  もしキリスト教徒の宇宙物理学者がいたとするならば、自己矛盾ということになります。

それと、図1は宇宙の構造を記したもので「宇宙の外」について一切描かれていません。一方の図2では宇宙は「どこ」に存在しているのか不明です。 人が宇宙を入れる超宇宙なるものを創造しなければ図2は描けないと思うのです。人はいつから神を超えたのでしょうか。

 

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矢追純一氏のインタビュー 

動画サイトに興味深い動画がありましたのでメモします。  UFO特番で有名な番組プロデューサー、ジャーナリスト矢追純一氏のインタビュー2本です。

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動画1  矢追純一さんに「UFOや宇宙人の真実」を聞いてみました!

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動画2  矢追純一さんに「ロシアに宇宙人が住んでいる!」と発言した首相と、JAL貨物便UFO遭遇事件を聞いてみました。

 

どうも「自分が知らないことは存在しない」とすることは、大多数の人々にとっての常識のようです。 なぜ存在しないことにするかといえば、日常が壊されることの恐怖にあると思われます。  どう対処すればよいのかわかりませんので、不安から逃れるためになかったことにする。同時に「嘲笑する側」の方が「当面は楽」だからです。持てる人ほど臆病なのです。失いたくないのです。

以前、台所洗剤のCMでキッチンシンクの

sinkpod79a0e571

 

排水ポッドを持ち上げて 「うゎ! 見なかったことにしよう」という場面がありました。面倒は避けて通りたいということです。

常識的な人にとっては、ステーブン・グリア博士によるディスクロージャー・プロジェクトもいい加減なインチキということになります。

頭を少し柔軟にして、矢追純一氏の内容を受け入れますとザ・ユニバース~宇宙の歴史などの動画が途端に胡散臭く見えてきます。

当方が研究しています紡錘図形や足跡は、今の科学概念と全くといっていいほど共通点を見つけられません。 しかしながら管理人には、紡錘図形と足跡は自然科学を包含して尚 何倍も大きいように見えます。

宇宙から地球の現状を俯瞰してみるならば、アメリカ大統領が宇宙人、UFOの情報公開するというようなショックは望ましいことではなくて、紡錘図形と足跡のような情報から自助努力によって受け入れることが望ましい流れだという気がします。  それにしても紡錘図形と足跡の意味が多少なりとも理解されるようになったならば、凄まじいばかりの動揺があると予想されます。 前回の記事に書きましたように、常識からすれば凄まじいばかりの破壊ととられるに違いありません。悪く見えるが本当は善なりです。

 

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バカボンのパパ 「賛成の反対なのだ~」 では済まされない

拙ブログは、科学的な内容あるいは電磁気現象について記す目的で始めましたけれど、研究を続けるうちに、自然科学の欠点や限界があることに気付きました。 限界を超えるには、弧理論の考え方を適用すればよいという訳にはいかず、人の何たるかを考慮し現状での立ち位置を確認する必要があると考えました。

管理人は、以前から生きづらく居心地の悪さを感じつつ、地球は救われるべきか否かと考えてきました。 どうも居心地の悪さは、現在の文明のあり方に問題があるように思います。

以下に一つの事例を記します。事は複雑でうまく書ききれるかどうかわかりません。 輻輳・混乱した内容を含みますので、ご自身でお調べいただけると理解が深まると思います。

 

akatukad34612399写真1

天才赤塚不二夫氏の人気キャラクタ

bakapapaadee414図1

「バカボンのパパ」の名言に「賛成の反対なのだ~」というのがあります。バカボンのパパが言った言葉の意味はともかく、現実世界は実に輻輳したもので、何が本当なのかわからなくなります。

ここから本題です。

 

(あ) 2014年2月に東京都内の図書館などでアンネ・フランクの日記など300冊以上が破損された事件がありました。ご記憶の方も多いでしょう。詳細はアンネの日記破損事件を参照ください。

an138_-ee003写真2

事件そのものは、器物損壊ですけれど、ユダヤ人差別に関することでした。 この事件に関してユダヤ系団体のサイモン・ウィーゼンタール・センターホロコーストに関する記憶を侮辱する組織的な試みであると非難し実行者の特定を求める声明を発表しました。

an5143写真3 アンネ・フランク

(い) ユダヤ系団体のサイモン・ウィーゼンタール・センターについては、リンク先に詳しいのですが、日本に圧力をかけるシオニスト組織として知られています。 結構、営利的で政治的意図が見えます

(う) ところが、当のユダヤ人たちは彼らが行うシオニズム運動を批判しています。

(え) 少し話がずれるのですけれど、アンネ・フランクは、アウシュヴィッツ収容所で毒ガスにより殺害されたのではありません。 チフスにかかって病死したのです。

(お) さらには、アンネ・フランクによるとされるアンネの日記はアンネ自身によるものではなかったということです。リンク先によれば、彼女の父からの依頼によって、アメリカのユダヤ人作家が創作したもののようです。 筆跡と筆記具との整合性がとれていないのです。

(か) ユダヤ人の来歴は古く複雑です。迫害されるに至った理由も複雑です。 根底に選民思想があるようで、特にタルムードが問題視されています。

(き) イスラエル国内では、アシュケナージ系(白人)ユダヤ人がスファラディ系(アブラハムの子孫)ユダヤ人を2級市民として差別しているといわれます。

 

肝心なことは、上記のことは、ほとんどアシュケナージ系ユダヤ人が行っていることです。聖書に出てくるスファラディ系ユダヤ人は差別を受けている、あるいは格差があるのです。

「差別はいけない」として批判する人たちが同時に「差別する人たち」であり、実は「ある部分では当事者ではない」という何が何だかわからない、およそ日本人には理解できない世界なのです。

白は黒であり、黒は白。 天は地であり地は天である。 前後ろ反対で、左右も反対。 善は悪であり、悪は善である。 本当は嘘であり、嘘のような本当である。 被害者が実は加害者である。 被害者が加害者に仕立て上げられる。 悪魔は天使の顔をしてやってくる。 声の大きな者が正義とばかりにハバをきかせる。

歴史は書き換えられて混乱を招き、彼らの思惑通り、「私たちは思考停止」しますが、同時に当事者である彼ら自身も何が本当なのかわからなくなって、火病を起こすでしょう。  どうりで居心地が悪いはずです。

「賛成の反対の賛成なのだ~。 これでいいのだ。」では済まないのです。矢張り、赤塚不二夫氏は天才です。

上記は、一つの例に過ぎませんが、ほかに思い当たることがあると思います。  恐らく科学の分野においても、大きく派手に取り上げられ喧伝される研究は、上記のような複雑な利権の上に成り立つ本質からずれたことだと理解します。 その結果、本質は置き去りにされたままなのです。 世界は統合失調症(分裂症)を煩っていると感じます。

注:ホロコーストがでっちあげだとは主張していません。ただ、虐殺のダントツ1位と2位は毛沢東とスターリンで決まりです。

追記 3位はカンボジアのポル・ポトのようです。それにしても「思考停止」こそが問題であることは、確かです。最近話題のパナマ文書も報道されるより、もっと深いと考える必要があると感じます。2016/06/01

追記20230305

 

追記20230710

田中英道×茂木誠◆ユダヤ人考察/アシュケナージ・スファラディ・ハザール etc.『日本とユダヤの古代史&世界史』

 

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「目は口ほどに物を言う」 では、目は心の表れなのか?

人とは何かを考えるとき、「心」について考えるに等しいわけですが、以前から気になっていた「目」について記します。

研究対象である

ネガフィルム写真1

の紡錘図形や

足跡図1

の足跡について考察する過程において、どうしても

telpp19写真2

の目や

mesymbolvenus図2

の目が気になります。 写真2や図2から受ける印象は、どちらかというと薄気味悪いのですけれど、どうも原因の一端が

me099662_21493369写真3

米ドル札に描かれているプロメテウスの目にあるようにも思います。

そもそも動物にとって目は

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の様に、心理的な圧迫感があり避けたくなるような要因があるようです。

そういえばweb検索で利用するwikipepediaにおいて、時折トップに掲載される「寄付してね」のバナーがかつて

wikicaf7ea写真5

の様でした。 写真5はかなりの圧迫感があった記憶がありました。当時、ネットでもそれなりに噂になったようです。 一度だけ寄付したことがありまして、最近メールにて「寄付してね」が来ています。

臓器としての目は、カメラであり、受光器に過ぎません。何故、「眼力」があるのか不思議です。

この点、G・アダムスキーによると「万物を見るときに、それはすべて自分自身だ」とのことです。  受光器に過ぎない目が見るものすべてが自分自身だというならば、目は自身を映し出す鏡だということになります。だからこそ、受光器である目が心を表しうるのかも知れません。

図2は金星のシンボルマークだそうで、内部の目は人体を生かす宇宙の意識(魂、叡知、生命力)をあらわしているとのことです。ですから、シンボルとしての「目」には、善悪を超越したもっと深い意味が込められているのかも知れません。(だからといって偶像を認める気にはなりませんが。)

 

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数学者岡潔「人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。」 では、心とは何か?

実験の準備は遅々として進まない中、足跡の解析で少しアイディアがありました。実験とも関係あることですけれど、いずれ文章にできるでしょう。

ここのところ、人とは何かについて考えています。数学者岡潔は、「春宵十話」において次のように述べています。

人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。

同時に、「人の中心は情緒である」とも述べています。 ここで情緒とは、weblio辞書から

  • 人にある感慨をもよおさせる、その物独特の味わい。また、物事に触れて起こるさなざまな感慨
  • 【心理】「情動」に同じ。

心理学用語の情動に同じだということで、情動とは

  • 感情のうち、急速に引き起こされ、その仮定が一時的で急激なもの。怒り恐れ喜び悲しみと知った意識状態と同時に顔色が変わる、呼吸や脈拍が変化する、などの生理的な変化が伴う。情緒。

即ち、人の中心にあり、多くを占めるのは情緒であり、情緒とは物事に触れて起こる怒りや恐れ、喜びあるいは悲しみといった感慨であるということです。 人の中にあるのは「心」であることは誰しもが認めるところですが、そのの多くが喜怒哀楽を含むさまざまな感慨をひき起こす情緒で占められているようです。

 

人の心について、より分析的に説明したのは、ジョージ・アダムスキーです。著書「テレパシー 無言の会話術」

telpp19図1

において、概ね次のように記しています。(以下は、管理人がウン十年前の記憶を元に書いています。 記憶違いがあればご指摘ください。古くに本をなくしたので、最近、古本を再購入しました。)

  1. 人には五感がある。
  2. 五感は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚である。(見る、聴く、味わう、嗅ぐ、触る)
  3. 触覚には二つある。 触覚(touch)及び触覚(feel)
  4. 仮に、自己から視覚(見る)を取り除いたとしても、自己の意識は存在する。
  5. 次に、自己から聴覚(聴く)、味覚(味わう)、嗅覚(嗅ぐ)、触覚(触る:touch)を取り除いたとしても、自己の意識は存在することに気付く。
  6. 残った触覚(feel)が自己の意識の本体である。

と説明されていました。(注:最近の新アダムスキー全集にはどのように書かれているかわかりません。)

喜怒哀楽という意識状態を生じるのが五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚touch)であって、これを「センスマインド」、「感覚器官の心」、あるいは「肉体の心」と呼んでいます。 そして、6.自己の意識の本体である触覚(feel)ソウルマインドと呼んでいます。 因みにアダムスキーの説いた「宇宙の意識」がどういったもので、ソウルマインドとどういう関係にあるのかよくわかりません。

 

よく知られる人物

helenmi_6写真1

ヘレン・ケラーは、先天的に視覚・聴覚の障害者でした。 写真は、よく知られた映画の一シーンです。 彼女は、手話(触覚:feel)で「水:water」という動作を教え込まれています。 実際に水に触れ(触覚:feel)て手話の動作 と 水というものの感触の関連に気付きます。 写真は、彼女の中で手話の動作(水)が物質の(水)と同一(観念あるいは概念)として結びついた瞬間を表しています。 水の冷たい等の感触や教師が触れる指の感触から得るセンスマインドを越えて「水という言葉」を彼女が理解したわけです。

一方で、昆虫も感覚器官を備えて行動しています。

jibachi005b写真2

は、地蜂の一種です。(注:以下は、管理人が昔読んだ資料からの説明で、写真1の地蜂は異なるものです。)

ある種の地蜂 は、子孫を残すため次のような行動をとります。

  1. 雌は雄と交尾する。
  2. 雌は、地面に巣穴を掘る。
  3. 写真2のように昆虫を捕獲し、針で刺すことで昆虫を麻痺させる。
  4. 麻痺した昆虫を巣穴に入れ、昆虫に卵を産み付ける。(昆虫は生きているので、卵から孵った幼虫は昆虫を餌に成虫になるまで巣穴で過ごす。)
  5. 雌は、巣穴に土を被せて蓋をする。

地蜂は、1~5の順を決して違えることはしません。卵を産み付けなければ巣穴に蓋をすることはないといいます。  謂わば、昆虫は肉体に備わった機能以外の動作を行うことはできないのです。一連の動作も決まった順にしかできません。 現代的な言い方をすれば、遺伝子レベルで一連の動作がプログラムされているということになります。

 

私たちは、朝起きるとき次第に覚醒しやがて「起き上がって」着替えをします。 目覚まし時計が鳴ろうが鳴らなくても、ある瞬間に起き上がる動作をするのはどうしてでしょうか。地蜂のように「卵を産み付けたから自動的に巣穴に蓋をする」のとは違います。何が切っ掛けで起き上がるのでしょうか。

管理人は、センスマインドにより「起き上がる」ようには思えません。それでは地蜂と同じになってしまいます。 私たちは触覚(feel)、ソウルマインドによって理解をし、行動を起こしていると考えます

しかし、人はいつもソウルマインドによって冷静に行動を起こしているわけではありません。 むしろ行動の多くは五感にある(センスマインド)を切っ掛けに行動を起こすことも確かなことです。

 

某TV番組「ピンプ・マイ・ライド 車改造大作戦!

ohPimpRide写真3

というのがあります。視聴者が乗っているボロボロの自家用車をスタッフがピカピカの新車並に改造し視聴者が驚喜するという番組です。

番組の終盤、自動車が仕上がるとスタッフが視聴者に車を見せます。すると視聴者は飛び上がって狂喜乱舞します。「嬉しい」を身体を使って表現していることは理解できますけれど、このときソウルマインドは眠っています。 まったくなりを潜めているといってよいでしょう。言い方は悪いですけれど、視聴者の喜び様は、「獣のそれ」と同じように見えます。

私たちの日常には、このような過度な刺激を与えるTV番組、映画、ニュースに溢れています。 管理人が考えるに、私たちの感覚器官の心(センスマインド)は出来るだけ抑えた方がよいようです。

 

自己の意識の本体である触覚(feel)ソウルマインドからの声は本当に小さいからです

 

私たちが朝目覚めて行動を起こせるのは、ソウルマインドによるのであって、私たちは、地蜂とは違うのです。

感覚器官は、一定の刺激に対して反応は弱くなります。次第に麻痺する性質を持ちます。ですからますます強い刺激を与え続けなければ、やがて反応しなくなります。  より強い刺激を求め続けることを止めねばいけません。

かつて、麻薬・覚醒剤常習者による自助組織を見学にいきました。代表者も自ら薬中毒患者だった過去をお持ちでした。 より一層の刺激(快楽)を求めてヤクに手を出してしまった人たちが共同で生活しながら社会復帰を目指す自助組織です。

彼は、次のようにいいました。「一度、ヤクをやると”三途の川”の向こう岸へ渡ってしまうのと同じ二度とこちら側へ戻ってくることはできない。だから、”二度とヤクをやらない”という意思確認を毎日、死ぬまで続けねばならない。」  ヤクをやると 脳の一部に化学的な不可逆変化が起きるようです。治療法はありません。


 

 

G・アダムスキーの考え方をよく説明されている動画がありますのでご参考まで。かなり難しいです。

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動画1

 

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数学者岡潔 「(自然科学者は)既に原始人的無知です。」

拙ブログをはじめた当初は、紡錘図形と足跡の解析結果(以下、弧理論といいます。)を説明することと、実験で確かめることを目的にやってきましたけれど、弧理論の基礎が自然科学とは異なるアプローチであることをご理解いただく必要があることに気付いたのは、数学者岡潔の講演録からでした。

管理人であるΦが、「自然科学はダメであり、弧理論にとってかえるべき」と記しても説得力がないと気付いたのは、岡潔の言葉が切っ掛けでした。  そこで、岡潔が述べた講演により「自然科学の限界について」記そうと思います。当方の認識不足あるいは誤解が含まれるかも知れませんので、予めご了解ください。

数学者岡潔は、講演で「自然科学は間違っている」と述べました。特に参考にしているのは、「自然科学者の時間空間」と「五感でわかるもの」です。  ここでは、岡潔が「(物理現象が)五感でわかるものでなければいけない」と述べたことについて、管理人の解釈を記します。

講演録より「五感でわかるもの」を引用します。

物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。


  1.  物質は、天体望遠鏡や顕微鏡を使って工夫してもよいけれど、最後は五感「見る、聴く、触る、味わう、臭う」ことでわかるものでなければならない。
  2.  自然科学者は、工夫しても五感でわからないものないと思っている。
  3.  自然科学者は、「ない」と断言しているのではなくて、「ない」としか思えない。 (自然科学者は、「五感でわかるもの」以外について、「ある」とも「ない」とも想定すらしない。)
  4.  だから、自然科学者は、2.において3.のとおり、検討すらしない
  5.  自然科学者が3.と4.から2.「五感でわからないものはない」というのは、既に原始人的無知である
  6. 自然科学者は、2.において自らが無意識のうちに仮定していることにさえ気付かない

自然科学者が研究している宇宙の超巨大構造素粒子の極微細構造について、管理人は「結構ナイーブな話」だという言い方をした上で、人の知とは、基本的に「無知の知」で有るべきと記しています。 それに対して岡潔は、自然科学者は、酷い無知だとストレートに述べています。

では、「わかる」とは何でしょう。

  • 「わかる」とは、理解する納得すること。
  • 「わかる」の語源は、「わける」である。
  • 「わける」とは「分ける」、分類する、分解して仕分け、整理することである。

つまり、ある物事(この場合は、物質あるいは物理現象)を分解し仕分けて、整理・分類することにより、「わかる」、つまり理解するということです。

自然科学者は、この「わかる」を評価します。 それが精度であり、分解能であり、統計的に有意であるかどうかです。その判定の結果が「わかる」の評価になります。 具体的には、天体望遠鏡や素粒子加速器の分解能・精度やその後の統計処理を経て得られた結果が「有意」であるかどうかの判定にかけられます。 結果は、写真やグラフにまとめられます。

岡潔が述べたのは、精度や分解能あるいは統計処理の優劣をいったのではないことは明らかです。写真やグラフは目で見てわかります。 しかし、自然科学者は、「わける」ことで「わかる」と思い込んでいます。問題は2点あると考えます。

(1) 分解能・精度をあげることでどこまでも「わかる」と考えていること。

(2) 「五感でわからない」ものに思いを持てないこと。

管理人が考えることは次の通りです。

(1)について、例えば「ヒッグス粒子」の研究で得られたのは

clip_img172グラフ1 (125GeV付近にピークが見られる。)

です。グラフは見てわかります。しかし、ヒッグス粒子は、「五感でわかる」ものでしょうか。管理人は、岡潔の言う「五感でわかるもの」に該当しないと考えます。少なくとも実生活にはほぼ関係しません。何故なら、ヒッグス粒子を五感でわかる人はいないからです。

そのような素粒子が存在しないとしているのではありません。そのような理論と理論に相当する素粒子は存在するでしょうけれど、「五感を持つ肉体により生活する人にとって(そのような素粒子)は無意味」であると考えます。  言い換えると自然科学者が得た研究結果は、研究手法としては「わけた」のであって、その結果「わかった」のでしょうけれど、本当の理解には遠いのではないかということです。 これ以上のお金を使うことは許されないのに、「わける」ことで「わかる」と考えていることの限界を感じます。

五感でわかるスケール表1

による数直線の極大(右端)と極小(左端)は、人の「五感ではわからない」、行き止まりだと感じます。

 

(2)について、管理人にとって2つの意味があります。

1. もしかして「五感でわからないもの」が「ある」かもしれないこと

2. 「五感でわからないもの」から、「五感でわかるもの」が現れてきているかもしれないこと。

自然科学者が1.ということの思いを持つことができないし、想像もできないことについて、岡潔は「原始人的無知」だと述べたのですから、岡潔は辛辣です。

2つめとして、管理人は「見る、聴く、触る、味わう、臭う」ことが一切できない「あること」から「3次元の物理現象」が生じているのではないかという発想を持っています。 その仮説が弧理論です。

仮説の「ある」こととは、これまで解説してきた「エネルギー軸上の実体」です。(注:この場合のエネルギーは時間[T]を含みません。)

 

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ヨハネの福音書14章2節にあるイエスの言葉「住まいがたくさんある」は、比喩ではないようだ

5年あまり弧理論(Ark Theory)の考え方をもって研究を進めてきました。その結果、過去記事に

(1) 聖書の言葉「初めに言葉ありき」は弧理論の「E軸上の実体は全情報を持っている」に等しい

(2) 弧理論の考え方は旧約聖書の「ある」に近い

と書きました。 管理人には、弧理論の研究をはじめた当初から弧理論(旧弧電磁気論)は、聖書の一部の記述に「等しい」もしくは「近い」内容を含んでおり、聖書自体に科学的内容を含んでいるのではないかと感じてきました。

同時に、弧理論についての解説で

「軌道電子に働く力」と「単極誘導に生じる力の違い」

自由電子のモデルと宇宙の構造

と書いた際に、西遊記にある「お釈迦様と孫悟空の寓話」を例えに記しました。

弧理論の考え方の基本形は

20140421静止図1

のとおりです。  3次元物理空間(M軸)に直交する別の次元軸であるE軸上にある実体が持つ真のエネルギー値E2 (注:自然科学でいうエネルギーと異なり時間を含まない。)が「積分を伴う回転投影」によって位置と質量mを持つ物体として現れます。(注:「積分を伴う回転投影」については、右リンク「第3起電力のエネルギー源についての考察」を参照ください。)

投影の角度が90度の時、「ある観測者に対して物体が静止している」ことを表し、

20140421運動の状態図2

「ある観測者に対して物体が運動している」とき投影角θをもっていることになります。このときE軸上の実体が持つ真のエネルギー値は、E2-E’減少します。減少分のエネルギーがM軸上の物体の運動になります。(注:運動も時間[T]を含まない。)

この図1、図2によりM軸に投影された物体は、弧理論による基本粒子である陽子・中性子・電子を指します

なお、弧理論では、投影角θが90度である基本粒子、つまり静止で安定なのは3種類のみです。その他の「素なる粒子」は不安定な粒子群に過ぎません。弧理論では、E軸上の実体は、全部で6種類ありますので、基本粒子を含む全ての粒子は、6種類に分類されます。但し、E軸上の6種の実体は、直接に観測することはできないと考えられます。

 

弧理論による考え方によれば、我々が宇宙の外に出るという考えは無意味です。 図1、図2によれば、投影された物質(陽子・中性子・電子)でてきた我々自身がどんなに遠くへ行っても、そこは「積分を伴う回転投影」によりできた宇宙だからです。我々にとって宇宙は無限大だということです。 弧理論によれば投影によって「質量と位置」が決まることが 宇宙の定義なのです。

saiyukite1図3

のようにお釈迦様の掌と孫悟空の両方を見渡せる位置に我々が立つことは不可能です。

ここから本題です。

新約聖書のヨハネによる福音書14章2節にはイエスの言葉として

  •  「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」

と記されています。 宗教として解釈される場合において、「天の国」と「父の家」は同一とされるようです。

過去記事(1)及び(2)に示したように、宇宙は偶然の産物などではなく、宇宙が「いつから存在し、いつまで存在し続け、いつ終わる」という意味も含まず、かつ、宇宙が「どこか特定できない大きさ」であることを考察しますと、イエスの言葉は、宗教的な比喩ではなくて、「天、即ち宇宙は、人が住むことを当然のことと」して述べられているように思えます。

重ねますと、イエスの上記の言葉は、誰もが死して天国に行けるというような抽象的・比喩的、あるいは宗教的な意味ではなく、宇宙には人が住める所が多くあると直接的に述べているようです。

注意すべきは、イエス自身について宗教的に解釈するならばグノーシス主義に陥る可能性が高まるという自覚が必要だということです。直接的に言えば、イエスを諍いのネタに使うとはもってのほかなのです。

mottenohokaP46写真1 もってのほか

 

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進歩とは「自明と思い込んでいる簡単なことに気付くこと」

あるアイディアに基づく実験を行うには、一週間もあれば実行できるのに、随分先延ばしにしてきました。 その間、弧理論にかかる周辺についての考察を進めてきました。実験は、結果が一瞬で判明します。ほとんどの場合、失望する結果になりますので実験は嫌いです。 その点、今年はじめに連続で行った実験は、単極誘導モーターの反作用をどの部分が受けているかを確かめるためのものでしたので気軽に行えました。

ドキュメンタリー番組の冒頭で、「より速く、高度に複雑化する現代社会」と言われることがままあります。しかし、これまでの考察の結果、「速く高度に複雑化」することが必ずしも進歩に比例しないことがわかってきました。

(あ) 詩人、絵本作家である谷川俊太郎は、1931年の生まれですから、現在80歳代です。彼は、大人でありながら子どもの感性を持ち続けています。子どもの感性を持ち続けることは希有なことです。

(い) 私たちは小学生低学年で「アナログ時計」の読み方を学習します。「時計の動きを読むことは、即時間を知ること」だと学ぶわけです。

(う) 数学者岡潔は、自然科学者について「運動は時間に比例して起きると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかった、時間というものはわかると思っている。」と述べました。

私たちは、時間というものは、(い)の様に、当然のこと、自明のこととまったく疑わずに生活しています。ところが岡潔は(う)として、運動と時間の間に必ずしも比例関係があるとは限らないと述べました。それどころか、時間というものが存在するかどうかを疑わせる発言をしています。

岡潔自身も小学生の頃に(い)の教育を受けたはずです。にもかかわらず、自明と思われている時間について切り込むことが出来たのは何故なのでしょうか。それは(あ)の谷川俊太郎のような感性を持ち続けていたからできたことなのでしょうか。それとも、彼の”数学の才能”、圧倒的な思考力により突破できたのでしょうか。管理人には、どのどちらなのかわかりません。

いずれにせよ、私たちが「自然科学=宇宙の姿」だと漠然と納得してきたことが、実は「絵を描く時、初めに画用紙があるようなもの」でしかなかったということです。その欠陥が「時間」にあることを岡潔は指摘したのです。

考えて見ますれば、我々にとって天動説は当たり前です。しかし、「陽は東から昇り、西へ沈む」生理的日常と「地球は太陽を周回している」という論理的帰結「互いに相容れない」ものであるにもかかわらず、頭の中に並記していることは、実のところ奇妙なことです。 つまり、天体観測の事実を説明するには太陽が中心で、地球他の惑星が周回しているとしなければ説明がつかないから、生理的に絶対正しい「東から西への太陽の動き」とは、別に「天動説」を並記しているに過ぎないのです。大事なことは、「東から昇り西に沈む」と「太陽が中心」は、どちらも正しいのです。

ですから、恐らく、岡潔の言う「運動は時間に比例して起きるとは限らない」と「時計の動きは、即時間を知ること」は、どちらも正しいのではないかということです。 今はまだ、「運動が時間に比例しない」 事例は見つかっていませんけれど、そういう実験的事実が見つかるかも知れません。あるいは将来、「時間」という概念を使わずに組立物理量を表せるときがくるかも知れません。 そのときには、「日常生理的な時間」と「理論的な説明(天動説にあたる理論)」を頭の中に並記する時が来るようにも思います。

詰まるところ、時間を高密度に消化(細分化)し、高度に複雑化することが進歩ではないようです。本当の意味での進歩とは、私たちが自明のことと深層に飲み込んでいたことが実は、より簡単な構成により出来ていたのだと気付くことのように思います

上記のことについて、両替屋(金融資本家)は、随分前から気付いているはずです。 自然科学者が「運動を時間に置き換え」、両替屋は「時間をお金:通貨に置き換え」たのですから、我々から「時間が奪われ」あげく「お金が奪われ」るのは、彼らの狙い通りなのです。 ですから

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動画1 エンデの遺言

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動画2 続エンデの遺言

に紹介されている様に、「減価する地域通貨」や「負債から生じる利子」を取らないことは本質に近いことながら、運動(仕事)からお金:通貨を切り離すには、「時間」の本質に気付くことが大事なのだといえそうです。

もう一つ大事なことがあります。 どうも人は、「抽象化」こそ崇高な学問の方策の様に思われていますけれど、当方には最善ではないように思えます。 うまく書けるかどうか、次に試みます。

(え) 「時間」は、3次元物理空間を等しく分ける行為から来ています。ですから時間は、12の倍数で表されます。 一方、数学の基礎は手指の数である10進法により作られています。  コンピュータが使われて久しいため2進も8進も16進も10進法と同様、「使い勝手」が良ければ、何を使ってもよくて、要は「精度の問題」だと考えられています。

しかし、(う)に示した岡潔は、自然科学の根幹の位置を占める「時間」が問題だと述べました。 岡潔は述べていませんけれど、「運動は時間から求め、時間は運動から求めている」ことは、疑いのないことです。  人はこれまで(運動/時間)の比を決定したことはありません。 実際はこの比を決定することは不可能なのですが、問題は、「宇宙は事実上の無限大である」ことです。 極微の世界あるいは極大の現実世界において、「(運動/時間)比の精度を無限に求められる」ということです。

数学上の概念としての「∞」ではなくて、3次元物理空間での「精度を無限の桁数求められる」ということです。物理学において発散(無限大)が大きな困難であることは知られたことです。

時間:12の倍数 、 角度:12の倍数 、 数学(算数)&物理:10進法 、 お金(通貨):10進法

問題の本質は、恐らく(進数)の不整合にあると考えられます。 この勢力関係は、両替屋にとって最も触れられたくない話題だと気付きます。 つまり、物理学がどこまでも「割り切れない」ジレンマを抱え続けることを両替屋は、望んでいるということです。 物事の本質は簡単だろうということです。

ついでに言えば、「時間お金:通貨」は実体のない数学的な概念に過ぎません。けれどこの二つは、我々の実生活を振り回しています。(これが最大の問題だと誰もが知っていることです。) 抽象化を受け入れる方が「頭がよい」と思われるのですから、実生活くらい犠牲にできるでしょ。デリバティブで大損こいても。

この10進数 対 12進数 の対決は、12進数の勝利だと予想します。 3次元物理空間を等しく分けるには12の倍数である方がよいのですから。 彼らもさすがに時間を10の倍数にできないでしょう。

以上をテーマにした過去記事が複数ありますので、興味をお持ちの方は、検索の上ご一読いただけるとありがたいです。 なお、過去記事について、少しずつ記述が変化している場合がありますが、基本的に新しい記事の内容を優先します。 関連する検索キーワード「時間、ミヒャエル・エンデ、モモ、通貨、両替屋、金融資本家、岡潔、闘牛士、エリートキツネ、素数、ゼータ関数」

 

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科学者は運動を時間に置き換えた。両替屋(金融資本家)は時間をお金に置き換えた。そして庶民はお金を巻き上げられ続ける。

これまでに何度も記してきたことで、漸く時間の何が問題なのかわかってきました。改めて、問題点をメモします。

自然科学者は、「運動」を「時間」に置き換えました。一見便利だからです。時計の針が動いているとき文字盤上の針の位置を読んで頭の中に時間として数値化します。 時計に時間が直接「ある」訳ではありません。時計にあるのは「動き」だけです。 重さや長さのように、直接手で計ったり目で見たりできません。私たちの五感でわかるのは「動き」だけです。 針が動き、針の文字盤上の位置による読み値を頭の中で時間に置き換えたのです。 運動が時間に比例して起きるかどうかはわかりません。 ですから、(運動/時間)の比は、別途決定する必要があります。

両替屋(金融資本家)は、「時間」を「お金:通貨」に置き換えました。 これは利子利息のことです。利息は負債です。どこかの誰かが銀行から借り入れをしなければ利息は生じません。 利息の元が負債であるにもかかわらず連中は、これを「信用創造」と呼びます。 体の良い言い換えでしか無く、彼らは何かにつけて言葉遊びをします。

ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデは「お金を時間に置き換える」ことで小説「モモ」を書きました。

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実際は、逆だったのです。両替屋の連中は、時間をお金に置き換えたのです。

問題は、運動は10進数、時間は12の倍数、通貨は10進数であることです。 3次元物理空間を等しく分けるこには12の倍数が便利ですし、よく理解できます。 できれば、質量も長さも時間も12の倍数である方が望ましいのです。 ですから、10進の通貨の管理者たる彼らは「12の倍数がよい」などと言う者が出てくることを阻止したいはずです。

何より(運動/時間)の比が未定ですから、ひいては運動(仕事)から時間を経由してお金を巻き上げられる仕組みを堅持できることが大きかったと考えられます。 お金に色はついていませんので、利ざやを抜き取られると中央銀行が発行した総量を割り込むことは明白です。

よく考えると、頭の中にしか存在しない「時間」という概念と「非兌換のお金」とはよく似ています。どちらも「ある」と思い込んでいるに過ぎないのです。

情報の圧倒的勝者である両替屋の連中は、「時間が問題だ。12の倍数がよい」という考えを誰かが持つことを未然に阻止するに相対論がうってつけだと判断したと考えています。100年はいかにも長いです。

インターネットが発達した今日、特定のことが異様に持ち上げられたり、徹底して貶められたりするというバイアスが働いていることに誰もが気付いています。 無視したり無くしてしまいたい一つに単極誘導が有るのではないかと穿った見方をしています。同様に「時間」についても、問題があると騒がれたり、話題に触れられることを嫌う連中がいるだろうと想像できます。科学者も仕事を失いたくないので発言することはないはずです。

問題の本質は、驚くほど簡単です。これを「常識・自明あるいは無意識」というレベルで否定せずに考察できたのが岡潔や岡潔が述べた道元禅師だと思います

岡潔が自然科学者を「原始人的無知」と述べた理由はここにもあるようです。

 

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タイム!

役に立たない小咄をひとつ。

自然科学者「」、 振り子の運動「」、 時間「

 「さて、振り子の運動を使って時間を計ってみるか。 何せ、振り子には等時性があるし、運動は時間に比例して起きるはずだからな。」

pendulum2015

 「時間?? いや、オレ知らないよ。 吊り下げたオモリと重力で動いているだけだから、時間に聴いてくれ。」

 「いや。待った! そっちこそ、運動に聴いておくれよ。」

う・タ 「こっちに言われても困る。 勝手に決めるなよ。」

という水掛け論でした。 いやー、よく考えたら時間なんてありませんでした。

”時間”は物理量じゃない。 時間とは、過ぎゆく運動の記憶(記録・情報)でしかない。時間を五感でわかるものと思っていましたけれど、違ったようです。  時間を”見た・触った・聴いた・味わった”人は、管理人までお知らせください。 時間が物理量ならば、重さや長さと同じで直接触れるはずです。

数学者岡潔によれば、「数学で大切なのは情緒である」だそうです。

 

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