地球は救われるべきか否か

ある科学者は、地球は救われるべきか否かを議論しています。 その中で次のように述べています。

「(地球の)各々の人は、あまりお金がかからずしかもだれにも迷惑をかけないような救済策を見つけることを隣人や国家に対して期待しています。一方では、一人一人は、自分の運命は他のものの怠慢の結果であると不平を言いながらも、共通の墓に向かってひとまとめになって動いています。」  (括弧書きと下線は管理人による)

管理人は、過去記事に記したように、ずっと居心地の悪さを感じてきました。そして、多くの人たちが世の中に対して持っているだろう閉塞していると感じる理由を記しました。 その根元には、大事なことを意図的に曲げたり置き去りにしてきたことがあると分かりました。 そして誤魔化しの方法として例えば抑止力という言葉遊びを用いることを述べました。

これらの考察の結果、管理人は一見疑いようのない言葉や組織あるいは情報に、どこか、そこはかとない胡散臭さを感じるようになりました。

例えば、「人権・自由・平等・平和・福祉・安全など」の言葉やこれらの言葉を含む「あらゆる組織・団体・機構・制度・法律・思想・信条・宗教」あるいはこれらから出される情報に、決して否定出来ないような事柄なのに、うっすらと何となく含まれる「胡散臭さ」を感じるのです。

以前、ある法律を調べていました。 条文には目的が書かれており、各項・号に従って細目が記載されています。 法律の実際の運用は、各省庁の局長・課長名などにより出される運用方針により運用されることが多いです。  何の法律を調べていたのか記憶にありませんけれど、このときに調べた法律は「~をもって公共の福祉に資することを目的とする」とされていて、実際の運用までたどり着いたときには、ほぼ逆の運用内容になっていました。 読んだときには一瞬、頭がクラッとなった記憶があります。 分かりやすく表現すると「信号機の赤と青が同時に点灯した」状態です。 どこかの誰かが職務の上でやむなくやったものかも知れませんが、思考停止に追い込むことに成功したことにより、結果的にどこかの誰かが(金銭的に)得をする訳です。 そのときは、何故このような思考停止するような内容になっているのか理由は分かりませんでした。 考えてみたら、例はいくらでもあります。「人権」を「擁護」するというプラスの意味を持つ言葉を並べた「人権擁護法」案になぜ反対するのでしょう。

こうして、世の中を見渡してみるに、おおよその仕組みが分かってきました。 結果、閉塞や失望を通り越して、現在、管理人は興味を失いつつあります。 果たして地球は救われるべきなのでしょうか。

少なくとも、どこかの誰か特定の人の責任ではありませんし、右翼席にも左翼席にも着く必要はありません。 例えば、私たちが闘牛場の牛ならば、赤い布や青い布が敵ではありません。闘牛士を倒せばよいのでもありません。 全員の責任であることは確かです。

英国議会

英国議会席

エリートキツネと闘牛士」に記したように、お金:通貨に対して執着するという動機付けを何十世代も続けた結果、生まれながらにしてお金に執着する人が恐らく何十パーセントにもなってしまった世界において、戦争の動機をなくすには「いつ、どのように」来た道を引き返せばよいのでしょう。

Φ について

2010年より研究しています。
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