カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その6

前々回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

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いつも引用するある科学者の言葉から得た管理人による考察と比較して検討します。著者は、「物ではなく、出来事にある」と述べています。第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」より。「実体」という部分をp99より引用します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

前回までに説明したとおり”言語規範”と量子場を比較して、「同じだとわかっている」と述べています。

  1. 言語「音素の組み合わせ」・・・・音素に意味は無い。音素の組み合わせに意味がある。
  2. 量子場「場の揺らぎ→物(素粒子等)」・・・・量子場に意味は無い。場の揺らぎにより生じる量子、その他の物質の組み合わせに意味がある。

1.と2.を対比させると同じだという意味です。その上で、物理世界がで構成されているとは思えないと述べています。ここで著者が使った「実体」とこれまで管理人が使ってきた「実体」とはまったく意味が異なります。 続きを読む

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数学者岡潔「 2つの心 」・・・頑としてわからぬ人たちが居る

数学者岡潔は、人には 2つの心 があることを説いています。ところがどういうわけかあまり詳しく解説していません。晩年になって、自身の時間が残されていないからなのかわかりませんが、先を急いでいるような感じを受けました。

岡潔を知ってから「 2つの心 」と「時間とは何か」の2点について、少しずつ考えて記事にしてきました。できるだけ具体的な例を挙げながら、第1の心と第2の心の仕組みと働きについて考えてきました。この2つのテーマを掘り下げて考える理由は、自然科学の何が問題なのかを明確にするためでした。

しかし、これまでのところ、十分わかってもらえているという実感が湧きません。その理由について考えました。

 

ほぼ全ての人たちは、岡潔の講演録なり、著書を「読んだらわかる」と思っています。ところが実は、「岡潔を読んでもわからない」のです。誰でも岡潔を読めば、「岡潔は何かを訴えている」とはわかります。それで何かわかったつもりになります。それだけです。岡潔は第1の心と第2の心のあり方を次のように述べています。【1】巻頭言より。

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「」という。これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「」という。しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。何でもすべて本当に大切な部分は無である。だから日本本来のよさというのは無である。ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。真、善、美はすべてその源を無の世界に発して、有の世界へ流れこんでいる。有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

一見、哲学的なことを述べている様な言葉です。ところが直近の記事11月1日の『カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その2』で取り上げたこと、『「今」に何の意味もない』に一致することがわかります。「今」は、「無」より出ているからです。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その5

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

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著者は、1960年代から、時間変数を含まずに量子重力を記述する努力がなされてきたことを紹介しています。p118より引用します。

時間変数をまったく含まずに量子重力を記述する方程式がはじめて書かれたのは、千九百六十七年のことだった。アメリカの二人の物理学者、ブライス・ドウィットとジョン・ホイーラーが発見した。今日ホイーラー=ドウィット方程式と呼ばれている式である。

量子重力の基本式に時間が含まれていなくても、なんの不思議もない。基本的なレベルでは特別な変数は存在しない、という事実の結果でしかないのだから。

この理論は時間のなかで物事が展開する様子を記述するわけではない。物事が互いに対してどう変化するか、この世界の事柄が互いの関係においてどのように生じるかを記述する。ただそれだけのこと。

注:編集の都合、”・”で強調された原文を”下線”で代用しました。 1967年に2人の物理学者によって時間を含まずに記述されたとのことです。最初は納得していましたが、よく考えたら変です。著者たち物理学者の云うことは半分は正しいけれど、間違っています。理由は以下です。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その4

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

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数学者岡潔による「自然科学は間違っている」から得た管理人による考察と比較して検討します。著者は「時間とは何か」を考え続けます。第九章「時とは無知なり」より。

かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?

じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。

前回までに指摘したように、著者は知らないようです。

  1. 時間は計るものではなくて、時間は作るもの。
  2. 時には「現在、過去、未来」があって、時間は、人が「時の過去」に持つ観念である。時と時間を混同している。
  3. 著者は、人が「猫」を見て「猫である」と何故「わかる」のかわかっていない。

1.について、時間は作るものであって、計るものではありません。(日本標準時をつくる) 著者は、どうも観念的な時間の存在は否定しているようですが、物理量としての時間は肯定しているようです。量としての時間は「計るもの」との認識のようです。これまでの管理人による考察では、時間とは次です。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その3

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」の前半から興味深い点を読みます。

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その際、数学者岡潔の講演録から「時間」に関する発言を元に考察した結果と比較検討します。

 

(1) 前回記事に追記した「言語規範」云々についてです。該当部分をp99より再掲します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

この文章の後、世界の出来事を”ネットワーク”という言葉で説明しています。下線を付した”言語規範”をネットで調べたところ、幾つかありました。「言語規範とはなにか?」や「言語規範と言語表現」などです。

下線部分の管理人の解釈は、以下でした。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その2

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」の前半から興味深い点を読みます。

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その際、数学者岡潔の講演録から「時間」に関する発言を元に考察した結果と比較検討します。

今回は、第1部 時間の崩壊、第3章 「現在」の終わり、にある『「今」に何の意味もない』と『「現在」がない時間の構造』についてです。p46からp60までの内、幾らかを引用します。

著者は、宇宙の遠くにある惑星の「今」と、この室内にいるお姉さんとの「今」について議論しています。

お姉さんから自分の目に届く光を受けるわけだが、光が皆さんのところに届くには、たとえば数ナノ秒[一ナノ秒は一秒の十億分の一]の時間がかがる。したがってみなさんが目にしているのは、お姉さんが今行っていることではなく、数ナノ秒前に行っていたことなのだ。

わたしたちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。

では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて十分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に包まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有してるかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。

「宇宙の今」という言葉には意味がないのだ。

続いて、「現在」がない時間の構造においては、ミンコフスキーの光円錐(ライトコーン)を用いて[事象]の地平線について説明しています。その上でp59から結論を述べています。

もしも、「現在」に何の意味もないのなら、宇宙にはいったい何が「存在する」のか。「存在する」ものは、「現在」にあるのではないのか?

じつは、何らかの形態の宇宙が「今」存在していて、時間の経過とともに変化しているという見方自体が破綻しているのだ。

時間の過去と現在について、数学者岡潔は「【5】 情の特色」において次のように述べています。

情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その1

カルロ・ロヴェッリ著の「 時間は存在しない 」と「すごい物理学講義」の2冊を買いました。

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まだ読んでなくて、前半、ページをめくって気になったことを記します。

管理人が「時間とは何か」について、数学者岡潔の言葉から考えだしたのは2013年からです。最初は 2013年10月15日の記事『「時は金なりTime is money.」の本当の意味』からです。数学者岡潔の講演録から「時間」に関する発言を元に考察してきました。カルロ・ロヴェッリ(以下著者という。)の考えとの比較によって、同じところと異なるところを検討することで「時間とは何か」が明確になります。

 

まず、著書のタイトルである「時間は存在しない」についてです。アリストテレスとニュートンの時間についての考え方を比較しています。p66から。

わたしたちの知る限り、「時間とはなんぞや」という問いに最初に思いを巡らしたのは、アリストテレスだった。そしてアリストテレスは、時間とは変化を計測した数であるという結論に達した。事物は連続的に変わっていくのだから、その変化を計測した数、つまり自分たちが勘定したものが「時間」なのだ。

対して、ニュートンの考え方をプリンピキアから引用して紹介しています。p68から。 続きを読む

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なぜ 自然科学 は面白くないのか

かなり若い頃からの疑問でした。(特に物理学は面白くない。)その意味がやっとわかりました。

ここ何年か、ある程度の頻度で映画を観ます。邦画が多いのですけれども、昨日はディズニーのマレフィセント2を観ました。

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アニメも映画もとにかく、エンターテインメント全般に超能力とか魔法とかが矢鱈に多いのです。以前から気になっていたことで、何故に魔法が多いのか。これが疑問でした。  画面の切り替えが早いとか、感動を演出するためにカメラを揺らせるとかの技法が気に入らないので、なるべくそうした演出が少ないものを選んできました。そうした演出とともに劇中での”魔法”とか”超能力”を題材に使った映画もなるべく避けてきました。邦画に少ないけれども、日本のアニメ映画には多いです。「カメラを止めるな」は映画館で観たとともに、森林プライムでも観ました。

そうした映画を避けてきた理由は、3S政策にあるとされてきたからです。ですけれど、余りに”魔法や超能力”を道具に使った映画が多すぎます。それが昨日の映画を観て気付きました。それが以下です。とても簡単です。

エンターテインメントは人々の希望の延長です。その延長に魔法や超能力が多いということです。

現代文明の基礎は自然科学にあります。自然科学の根幹は錬金術です。人々が(無意識に)求めているのは、宇宙へ飛び立つことや、自由にエネルギーを扱う事などです。具体的には重力制御やフリーエネルギーです。そういった科学や技術は、自然科学にはあり得ません。ですからエンターテインメントにおいて、そういった科学や技術を自然科学の延長上に見出そうとすると、基礎にある錬金術に立ち返らざるを得ないのです。人々を楽しませるエンターテインメントに超能力とか魔法を持ってくる以外の手法がないのです。根本的には、ハリーポッターの魔法の杖もスターウォーズのフォースも同じだということです。これが西洋発祥にかかる文明の限界だということです。

人々が(無意識に)希望する未来と 自然科学 の示せるそれとの間に乖離があるのです。だから、 自然科学 は面白くないのです。重力制御やフリーエネルギーが魔法(錬金術 自然科学 )で実現できるわけありません。映画は自然科学の徒花あだばなです。楽しんでも実を結びません。

少し説明を加えると、科学の基礎としての自然科学は、古典物理学の段階に留まっています。量子力学を基にした素粒子物理学は基礎になり得ません。古典物理学の前の段階にまで遡ってやり直す必要があります。それ以外に人々の希望を指し示す方法はありません。時間が物理量ではないことの事実は重いです。時間を用いずに記述するしかありません。自然は(別の次元軸からの投影による)映像だと云うことを忘れないでください。

 

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高効率装置の時代 フリーエネルギー の前に

昨日、書店に行った際に、興味深い本を見つけました。「闇の支配者に握り潰された世界を救う技術 <現代編> ベンジャミン・フルフォード (著)」

本には、近未来に実現されるだろう、あるいはかつてあったとされるが、消されてしまった幾つかの技術が紹介されていました。常温核融合、ブラウンガス(酸水素ガス)などです。 そのような技術で例えば燃費1リッターあたり200キロメートルのスーパープリウスが実現するはずという話しです。それら装置にかかるエネルギーの変換効率は約80%というものです。

常識的にこの手の技術は10%~40%までくらいの変換効率です。80%などあり得ないとされます。この本での趣旨は、 フリーエネルギー が実現する前にこのような高効率な変換装置の時代になるだろうということです。 この件に関して、管理人の考えに近いと感じます。

しかし、物理学の発達の歴史を振り返ると進んできた方向がまったく違うことがわかります。次図は、これまでに調べた歴史の流れです。

図1

転換点は、1800年代の中頃から、マクスウェルによる電磁理論(20の変数を持つ20からなる方程式群)をベクトル表記にした過程で単極誘導の現象を矮小化したというものです。その結果、アインシュタインによる「運動物体の電気力学について」に行き着いたのではないかと考えます。

化学の発達の歴史は、原子核の発見から修正を受けていますが、そこで止まっているように感じます。

図2

よく考えてください。摩擦や化学反応、あるいは管理人が注目している単極誘導の現象において、原子レベルでの様子をイメージできますか。指で机を擦って、抵抗があることや熱を持つことはわかります。これが原子レベルでイメージできますか。絹でガラス棒を擦って摩擦電気が起きます。原子レベルでイメージできますか。管理人にはできません。 続きを読む

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ヲシテ文献 にあるヰクラムワタとヰツイロの関係について

これまで ヲシテ文献 にあるヲシテ哲学(縄文哲学)の核であるカミの仕組みについて、数学者岡潔による「2つの心」とある科学者が述べた「別の次元軸にかかる実体」などとの比較によって考察して来ました。その結果、5月頃までには精神科学の概要がわかりました。

概要を示したのが次図です。2019年5月10日の記事「物質的自然 は映像である 」を参照ください。

図1

ただし、この図では「ムワタ」の詳しいことがわかりません。人は何故に「物」がわかり、欲求が生じるのかがわかりません。そこで、 ヲシテ文献 に示される次の2つについて考察しました。

  1. ヰクラムワタ ヲ ネコエ ワケ
  2. ヰツイロノ ハニモテツクル モリノカミ 、 ミメカタチ

この2つの文は、いずれもホツマ辞典:池田満著展望社刊p226にある「ヰクラムワタヲの構成表-1」に示されています。この構成表は概要であり、それぞれの働きと組み合わせはよくわかりません。ヲシテ文献のみを参考に考察しても限界があると感じます。


ヲシテ文献 に示される哲学がまさに本当であるならば、他の資料にも同じ構成があるはずです。それと、ヲシテ文献が焚書され漢字を国の文字と定めてから千年以上の歴史があります。現代の日本語には、渡来系の文化が層状をなしています。ですから、ヲシテを直接に私たちの国語とするには無理があります。ですから、冒頭に示した岡潔の言葉やある科学者の言葉を参考に現代の言葉で精神科学を再構成すべきだと感じます。


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