カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その3

前回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」の前半から興味深い点を読みます。

写真1

その際、数学者岡潔の講演録から「時間」に関する発言を元に考察した結果と比較検討します。

 

(1) 前回記事に追記した「言語規範」云々についてです。該当部分をp99より再掲します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

この文章の後、世界の出来事を”ネットワーク”という言葉で説明しています。下線を付した”言語規範”をネットで調べたところ、幾つかありました。「言語規範とはなにか?」や「言語規範と言語表現」などです。

下線部分の管理人の解釈は、以下でした。

ここでは、量子場は(物)である素粒子群と同義とみます。素なる「物」に意味は無くて、「物と物との間にある関係性」あるいは「物と物との間に起きる出来事」に意味があると述べているようです。その解釈だと物理世界が実体で構成されていないと結論づけるしかないということです。この場合の実体とは、例えば電子がほぼ球体であるといった意味のようです。(注:「10年以上におよぶ研究の末、電子の正確な形が明らかに」が参考になります。管理人がよく使う「E軸上の実体」とは異なります。) 単独で意味のない量子場より生じる素粒子群を組み合わせて表す「相互作用や出来事」は循環(あるいはネットワーク)として意味があるという訳です。だから、「(量子場から生じた物やそれに伴う相互作用に)外側がない」と結論したようです。そして、時空を離散的な値をとるネットワークと考えたということです。これが理論物理学者である筆者の考えであるようです。「ループ量子重力理論」を参照ください。

1960年代頃より、時間変数を含まないで記述する努力がなされてきたようです。それでも残る疑問は次のようです。p118から。

「時間を説明するには?存在を説明しなくては。存在を説明するには?時間を説明しなくては。そして、時間と存在の間に潜む深い関係を明らかにすることは・・・・・、今後の世代の仕事である」

前回記事にある図3に示した「運動→時間→運動・・・・」という循環でしかありません。過去、コメントのやりとりに「時空の歪み」と「重力」との間には「どちらが原因であるか」に意味は無い?とでもいう議論があったと記憶しています。鶏と卵の関係のような循環にこそ問題があると考えてきました。それはさておき、続いて引用します。

この件については、大いに時間をかけて論じられてきた。  -略-  今ではかなり見通しがよくなったように思える。量子重力の基本式に時間が含まれていなくても、何の不思議もない。基本的なレベルでは特別な変数は存在しない、という事実の結果でしかないのだから。

この理論は、時間のなかで物事が展開する様子を記述するわけではない。物事が互いに対してどう変化するか。この世界の事柄が互いの関係においてどのように生じるかを記述する。ただそれだけのこと。

筆者は物ではなくて、物と物の関係に関心は移り、さらに物の起源である量子場のネットワークに根拠を求めています。即ち「出来事のネットワーク」を時空に求めているということです。その記述に時間を含めなくても何ら問題ではないというのです。「この世界を出来事のネットワーク、単純な出来事や複雑な出来事---それらはより単純な出来事に分解できる---が織りなすネットワークだと考えればうまくいく。」と述べています。

時間を含まず記述しても尚、「物や事は変化する」としてp97に次のように述べています。

基本方程式に「時間」という量が含まれていないからといって、この世界は凍り付いてもいないし、不動でもない。それどころかこの世界の至る所に、「父なる時間」によって順序づけられない「変化」がある。

科学の進化全体から見ると、この世界について考える際の最良の語法は、普遍性を表す語法ではなく変化を表す語法、「~である」ではなく「~になる」という語法なのだ。

ずっと続くものではなく絶えず変化するもの、つまり恒久ではないもので成り立っている。

 

時空を「時間を含まないで、離散的な値をとるネットワーク」と考えても尚、絶えず変化するもので成り立っており、言葉としては「~である」ではなくて、「~になる」という表現が適切だと述べています。

著者の述べていることをまとめます。

物の起源を量子場に求めます。量子場を「時間を含まず、離散的な値をとるネットワーク」として記述しています。その上で本質は「物(量子場)にはなくて、物と物の関係性(出来事)」にあるとわかってきます。物と物の関係性は(出来事)として絶えず変化します。それを言葉にするには、「~である」ではなくて、「~になる」とせねばならないのです。つまり、時間を含まずに離散的な値をとるネットワークとして記述するだけでは不十分であると認識しています。では時間とは何か?

随分わかりにくいですけれども、短くするとそうなります。 以下、管理人の意見です。

 

「~である」ではなくて、「~になる」という語法がよいというのは、かねてより管理人が主張している「動かざるを得ない」、「運動せざるを得ない」に等しいです。より正確には「回転運動せざるを得ない」であるし、正しくは「回る」であって「回す」ではないのです。

物理学者の寺田寅彦は随筆「物理学と感覚」において、次のように述べています。

たとえば力という観念でも非人間的傾向を徹底させる立場から言えばなんらの具体的のものではなく、ただ「物質に加速度が生じた」という事を、これに「力が働いた」という言葉で象徴的に言いかえるに過ぎないが、普通この言葉が用いられる場合には何かそこに具体的な「力」というものがあるように了解されている。これは人間としてやみ難い傾向でまたそう考えるのが便宜である。

「力」という観念は具体的なものではなくて(物理学的:数学的には)「加速度が生じた」ということであって、力は人の便宜であると述べています。ところが寺田寅彦をして「加速度がある」とだけ認識しています。つまり「回る」と「回す」をまとめて「加速度がある」としているのです。その原因はベクトル表記にあると考えます。2種類ある加速度を一つにまるめた原因がどこにあるのでしょうか。歴史を遡ると電磁気学の成立過程にあるようです。万物は関係性において、(回転)運動せざるを得ない仕組みがあるのです。

 

(2) 上記の思考過程を経て筆者は、「ループ量子重力理論」にいたるのですが、それでもなお『「今」には何の意味もない』と考えているのです。では一体、筆者を含む理論物理学者たちは「出来事の何」をわかっているのでしょうか。前回の記事でご紹介した写真についてです。

写真1

プランク時間(10-44秒:同書のp85参照)ごとに離散的な時間が経過して過去となることによって、筆者は写真1が「スプーン」であるとわかるのだといいます。『「今」に何の意味もない』というのならば、そうなります。どう考えても変です。不連続な「今」しか無いのに。「今」に何の意味もないなら、過ぎ去った過去にも意味はあり得ません。

議論の余地もありません。数学者岡潔が云ったように「心は2つある」しかありません。言葉の元となる音素に意味はありませんし、量子場並びに量子場の揺らぎにより生じる「物」としての素粒子群に意味はありません。「物と物の関係性:出来事」に意味があります。言葉が音素の組み合わせに意味を持たせるのと同じく、「物」の組み合わせに意味を持たせるのです。「物」の組み合わせの状態(出来事)である「今」に何の意味もないならば、現在と過去を併せたすべてに何の意味もありません。何も存在し得ないのです。そのような結論しか出せない物理学に意味はありません。

繰り返します。現在がわからずに現在を記憶できません。記憶できるから過去がわかるのです。現在を「わかる」のは、「わけることによりわかる」のではありません。還元主義ではわからないのです。人は、写真1を「意識を通し言葉で:これはスプーンである」と言うまえに、既にして写真1が何であるかを直じかにわかっているのです。

物理学者を含む自然科学者は、あまりに人の心の仕組みと働きに無頓着です。岡潔の云うとおり、欧米人は心が2つあることを知らないのです。「【1】 2つの心」、「【1】 人には心が二つある」を参照ください。とても厄介なことがあります。岡潔を読んだ日本人もこのことをほとんどわかっていません。数学の業績が凄いから岡潔の言葉を(わからぬまま)凄いと思っているだけです。

 

(3) 筆者は一応「時間を物理量」だと認めた上で、時間を含まずに「物と事」を記述しました。管理人は、岡潔の言葉から「時間は物理量ではない」と主張しています。

ここで、絶対的な制約があることを忘れています。物質は「人の肉体に備わった五感でわかるものでなければならない」ということです。「【 3】 五感でわかるもの」を参照ください。唯物主義には限界があるということです。その適用範囲は次表に示す赤い括弧の範囲です。

表1

観測や計測の技術が発達することによって、その範囲は広がってきました。しかし、例えば素粒子で言えば、五感でわかるのは「表示されたグラフ」です。もし素粒子が五感でわかるとしたら、おそらく”火傷”だろうと過去に書きました。単に「素粒子を体に浴びて五感でわかるのは”被爆”による火傷」だということです。

図1 出典:ヒッグス粒子の発見と今後

図1のGeVについて、正しくはGeV/cです。筆者は時間を用いずに「物と事」を記述できたとしても、あるいは岡潔が言ったとおり「時間という計量的な物は無い」のならば、図1は何を意味しているのでしょう。

これを管理人は次のように例えています。「リコーダーの音をマイクで拾って、音の強さを質量に換算しているようなもの。」

写真2 出典:https://item.rakuten.co.jp/auc-gakkiplaza/10000303/

音に質量はありません。

物質の運動にかかる一つの形態である””を計測し、時間を用いて質量に換算しているのが素粒子物理学だと考えます。図1は”波:ソリトン”の強さを計測したに過ぎないと考えています。質量とエネルギーは、別の次元軸にある一つの実体の異なる側面です。換算するのは間違いです。その橋渡しをしているのが量ではない時間です。だから、「時間を含まず量子場を記述」しても『「~である」ではなくて、「~になる」という』という根幹がわからないままなのだと考えます。

 

(4) 「(スピン?)ネットワーク(循環)=外のない内」なのですから、その記述には際限がないことに気付かねばなりません。「この世界には外側がない」と気付いたのなら遠からず孤立系の意味に気付くはずです。いずれ彼らは、真の意味で別の次元軸を考える(開放系)に気付くはずです。でも、その前に「心には2つある」と知る必要があります。岡潔が示した道のりは長いです。彼らは「計算も論理もない物理学」を目指すことができるのだろうか? 人の五感でわかるのは、その前に第2の心があるからです。素なる領域、素なる場、素なる時間、素なる粒子があるからわかるのではありません。時の現在と過去がわかるのは心の仕組みと働きによります。

 

追記 著者は(おそらく)、ニュートンが主張した「絶対的時間は存在しない」と言いつつ、かつ時間を含まない理論を打ち立てながら、なお『「~である」ではなくて、「~になる」という』という表現が正しいことを認めています。いったい著者は、時間が存在すると主張しているのか、しないと主張してるのかはっきりしません。p130で述べています。

かりにこの世界の基本的な力学において、すべての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。

まったくおかしな話しです。量は計るもの時間は作るものです。(日本標準時をつくる) 量ではない角度から作る時間は量ではありません。かりに時間が量であるならば、宇宙のどこかに存在するであろう「時間の片鱗」を計るべきです。それは樹木の年輪のようなものであり、魚鱗の年輪のようなものです。

写真3 出典:年輪のはなし

うろこを観察する写真4 出典:この魚は何歳?(年齢調査)

著者の言い方をするならば、時間は「出来事」に過ぎません。量であるならば、宇宙の何処かに始まって以来の時間を示す片鱗にあたる現象があるはずです。西暦があること自体、「時間は量ではない」証拠です。西暦は作られたのであって、計ったものではありません。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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2 Responses to カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その3

  1. takutaku のコメント:

    毎回、興味深く拝見しております。
    過去動画をyoutubeで見ていくと、あの超能力で有名なユリゲラー氏が
    矢追氏との対談で、「時間というのは存在しないのではないか」ということ
    言っておられます。
    仮想現実宇宙論というのがあるように、昨今ですと「時間は存在しない」
    という方向へ進んでいるのではないかと、当方は思っております。

    • Φ のコメント:

      p118に「時間変数を含まずに量子重力をはじめて記述されたのは1967年」だそうです。光速度不変を受け入れて110年余り、とんでもない方向へ行ってしまいました。私が「時間は存在しない」と初めて読んだのは確かG・アダムスキー関連の本でした。当時はそんな考えもあるのか程度でしたけれど、岡潔は昭和40年代頃に「時間は人の観念。量でもない。」と指摘していたのですから凄いです。その点、筆者は観念という言葉は用いていないですが、観念としての時間は否定しています。それでも時間を物理量だとの否定はしていないようです。時間を含まずに記述できても、変化し続けることの意味が理解できないようです。
      筆者を含む西洋人は(認識:岡潔的には「意識を通し言葉で言える」知と意の領域)は「現在」を含まないことに気付かないのです。これが最大の欠点です。だから、「今」に何の意味もないという珍妙な答えになるのです。本当は、物理学は決定論になり得ないと得るはずです。
      私も情報が「過去」であることに気付いたのは最近です。「現在」がわかるのは岡潔の云う第2の心(情)、ヲシテ文献で言うところのタマしかありません。肝心なのは、「第2の心:タマ」が「わかる」のは「物と事」なのですが、事には「具体と抽象」があって、複雑に過ぎる「事」は第2の心でわからないのです。これはとても大事です。何故なら現代は加速度的に抽象へ向かっているからです。複雑化高度化が人類の進化だと信じて疑いません。これは破滅への道です。岡潔が危惧した「間違った思想」とはこのことです。高偏差値、高得点、高学歴、競争の激化のいずれも破滅への近道です。処理系に過ぎない脳は、複雑すぎる方向へ持っていってはいけないはずです。そうして処理系と第2の心との乖離から心が病むのです。岡潔自身も最晩年に嵌ったことです。今や物や事の原因どころか心の仕組みと働きも別の次元軸に求める以外に方法はないと確信します。
      科学と心の関係に気付けねば科学を続けることは到底不可能だとわかってきました。それは心理学でも脳科学でもありません。岡潔によれば「(自然科学について)かようなものは学問とはいえません。単なる思想です。」とのことです。別の次元軸に原因のすべてを求めて、理解すれば「開放系」の恩恵が受けられます。フリーエネルギーと重力制御です。その前に、しっかり心の仕組みと働きに気(キ)付いて、わかる必要があります。
      ttp://irobutsu.a.la9.jp/movingtext/FieldforB/index.html#/ 参考に。

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