カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その1

カルロ・ロヴェッリ著の「 時間は存在しない 」と「すごい物理学講義」の2冊を買いました。

写真1

まだ読んでなくて、前半、ページをめくって気になったことを記します。

管理人が「時間とは何か」について、数学者岡潔の言葉から考えだしたのは2013年からです。最初は 2013年10月15日の記事『「時は金なりTime is money.」の本当の意味』からです。数学者岡潔の講演録から「時間」に関する発言を元に考察してきました。カルロ・ロヴェッリ(以下著者という。)の考えとの比較によって、同じところと異なるところを検討することで「時間とは何か」が明確になります。

 

まず、著書のタイトルである「時間は存在しない」についてです。アリストテレスとニュートンの時間についての考え方を比較しています。p66から。

わたしたちの知る限り、「時間とはなんぞや」という問いに最初に思いを巡らしたのは、アリストテレスだった。そしてアリストテレスは、時間とは変化を計測した数であるという結論に達した。事物は連続的に変わっていくのだから、その変化を計測した数、つまり自分たちが勘定したものが「時間」なのだ。

対して、ニュートンの考え方をプリンピキアから引用して紹介しています。p68から。

絶対的な時間と相対的な時間、真の時間と見かけの時間、数学的な時間と日常的な時間を区別した方がよい。

2つの引用から次のように述べています。

要するにニュートンは、日にちや動きを計測した値である「時間」、アリストテレスの論じた(見かけの、相対的な、日常の)時間が存在することを認めている。そのうえで、同時にもう一つ別の時間、どんな場合にも経過する「本物の」時間、事物そのものや事物が生じるかどうかとはまったく無関係な時間が存在するはずだと主張する。そして、かりに何の動きもなく、わたしたちの魂が凍り付いたとしても、この時間はいっさい影響を受けることなく平然と流れる、というのだ。まさに、アリストテレスとは正反対の主張である。

p69から。

時間はアリストテレスのいうような、事物の変化の様子を測る方法の一つでしかないのか、それともニュートンのいうような、事物とは独立にそれ自身として流れる絶対的時間が存在すると考えるべきなのか。ほんとうは、「時間を巡るこの二つの考え方のうちで、その世界をよりよく理解するのに役立つ考え方はどちらなのか」と問うべきなのだろう。

下線は管理人による。長々と考察していますが、著者はどうもニュートンが主張した「絶対的時間は存在しない」という結論をもって著書のタイトルにしたようです。

 

この件に関して、数学者岡潔は「【 2】 自然科学者の時間空間」にて次のように述べています。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

下線の部分がニュートンの主張した「絶対的時間」です。そういう絶対的時間というものを岡潔は否定しています。この点において、著者は岡潔と同じ考えであると言えます。「【 2】 自然科学者の時間空間」より。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

岡潔は、「時間とは人が持つ観念だ」としました。国語辞書によると「観念」とは、「事物について抱く考えや意識」とあります。岡潔は「物質とは何か」について、「【 3】 五感でわかるもの」にて説明しています。(注:ここで岡潔は唯物主義を強く批判しています。) この「五感でわかる」という前提を入れて、岡潔の上記を参考に「時間とは何か」を書き下すと以下になります。

時間とは、人が五感でわかる物質の運動に抱く意識である。

人が抱く観念に過ぎない時間、絶対的時間を否定しているわけです。それに運動を記憶しておかねば時間の観念を持ち得ません。大事なことです。2018年6月10日の記事『時間 は存在しない 言語に時制を持たないピダハン族も「時」の中に住む』が参考になります。この頃はまだ時間と記憶の関係に気付いていませんでした。ピダハン族も記憶の働きが十分ではないかも知れません。 著者は長々と書いていますけれども、岡潔は「時間は観念だ」と一言で言い表しています。

因みに岡潔は、天才故に結論のみを述べてその思考過程を端折る傾向があります。読者自ら考察して補完して読む必要があります。ざっと読んでわかったつもりでいるのはいただけません。管理人は凡人故に岡潔の「時間」の部分だけを3年ほどかけて考えてきました。

 


ところで「 時間は存在しない 」の中でアインシュタインの名が頻出します。著者は、ニュートンが主張した絶対的時間の存在を否定していますが、アインシュタインの相対性理論は否定していません。つまり、アリストテレスが出した「時間とは変化を計測した数である」いう結論は肯定しており、『時間とは自分たちが勘定したものが「時間」なのだ』としています。著者は時間とは数だということを認めています。その代わり、一般相対性理論により時間は減速し、量子力学により時間は不連続だと述べています。管理人はこの考えに賛成しません。

岡潔は、上記で「(自然科学者は)運動は時間に比例して起こると決めてかかって」と述べています。物質の運動と時間の関係についての議論は複雑(鶏と卵の関係)に見えます。まず、議論を相対性理論だけに限ります。杉岡氏による「相対論物理学者に捧ぐ その4 特殊相対性理論への重大疑惑」が参考になります。杉岡氏の主張は以下です。

時間空間の歪みの根拠として光速度不変の原理があります。空間が何に対して歪んでいるのかということです。その基準に光速度を持ち出したということです。杉岡氏によれば、相対性理論の原著でアインシュタインは、「光速度を時間に置き換えている」とのことです。光速度が不変であることを示すには、その前に時間がわかっていなければなりません。その時間は物質の運動から作ります。しかし、その運動は相対性理論により変化するというのですから循環です。これを岡潔の述べたことともに図示します。

図1

相対性理論は、「運動→時間→光速度→時間・空間→運動→・・・」という循環です。量子力学も時間を元に記述されています。  (光速度不変の原理を盛り込んだ)相対性理論によれば、時間も空間も歪むということになります。

では、著書に書いてある「時間の減速」とは何かということです。これまでの考察によれば、別の次元軸が原因ではないかと考えます。

写真2

よく科学番組で、空間を風船に例えることがあります。その際に何に対して(二次元)空間が歪むのかというと光速度に対してということです。写真2で云えばA-B間は、モノサシに対して伸縮しません。曲尺(光速度)に対して歪むとされるのです。しかし、前述の通り光速度不変はありません。で、その歪みは風船の表面に対して直交した(別の次元軸)方向に歪むのではないかと考えます。「時間の減速」も「重力レンズ」も「宇宙が加速度的に膨張する」のも別の次元軸に原因があると考えると合理的です。「光速度不変の原理」に関する歴史的経緯は「七つの科学事件ファイル―科学論争の顛末」に詳しいです。この経緯を見ても相対性理論は、一筋縄で行かないことがわかります。サイト内を「七つの科学事件ファイル」で検索してください。

 

もう一点。著書には、「アリストテレスは、時間とは変化を計測した数であるという結論に達した」とあります。この数が問題です。 この時間である数は量ではありません。つまり時間は物理量ではありません。

地球の自転(一日の長さ)と公転(一年の長さ)がほぼ一定だということから時間の観念が生じたようです。しかし、技術が発達するにつれて、この長さも一定ではないことがわかり、より正確なセシウム原子時計にいたりました。

でも、最初は太陽に対する地球の運動にかかる光の影の角度から時間を作りました

図2

角度は量ではありません。だから時間は量ではありません。セシウム原子時計の時代になっても時間は10進数による12の倍数です。時間を角度から作ったなごりです。

岡潔は「(自然科学者は)運動は時間に比例して起こると決めてかかって」いると述べました。量と角度は比例する場合と比例しない場合があります。

写真3

丸いケーキについて「大きさ、重さ」を正確に分けるには、角度によって切り分けることができます。しかし、厚さの方向に切り分けることもできます。「(物質の)運動は、角度から作った時間に比例して起こる」例外があり得ます。角度は量ではないからです。

 

自然科学は循環であり、かつ量ではない時間を用いているので間違っています。自然科学は理論と実験に整合性があります。しかし、100%ではありません。それは何故かという点が残ります。間違っているのにほぼ正しい? 時間になればバスも電車も来ます。加速器の実験で得た質量と理論値は近いようです。なのに間違っている?(サイト内を「ソリトン」で検索ください。)

自然科学は、万華鏡の観た目の模様の動きを理論化したのに似ています。99.99%模様の動きを予測できるのです。でも間違っています。

図3 A、Bの出現と動きを理論化してA’A’’やB’B’’を予測する理論は構築可能

仕組みを知っているか。知らないか。それだけの違いです。岡潔は「【 5】 自然科学の無知」にて、次のように述べています。

それじゃあ物質現象なら可成りわかるのか。で、聞いてみましょう。

物質は諸法則を常に守って決して背かない。何故か。

これに対しても自然科学は一言も答えられない。だから物質現象のほんの一部分、非常に浅い部分だけしかわからんのです。

で、それでも人類の福祉に役立ってはいます。たとえば医学は自然科学です。可成り人類の福祉に役立ってはいます。しかしながら、医学の人類の福祉に役立つ役立ち方は、何が何だかわからんままに役立っています

何が何だかわからないまま福祉の役に立っているのは、根本的に間違っているからです。もし新しい解釈や理論が出てきて、どこか見覚えがあるような気がしたなら、それはかつての繰り返しだろうと考えます。2017年9月9日「電磁誘導と ローレンツ力 はなぜ同じ起電力を与えるか~ とね日記よりメモ」 の記事があります。問題が本質的に解決していないと感じるのは管理人だけでしょうか。


 

「 時間は存在しない 」の本の出だしを否定することを書きましたけれども、この本には、このほか幾つかの興味深い点がありますので、別の記事に書こうと思います。

 

それと、自然科学は循環ですから、理論は複雑化するとともに繰り返しの(焼き直し)ループになるはずです。即ち、新理論はより複雑で新しいように見受けられるけれども、どこか以前の焼き直しのようになります。複雑化の方向は抽象化です。岡潔は、「数は量のかげ」と云いました。しかし、時間は量ではないので、自然科学にかかる如何なる理論も複雑化とともに抽象化の方向にあるはずです。

図3 追記 この図に「プロパガンダ」を入れる必要があることに気付きました。

説明すればするほど、泥沼に嵌っていきます。やがて進歩は止まります。これまで述べたように、数学を含む言葉は互いに規定しあって成り立つ循環です。人は言葉で思考しわかろうとします。だから、人の(わかる:理解あるいは物の理ことわり)も循環です。これが岡潔の云った第1の心です。第1の心の仕組みと働きは循環にあります。タマネギの皮をむくようなものです。行き着く先に終わりはなく、答えもありません。わかろうと悪戦苦闘し複雑化する内に意味は霧散します。本当に(わかる)のは第2の心のみです。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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