宗教 間の対立は無意味 

まずは、前回の記事をお読みください。

岡潔が名付けた第2の心の出処について、「確かに在るが、それは何かは決してわからない。」ということでした。くどいようですが、論理的帰結として確かに在るけれども、論理の帰結として決してわからないのです。

言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークです。言葉の元である音素に意味はありません。言葉は形式です。意味を持たない音素を組み合わせることにより出来上がっているから世界中に言葉があふれているのです。

如何なる 宗教 もある部分は正しいのでしょうが、たとえ、その 宗教 がすべてと思われても他にも在るのです。何故ならば、人の考えること(第1の心による教理経典)は、言葉によるからです。これが外のない内である第1の心の限界です。唯一無二の宗教、あるいは主義主張は単なる思い違いです。あるいは思い上がりなのかもしれません。

以上が言葉の数ほど宗教が存在する理由です。詰まる所、人は自ら信じたいものを信じているにすぎません。ということで、世の思想信条、 宗教 あるいは政治的対立は、シヰに基づいていると言えます。タマシヰのシヰは、欲しい欲しいのシヰで、強いるのシヰです。生命維持の欲求です。

ローマ教皇が「世界の宗教を統合しよう」と話して、統一の象徴を”クリスラム”という言葉で言い表しました。このような無責任な話はないです。

実に無責任です。仮に宗教の指導者たちに合意ができたとしても、何の合理性も理念もないところの統一などうまく行く訳がありません。

今回、気づいたのは、2つの心の仕組みと働きからいって、宗教や主義主張の張り合いに意味がないということです。宗教の対立は無意味です。

岡潔の言葉をまねれば、如何なる宗教もすべてを覆っていますけれども、そこから決して出ていません。教理経典を詳しくすればするほどに、教理経典は権威を増しますけれども、それらは抽象(繰り返し)になっていきます。唯識がよい例です。経典の解釈での対立を神学論争と言います。

関連する記事です。

 

宗教間の対立、あるいは国家間の対立は無意味です。むしろ、心の限界を認めて決してわからない何がが在るとしながら違いを認めるのが合理的であると考えます。教理経典や戒律などに重きを置くのは迷宮(抽象)への入り口(2つの心の乖離)だと感じます。

人類発展の切り札は、岡潔が言った”創造”にあります。決してわからない何かから”気(キ)づかされる”ことによる発見です。仏教で言うところの他力です。

理系の人には、次が参考になりそうです。

2022年5月13日 有限と無限  第1の心 の限界(外のない内)

最後に本記事の内容は、弧理論による社会科学の基礎にあたります。 感想です。早く物質科学へ取り掛かりたいと希望して2年以上経ちました。しかし、いまだに2つの心の仕組みと働きについて考え続けていると、本記事のように弧理論による社会科学の基本的なことに行き着きます。驚きです。

自然がE軸からの投影による映像(M軸)だとすると、主義主張のぶつかり合いは無意味だと結論できます。二項対立はまやかしです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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