時刻は位置であり量ではない 例えば3分間は、距離(長さ)であって時間そのものではない

時間についての考察は、凡人である管理人にとって長い期間を要するものでした。 考察の出発点である数学者岡潔の言葉は、以下の通りです。 「自然科学は間違っている」から【2】自然科学者の時間空間より一部を引用します。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

下線は管理人による。

これまでの結論として

  1. 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である。
  2. 時間とは、位置であって量ではない。
  3. 運動は時間に比例して起きるかどうかわからない。

というものでした。時計(という機械装置)の運動を

図1

のように直線に直して考えたりしました。過去記事を参照ください。

 

江戸時代には、時間を知る為に線香時計

写真1 出典:線香時計

写真2 出典:野沢偶感

が用いられました。  そこで実際にやってみました。

写真3

線香のAからBの5cmを目安にして

写真4

火を付けて燃やします。

写真5

図1と写真5を比較して分かることは、「時刻はA点やB点と同じであって、時刻は単なる位置であって量ではない」ということです。

このとき側に

写真6

タイマーを置いておいたのですが、おおよそ17分43秒を示していました。

例えば17分43秒は距離(長さ)という量ではあっても時間ではありません。 側に置いたタイマーの大本の基準は、NICT(日本標準時グループ)によって作られているはずです。(写真のタイマーはクオーツ時計内蔵です。)  上記写真の場合は、線香の燃える速さにばらつきが少ないことから用いられています。   それが水の流れであろうと、アナログ時計のテンプであろうと、デジタル時計の水晶やセシウム原子の振動であろうと同じです。 精度の問題ではありません。

時間は直接わかるものではない。何時も運動を使う。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っている。

位置位置があって、その隔たりが距離(長さ)です。 その距離の間に物体あるいは物質の(振動なり燃焼なりの)運動があります。 あるのは、物質と位置と運動だけです。 時計という機械装置の運動の速さが「時間という人が持つ観念」に比例して起きると勝手に決めてかかって、時間というものはわかると思っているだけです。  時刻は位置であり量ではありません。 例えば3分間は、距離(長さ)であって時間そのものではありません。 長さでは不便ですが、アナログ時計は天体の見かけの回転角度を真似たものと考えられます。

時間という言葉は曖昧です。人は、「時刻」と「2つの時刻の間」の両方をまとめて時間と呼んでいるように思います。 でも、実際に在るのは質量と位置と運動だけです。

図2

運動が時間に比例して起きるかどうかわかりませんし、そういう過ぎ去った時間を時の現在と未来に適用できるかどうかわかりません。 ですから時間tを用いた理論は本質的に決定論になり得ません。

 

ここから弧理論の考え方です。 余分な次元軸であるE軸上にある実体が

E軸上の実体が原因。物体は結果。

図3

M軸に投影されることにより、質量位置が決まります。観測者に対して運動する物体の

図4

投影角は90度以外になります。 投影角が浅くなる(速度が増す)ほどに観測者に対して質量は次元を失います。 投影角がゼロ(光の速度)になるとき、観測者は質量を決めることはできなくなります。

観測者が持つ感覚(五感)で分かるのは、質量位置(※並びに波により遠隔で引き起こされる運動)だけです。  位置と位置の変化は運動です。  観測者に対して運動する被測定物の速度が増すことによって、質量としての次元を消失します。(五感で分からなくなる)

表1

つまり、観測者にとって、「光の速度あるいは、それに近い速度にある被測定物、例えば素粒子」に時間の意味はなくなります。

時間は、元々表1の赤い括弧の範囲に於いて作られたものです。そういう時間を光の速さに近い被測定物に当てはめることはできないというのが弧理論の考え方から見た結論です。  例え素粒子にかかる実験と、理論と得られた結果が合致しても表1の左側に行くにつれて人の感覚では分からなくなりますし、時間は意味を失います。 表1の右側も同様です。

時間は表1の赤い括弧の範囲内において作られた距離(長さ)です。この距離を時間に置き換えたのですから、表1の両端は人の大きさ(10m)から見て距離が意味を成さなくなるのと同じ意味にもとれます。

素粒子の質量GeV/cもエネルギー[ML2T-2]も天文学に用いる距離の単位である光年のいずれもが時間tを用いていますので、表1の両端において物理学・天文学はどれほどの意味があるのでしょう。 岡潔は「【3】五感でわかるもの」において、唯物主義者に対して原始人的無知と述べています。 数学の専門家であるが故に自然科学者の専門家、特に物理学にかかる時間について、ある程度までにしか踏み込まなかったのかと思います。ほんとうに身も蓋もなくなります。

 

スピリチュアル系のサイト aisha north にある資料「the-manuscript-of-survival-part-61-70pdf」のpar68について日本語の翻訳文によれば、(the-manuscript-of-survival-part-68日本語文) 素粒子加速器によるヒッグス粒子の実験について、「非常に多くの賢い頭脳を間違った方向に向けさせている、上手に組み立てた誤魔化しのプロェクト」とこき下ろしています。 この記事を読んだのが多分2012年中頃だったと記憶しています。 それ以来、どこに誤魔化しがあるのか探してきました。 管理人は、本記事にて漸く納得できました。

因みに「波」

図5

そのものを人の感覚で捉えることはできません。波長によって感覚器が色の違いとして認識できるだけです。 電磁(波)はフィラメント内の電子の(運動)を離れた場所にある視神経を構成する感覚器内にある電子に(運動)として伝えます。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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