数学者岡潔 「(自然科学者は)既に原始人的無知です。」

拙ブログをはじめた当初は、紡錘図形と足跡の解析結果(以下、弧理論といいます。)を説明することと、実験で確かめることを目的にやってきましたけれど、弧理論の基礎が自然科学とは異なるアプローチであることをご理解いただく必要があることに気付いたのは、数学者岡潔の講演録からでした。

管理人であるΦが、「自然科学はダメであり、弧理論にとってかえるべき」と記しても説得力がないと気付いたのは、岡潔の言葉が切っ掛けでした。  そこで、岡潔が述べた講演により「自然科学の限界について」記そうと思います。当方の認識不足あるいは誤解が含まれるかも知れませんので、予めご了解ください。

数学者岡潔は、講演で「自然科学は間違っている」と述べました。特に参考にしているのは、「自然科学者の時間空間」と「五感でわかるもの」です。  ここでは、岡潔が「(物理現象が)五感でわかるものでなければいけない」と述べたことについて、管理人の解釈を記します。

講演録より「五感でわかるもの」を引用します。

物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。


  1.  物質は、天体望遠鏡や顕微鏡を使って工夫してもよいけれど、最後は五感「見る、聴く、触る、味わう、臭う」ことでわかるものでなければならない。
  2.  自然科学者は、工夫しても五感でわからないものないと思っている。
  3.  自然科学者は、「ない」と断言しているのではなくて、「ない」としか思えない。 (自然科学者は、「五感でわかるもの」以外について、「ある」とも「ない」とも想定すらしない。)
  4.  だから、自然科学者は、2.において3.のとおり、検討すらしない
  5.  自然科学者が3.と4.から2.「五感でわからないものはない」というのは、既に原始人的無知である
  6. 自然科学者は、2.において自らが無意識のうちに仮定していることにさえ気付かない

自然科学者が研究している宇宙の超巨大構造素粒子の極微細構造について、管理人は「結構ナイーブな話」だという言い方をした上で、人の知とは、基本的に「無知の知」で有るべきと記しています。 それに対して岡潔は、自然科学者は、酷い無知だとストレートに述べています。

では、「わかる」とは何でしょう。

  • 「わかる」とは、理解する納得すること。
  • 「わかる」の語源は、「わける」である。
  • 「わける」とは「分ける」、分類する、分解して仕分け、整理することである。

つまり、ある物事(この場合は、物質あるいは物理現象)を分解し仕分けて、整理・分類することにより、「わかる」、つまり理解するということです。

自然科学者は、この「わかる」を評価します。 それが精度であり、分解能であり、統計的に有意であるかどうかです。その判定の結果が「わかる」の評価になります。 具体的には、天体望遠鏡や素粒子加速器の分解能・精度やその後の統計処理を経て得られた結果が「有意」であるかどうかの判定にかけられます。 結果は、写真やグラフにまとめられます。

岡潔が述べたのは、精度や分解能あるいは統計処理の優劣をいったのではないことは明らかです。写真やグラフは目で見てわかります。 しかし、自然科学者は、「わける」ことで「わかる」と思い込んでいます。問題は2点あると考えます。

(1) 分解能・精度をあげることでどこまでも「わかる」と考えていること。

(2) 「五感でわからない」ものに思いを持てないこと。

管理人が考えることは次の通りです。

(1)について、例えば「ヒッグス粒子」の研究で得られたのは

clip_img172グラフ1 (125GeV付近にピークが見られる。)

です。グラフは見てわかります。しかし、ヒッグス粒子は、「五感でわかる」ものでしょうか。管理人は、岡潔の言う「五感でわかるもの」に該当しないと考えます。少なくとも実生活にはほぼ関係しません。何故なら、ヒッグス粒子を五感でわかる人はいないからです。

そのような素粒子が存在しないとしているのではありません。そのような理論と理論に相当する素粒子は存在するでしょうけれど、「五感を持つ肉体により生活する人にとって(そのような素粒子)は無意味」であると考えます。  言い換えると自然科学者が得た研究結果は、研究手法としては「わけた」のであって、その結果「わかった」のでしょうけれど、本当の理解には遠いのではないかということです。 これ以上のお金を使うことは許されないのに、「わける」ことで「わかる」と考えていることの限界を感じます。

五感でわかるスケール表1

による数直線の極大(右端)と極小(左端)は、人の「五感ではわからない」、行き止まりだと感じます。

 

(2)について、管理人にとって2つの意味があります。

1. もしかして「五感でわからないもの」が「ある」かもしれないこと

2. 「五感でわからないもの」から、「五感でわかるもの」が現れてきているかもしれないこと。

自然科学者が1.ということの思いを持つことができないし、想像もできないことについて、岡潔は「原始人的無知」だと述べたのですから、岡潔は辛辣です。

2つめとして、管理人は「見る、聴く、触る、味わう、臭う」ことが一切できない「あること」から「3次元の物理現象」が生じているのではないかという発想を持っています。 その仮説が弧理論です。

仮説の「ある」こととは、これまで解説してきた「エネルギー軸上の実体」です。(注:この場合のエネルギーは時間[T]を含みません。)

 

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ヨハネの福音書14章2節にあるイエスの言葉「住まいがたくさんある」は、比喩ではないようだ

5年あまり弧理論(Ark Theory)の考え方をもって研究を進めてきました。その結果、過去記事に

(1) 聖書の言葉「初めに言葉ありき」は弧理論の「E軸上の実体は全情報を持っている」に等しい

(2) 弧理論の考え方は旧約聖書の「ある」に近い

と書きました。 管理人には、弧理論の研究をはじめた当初から弧理論(旧弧電磁気論)は、聖書の一部の記述に「等しい」もしくは「近い」内容を含んでおり、聖書自体に科学的内容を含んでいるのではないかと感じてきました。

同時に、弧理論についての解説で

「軌道電子に働く力」と「単極誘導に生じる力の違い」

自由電子のモデルと宇宙の構造

と書いた際に、西遊記にある「お釈迦様と孫悟空の寓話」を例えに記しました。

弧理論の考え方の基本形は

20140421静止図1

のとおりです。  3次元物理空間(M軸)に直交する別の次元軸であるE軸上にある実体が持つ真のエネルギー値E2 (注:自然科学でいうエネルギーと異なり時間を含まない。)が「積分を伴う回転投影」によって位置と質量mを持つ物体として現れます。(注:「積分を伴う回転投影」については、右リンク「第3起電力のエネルギー源についての考察」を参照ください。)

投影の角度が90度の時、「ある観測者に対して物体が静止している」ことを表し、

20140421運動の状態図2

「ある観測者に対して物体が運動している」とき投影角θをもっていることになります。このときE軸上の実体が持つ真のエネルギー値は、E2-E’減少します。減少分のエネルギーがM軸上の物体の運動になります。(注:運動も時間[T]を含まない。)

この図1、図2によりM軸に投影された物体は、弧理論による基本粒子である陽子・中性子・電子を指します

なお、弧理論では、投影角θが90度である基本粒子、つまり静止で安定なのは3種類のみです。その他の「素なる粒子」は不安定な粒子群に過ぎません。弧理論では、E軸上の実体は、全部で6種類ありますので、基本粒子を含む全ての粒子は、6種類に分類されます。但し、E軸上の6種の実体は、直接に観測することはできないと考えられます。

 

弧理論による考え方によれば、我々が宇宙の外に出るという考えは無意味です。 図1、図2によれば、投影された物質(陽子・中性子・電子)でてきた我々自身がどんなに遠くへ行っても、そこは「積分を伴う回転投影」によりできた宇宙だからです。我々にとって宇宙は無限大だということです。 弧理論によれば投影によって「質量と位置」が決まることが 宇宙の定義なのです。

saiyukite1図3

のようにお釈迦様の掌と孫悟空の両方を見渡せる位置に我々が立つことは不可能です。

ここから本題です。

新約聖書のヨハネによる福音書14章2節にはイエスの言葉として

  •  「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」

と記されています。 宗教として解釈される場合において、「天の国」と「父の家」は同一とされるようです。

過去記事(1)及び(2)に示したように、宇宙は偶然の産物などではなく、宇宙が「いつから存在し、いつまで存在し続け、いつ終わる」という意味も含まず、かつ、宇宙が「どこか特定できない大きさ」であることを考察しますと、イエスの言葉は、宗教的な比喩ではなくて、「天、即ち宇宙は、人が住むことを当然のことと」して述べられているように思えます。

重ねますと、イエスの上記の言葉は、誰もが死して天国に行けるというような抽象的・比喩的、あるいは宗教的な意味ではなく、宇宙には人が住める所が多くあると直接的に述べているようです。

注意すべきは、イエス自身について宗教的に解釈するならばグノーシス主義に陥る可能性が高まるという自覚が必要だということです。直接的に言えば、イエスを諍いのネタに使うとはもってのほかなのです。

mottenohokaP46写真1 もってのほか

 

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進歩とは「自明と思い込んでいる簡単なことに気付くこと」

あるアイディアに基づく実験を行うには、一週間もあれば実行できるのに、随分先延ばしにしてきました。 その間、弧理論にかかる周辺についての考察を進めてきました。実験は、結果が一瞬で判明します。ほとんどの場合、失望する結果になりますので実験は嫌いです。 その点、今年はじめに連続で行った実験は、単極誘導モーターの反作用をどの部分が受けているかを確かめるためのものでしたので気軽に行えました。

ドキュメンタリー番組の冒頭で、「より速く、高度に複雑化する現代社会」と言われることがままあります。しかし、これまでの考察の結果、「速く高度に複雑化」することが必ずしも進歩に比例しないことがわかってきました。

(あ) 詩人、絵本作家である谷川俊太郎は、1931年の生まれですから、現在80歳代です。彼は、大人でありながら子どもの感性を持ち続けています。子どもの感性を持ち続けることは希有なことです。

(い) 私たちは小学生低学年で「アナログ時計」の読み方を学習します。「時計の動きを読むことは、即時間を知ること」だと学ぶわけです。

(う) 数学者岡潔は、自然科学者について「運動は時間に比例して起きると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかった、時間というものはわかると思っている。」と述べました。

私たちは、時間というものは、(い)の様に、当然のこと、自明のこととまったく疑わずに生活しています。ところが岡潔は(う)として、運動と時間の間に必ずしも比例関係があるとは限らないと述べました。それどころか、時間というものが存在するかどうかを疑わせる発言をしています。

岡潔自身も小学生の頃に(い)の教育を受けたはずです。にもかかわらず、自明と思われている時間について切り込むことが出来たのは何故なのでしょうか。それは(あ)の谷川俊太郎のような感性を持ち続けていたからできたことなのでしょうか。それとも、彼の”数学の才能”、圧倒的な思考力により突破できたのでしょうか。管理人には、どのどちらなのかわかりません。

いずれにせよ、私たちが「自然科学=宇宙の姿」だと漠然と納得してきたことが、実は「絵を描く時、初めに画用紙があるようなもの」でしかなかったということです。その欠陥が「時間」にあることを岡潔は指摘したのです。

考えて見ますれば、我々にとって天動説は当たり前です。しかし、「陽は東から昇り、西へ沈む」生理的日常と「地球は太陽を周回している」という論理的帰結「互いに相容れない」ものであるにもかかわらず、頭の中に並記していることは、実のところ奇妙なことです。 つまり、天体観測の事実を説明するには太陽が中心で、地球他の惑星が周回しているとしなければ説明がつかないから、生理的に絶対正しい「東から西への太陽の動き」とは、別に「天動説」を並記しているに過ぎないのです。大事なことは、「東から昇り西に沈む」と「太陽が中心」は、どちらも正しいのです。

ですから、恐らく、岡潔の言う「運動は時間に比例して起きるとは限らない」と「時計の動きは、即時間を知ること」は、どちらも正しいのではないかということです。 今はまだ、「運動が時間に比例しない」 事例は見つかっていませんけれど、そういう実験的事実が見つかるかも知れません。あるいは将来、「時間」という概念を使わずに組立物理量を表せるときがくるかも知れません。 そのときには、「日常生理的な時間」と「理論的な説明(天動説にあたる理論)」を頭の中に並記する時が来るようにも思います。

詰まるところ、時間を高密度に消化(細分化)し、高度に複雑化することが進歩ではないようです。本当の意味での進歩とは、私たちが自明のことと深層に飲み込んでいたことが実は、より簡単な構成により出来ていたのだと気付くことのように思います

上記のことについて、両替屋(金融資本家)は、随分前から気付いているはずです。 自然科学者が「運動を時間に置き換え」、両替屋は「時間をお金:通貨に置き換え」たのですから、我々から「時間が奪われ」あげく「お金が奪われ」るのは、彼らの狙い通りなのです。 ですから

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動画1 エンデの遺言

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動画2 続エンデの遺言

に紹介されている様に、「減価する地域通貨」や「負債から生じる利子」を取らないことは本質に近いことながら、運動(仕事)からお金:通貨を切り離すには、「時間」の本質に気付くことが大事なのだといえそうです。

もう一つ大事なことがあります。 どうも人は、「抽象化」こそ崇高な学問の方策の様に思われていますけれど、当方には最善ではないように思えます。 うまく書けるかどうか、次に試みます。

(え) 「時間」は、3次元物理空間を等しく分ける行為から来ています。ですから時間は、12の倍数で表されます。 一方、数学の基礎は手指の数である10進法により作られています。  コンピュータが使われて久しいため2進も8進も16進も10進法と同様、「使い勝手」が良ければ、何を使ってもよくて、要は「精度の問題」だと考えられています。

しかし、(う)に示した岡潔は、自然科学の根幹の位置を占める「時間」が問題だと述べました。 岡潔は述べていませんけれど、「運動は時間から求め、時間は運動から求めている」ことは、疑いのないことです。  人はこれまで(運動/時間)の比を決定したことはありません。 実際はこの比を決定することは不可能なのですが、問題は、「宇宙は事実上の無限大である」ことです。 極微の世界あるいは極大の現実世界において、「(運動/時間)比の精度を無限に求められる」ということです。

数学上の概念としての「∞」ではなくて、3次元物理空間での「精度を無限の桁数求められる」ということです。物理学において発散(無限大)が大きな困難であることは知られたことです。

時間:12の倍数 、 角度:12の倍数 、 数学(算数)&物理:10進法 、 お金(通貨):10進法

問題の本質は、恐らく(進数)の不整合にあると考えられます。 この勢力関係は、両替屋にとって最も触れられたくない話題だと気付きます。 つまり、物理学がどこまでも「割り切れない」ジレンマを抱え続けることを両替屋は、望んでいるということです。 物事の本質は簡単だろうということです。

ついでに言えば、「時間お金:通貨」は実体のない数学的な概念に過ぎません。けれどこの二つは、我々の実生活を振り回しています。(これが最大の問題だと誰もが知っていることです。) 抽象化を受け入れる方が「頭がよい」と思われるのですから、実生活くらい犠牲にできるでしょ。デリバティブで大損こいても。

この10進数 対 12進数 の対決は、12進数の勝利だと予想します。 3次元物理空間を等しく分けるには12の倍数である方がよいのですから。 彼らもさすがに時間を10の倍数にできないでしょう。

以上をテーマにした過去記事が複数ありますので、興味をお持ちの方は、検索の上ご一読いただけるとありがたいです。 なお、過去記事について、少しずつ記述が変化している場合がありますが、基本的に新しい記事の内容を優先します。 関連する検索キーワード「時間、ミヒャエル・エンデ、モモ、通貨、両替屋、金融資本家、岡潔、闘牛士、エリートキツネ、素数、ゼータ関数」

 

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科学者は運動を時間に置き換えた。両替屋(金融資本家)は時間をお金に置き換えた。そして庶民はお金を巻き上げられ続ける。

これまでに何度も記してきたことで、漸く時間の何が問題なのかわかってきました。改めて、問題点をメモします。

自然科学者は、「運動」を「時間」に置き換えました。一見便利だからです。時計の針が動いているとき文字盤上の針の位置を読んで頭の中に時間として数値化します。 時計に時間が直接「ある」訳ではありません。時計にあるのは「動き」だけです。 重さや長さのように、直接手で計ったり目で見たりできません。私たちの五感でわかるのは「動き」だけです。 針が動き、針の文字盤上の位置による読み値を頭の中で時間に置き換えたのです。 運動が時間に比例して起きるかどうかはわかりません。 ですから、(運動/時間)の比は、別途決定する必要があります。

両替屋(金融資本家)は、「時間」を「お金:通貨」に置き換えました。 これは利子利息のことです。利息は負債です。どこかの誰かが銀行から借り入れをしなければ利息は生じません。 利息の元が負債であるにもかかわらず連中は、これを「信用創造」と呼びます。 体の良い言い換えでしか無く、彼らは何かにつけて言葉遊びをします。

ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデは「お金を時間に置き換える」ことで小説「モモ」を書きました。

2382150

 

実際は、逆だったのです。両替屋の連中は、時間をお金に置き換えたのです。

問題は、運動は10進数、時間は12の倍数、通貨は10進数であることです。 3次元物理空間を等しく分けるこには12の倍数が便利ですし、よく理解できます。 できれば、質量も長さも時間も12の倍数である方が望ましいのです。 ですから、10進の通貨の管理者たる彼らは「12の倍数がよい」などと言う者が出てくることを阻止したいはずです。

何より(運動/時間)の比が未定ですから、ひいては運動(仕事)から時間を経由してお金を巻き上げられる仕組みを堅持できることが大きかったと考えられます。 お金に色はついていませんので、利ざやを抜き取られると中央銀行が発行した総量を割り込むことは明白です。

よく考えると、頭の中にしか存在しない「時間」という概念と「非兌換のお金」とはよく似ています。どちらも「ある」と思い込んでいるに過ぎないのです。

情報の圧倒的勝者である両替屋の連中は、「時間が問題だ。12の倍数がよい」という考えを誰かが持つことを未然に阻止するに相対論がうってつけだと判断したと考えています。100年はいかにも長いです。

インターネットが発達した今日、特定のことが異様に持ち上げられたり、徹底して貶められたりするというバイアスが働いていることに誰もが気付いています。 無視したり無くしてしまいたい一つに単極誘導が有るのではないかと穿った見方をしています。同様に「時間」についても、問題があると騒がれたり、話題に触れられることを嫌う連中がいるだろうと想像できます。科学者も仕事を失いたくないので発言することはないはずです。

問題の本質は、驚くほど簡単です。これを「常識・自明あるいは無意識」というレベルで否定せずに考察できたのが岡潔や岡潔が述べた道元禅師だと思います

岡潔が自然科学者を「原始人的無知」と述べた理由はここにもあるようです。

 

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タイム!

役に立たない小咄をひとつ。

自然科学者「」、 振り子の運動「」、 時間「

 「さて、振り子の運動を使って時間を計ってみるか。 何せ、振り子には等時性があるし、運動は時間に比例して起きるはずだからな。」

pendulum2015

 「時間?? いや、オレ知らないよ。 吊り下げたオモリと重力で動いているだけだから、時間に聴いてくれ。」

 「いや。待った! そっちこそ、運動に聴いておくれよ。」

う・タ 「こっちに言われても困る。 勝手に決めるなよ。」

という水掛け論でした。 いやー、よく考えたら時間なんてありませんでした。

”時間”は物理量じゃない。 時間とは、過ぎゆく運動の記憶(記録・情報)でしかない。時間を五感でわかるものと思っていましたけれど、違ったようです。  時間を”見た・触った・聴いた・味わった”人は、管理人までお知らせください。 時間が物理量ならば、重さや長さと同じで直接触れるはずです。

数学者岡潔によれば、「数学で大切なのは情緒である」だそうです。

 

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時間とは、過ぎゆく運動の記憶である

これまでに幾度となく時間について記してきました。考察を都度書き記すことで少しずつ前に進んできました。

時間に関する主な過去記事には時間とは何かお金 時間 エネルギー 数学質量・運動・エネルギー・時間があります。 もう少し具体的に書ければと思います。

数学者岡潔思想研究会から該当する講演録「自然科学は間違っている」の一部を引用します。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。

抜粋して順にまとめますと次のようになります。

  1. 自然科学者は、運動は時間に比例して起こると決めてかかっている。
  2. 自然科学者は、そういう時間があると決めてかかって、時間はわかると思ってる。
  3. 時間を表すとき運動を使う。
  4. 人は時間の中なんかに住んでいない。時の中に住んでいる。
  5. 時には現在、過去、未来がある。
  6. 時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。
  7. その一つの性質を取り出して、観念化したものが時間である。

岡潔は物理現象は、最終的に五感でわかる必要があるとして次のように述べました。

最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

まとめますと

あ) 五感でわかるものでなければならない。

い) 自然科学者は、五感でわからないものはないと思っている。「ない」としか思えない。仮定とも思っていないから、検討しない。

う) 自然科学者は、原始人的無知である。自分が仮定していることにさえ気付かない。


上記の3.から自然科学者は、「時間は運動から求め、運動は時間から求め」ています。  それで事足りると思っています。何故なら1.の「運動は時間に比例して起きると決めてかかっている」からです。 確かに

pendulum2015図1

振り子の等時性は、誰もが認める所なのですけれど、上記1.の暗黙の了解があるからに他なりません。 実際は、運動が時間に比例して起きるかどうかだれも確かめたことがありません。

つまり、(運動/時間)の比を決定したことがないのです。それどころか時間が存在するかどうかもわからないのです。

では、自然科学者の時間とは何かというと、岡潔は、4.「人は時の中に住んでいる」と述べて、5.「時には現在・過去・未来がある」ことを示しました。 そして、6.「時の過去の性質の一つ『時は過ぎゆく』」という属性を指摘した上で、7.「その性質を取り出して観念化したものが時間である」と述べました。

上記を言い換えると、運動が時間に比例して起きるかどうかわからない。時間は、時の過去の性質「時は過ぎゆく」という性質を取り出して観念化したものだから、「時間」を時の現在と未来に適用できるかどうかはわからないのです。 それどころか、時間があるかどうかもわかりません

岡潔の言うように物理現象は(あ)「五感でわかる」必要があります。考えてみるに、人が五感でわかるのは温度や圧力を含めて、究極には「運動」です。

時間は、時の過去の内にある「時は過ぎゆく」という性質を観念化したものですから、五感でわかる「運動」を時の過去に当てはめることにより、よりはっきり時間というものが理解できるといえます。

結局、時間とは、過ぎゆく運動の記憶です。従って、現在の運動未来に起きるだろう運動に、時間」を適用できないと考えられます。  もっと短く言うと「時間とは過去の記憶」に過ぎません。

時空(時間・空間)と呼ぶ時間軸など存在しないということです。 自然科学者は、運動を時間に置き換えることにより、宇宙を容易に理解できると考えたのでしょうけれど、「運動は時間に比例して起きる」と思い込んでいるからできたことです。 ですから有名な公式

E=mc^2  ・・・・式1

で示されるエネルギー運動を時間に置き換えた上で、さらにエネルギーに置き換えたのですから間違っているといえます。 少なくとも近似です。

式1について、過去にも引用したことがある杉岡氏の相対論物理学者に捧ぐ その4からサイトの核心部分を掲載します。ページの中程です。

 アインシュタインは、”時間”を速度cを用いて定義したのです。(ここで「はっ」と気づいた人もいるでしょう

おかしいと思いませんか?
時間を光速度cを用いて定義するには、その前に時間というものが分かっていなければならない。
なぜならcとは①の距離/時間で求められるものだからです。
アインシュタイン出現以前の素朴な時間概念で認識されていた光速度cを用いて時間を定義するという決定的論理ミスをやっているのです!
(引用者注:c=299863381m/s・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・①)

杉岡氏はアインシュタインが「蛇が己の尻尾を噛む」ようなことをやっていると指摘されていますけれど、もっと本質的な問題を数学者岡潔は指摘しているのです。

岡潔はまさに天才です。

 

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憲政史家 倉山満「歴史書に書かれてあることよりも、書いてないことの方が大事」 ・・・・ 科学も同じかも知れない

動画サイトに興味深い動画がありましたので、メモしておきます。

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動画1 #10-1

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動画2 #10-2

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動画3 #10-3

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動画4 #10-4

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動画5 #10-5

以降の動画に興味をお持ちの方は、動画サイトでご覧ください。

 

倉山満氏(動画2より)は、歴史書を読むときの注意を次のように述べています。(引用1)

1.書かれてあることよりも、書いてないことのほうが大事

2.絶対評価は誰でもできるが、相対評価は難しい

歴史書に何が書いてあるかを読みますけれど、他の歴史書に書いてあって、こちらには書いてないのは何故か。この歴史書は何を目的としているのかを確かめるには、書いてないことを探ることが大事だと述べています。また、歴史書に書かれていることを評価することはできるけれど、他の資料との比較した上で、相対評価することは難しいとも述べています。

 

以下の文章は、管理人によるとても穿った見方です。

管理人は、研究を続ける上で、巷、重要と言われるニコラ・テスラ(1856年~1943年)をあまり取り上げませんでした。 特許資料やコロラドスプリングス・ノートを見ても興味を持てませんでした。取り上げない理由は、管理人の研究主題である単極誘導に関してニコラ・テスラが取り扱っていないからでした。 で、上記の動画を見て、改めて資料を探してみたところ次のとおりでした。

手持ちの「特許資料とColoradoSpringsNotes」の図をざっと眺めたところ、単極誘導に関する資料はほとんど見られませんでした。

一方で、ニコラ・テスラは次のような言葉を残しています。(引用2:フリーエネルギー[研究序説]p42、多湖敬彦著、徳間書店、1996年)

 十八年以上の間、私はヘルツ波の理論に関する学位論文、科学レポート、記事を読んで多くの知識を吸収しようとした。しかし、それらからいつもフィクション作品のような印象しか得られなかった。

天才ニコラ・テスラが18年もの間学び続けた結果、ヘルツ波(横波)に関する理論が「フィクション作品のようだ」と感じていたということです。 と同時にニコラ・テスラは次のように述べています。

われわれは終わりのない空間を、想像もつかない速度で渦を巻いて回転している。すべては回転し、運動している。すべてはエネルギーである。このエネルギーを直接、手にする方法があるにちがいない。(引用3 同書、p48)

ニコラ・テスラは、

nikolaEM002写真1

回転磁界による誘導モーターを発明しましたが、誘導モーターの回転が「エネルギーを手にする方法」であるとは思えません。では、テスラの言う「渦を巻いて回転している」現象とは何なのでしょうか。

現代において有名なフリーエネルギー研究者であるトム・ベアデンは、ニコラ・テスラの研究者でもあります。 管理人は2年ほど前に、トム・ベアデンの研究資料だとされる「Tom_Bearden_files」というzipファイルをネットで入手しました。 このファイルは238Mbに圧縮され、中には211個のpdfとword文書、html による文書があります。もちろんコロラドスプリングス・ノートも含まれています。

トム・ベアデンはいわゆるテスラ波と呼ばれる縦波電磁波をもってフリーエネルギーを実現しようとしていることで有名ですが、このトム・ベアデンファイルにも単極誘導に関する資料はほとんど含まれていませんでした。 つまり、ニコラ・テスラによる残された資料には単極誘導に関する資料は、存在しないと見てよいわけです。

ところで、ニコラ・テスラの研究所は何度か火災で焼失して大きな実験が出来なくなったようです。また、引用2の本によれば彼の死後すぐに、FBIをはじめとする機関が捜索にきてほとんどの資料を持ち去ったとされます。

ニコラ・テスラが引用3と述べたのならば、本質的に回転運動を示す「単極誘導」について研究していたと考えるのは外れていないと思います。にもかかわらず残された資料に含まれていないというのは不自然なことだと考えます。逆に言えば「残された資料に利用価値はないかも知れない」のです。

詰まるところ、歴史書同様、科学の発達も論文もレポートも「勝者による都合の良い記録」なのかも知れません。 ニコラ・テスラは何を残して、何を残せなかったのでしょうか。

 

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ヒマワリ畑

毎年きまって休耕田にヒマワリを植えるところがありまして、この時期、散歩の時には楽しみにしていました。 いつもカメラを持ってくればよかったのにと残念でしたけれど、今年は忘れずにカメラを持参、撮ることが出来ました。

CIMG1828

民家の窓際に朝顔が植えられて、ツルが日よけになっています。

CIMG1840

愛用のカメラは実験用でして、スナップ写真はそれほど見栄え良く写らないけれど、雰囲気だけでも。  ほんとうに綺麗です。 梅雨明けはもう少し先のようです。

 

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聖書「初めに言葉ありき」は、弧理論「E軸上の実体は全情報を持っている」に等しい

うまく書けるかどうかやってみます。前提が長いです。

新約聖書のヨハネの福音書「初めに言葉ありき」について、弧理論(Ark Theory)の考え方と似ているか、あるいは同じことを示しているようなので記します。

(1) 学生の頃、授業で「情報を蓄えるにはわずかばかりのエネルギーが必要」と教わった記憶があります。 それが統計力学だったか情報理論だったか覚えていないので、教科書を探しました。

(2) 統計力学(久保亮五著、共立全書p91)の「4.2孤立系のエントロピー」には

S=klogΩ(E)ΔE    ・・・・式1

がボルツマンの関係式として示されていました。

(3) 情報理論の教科書を探しましたが、見つからずネットで調べたところ、ブログ「hiroki_fの日記」さんの情報エントロピーと熱力学エントロピーというところに

情報量はlogΩになる    ・・・・式2

が示されていました。(注:式2は式ではありませんがご勘弁を。) 記憶では式1と式2は同じだったはずです。 さらに調べたらEMANの物理学のサイトに情報エントロピーがありました。(1)に関連して「二種のエントロピー」として議論されていますので引用します。

情報科学の分野にもエントロピーという用語が出てくる。  これは情報量の大きさ(情報の確かさ)を表すために導入された概念である。  そもそもは統計力学とは無関係のアイデアだったのだが、 統計力学に出てくるエントロピーの概念に似ていることに気付いて 同じ名前を採用することになった。  物理学のエントロピーと区別するために「情報エントロピー」と呼ばれることがある。

なぜそのような異分野の概念をここで説明しようとしているかというと、 最近、この「情報」というものが物理学と深い関わりを持とうとしてきているような 気がするからである。  (一部省略)  どうやら最先端の研究では、 熱力学的なエントロピーと情報のエントロピーとが同列に語られているようなのである。

実はそれ以前から、情報エントロピーと熱力学的エントロピーについて、 「それらは区別する必要のない全く同じものだ」と考える意見と、 「形式が同じというだけの全く別概念だ」と考える意見とが存在している。

式1と式2について、熱力学エントロピーと情報エントロピーは「同じものか、異なるものかという議論がある」とされています。

(4) さらにネットで調べるとデータを削除するとコンピュータが冷却できるという記事がありました。ここでも情報理論と熱力学の共通項について議論されており、

理論物理学者たちは「コンピュータ処理で熱が発生しないこともある。それどころか、一定の条件下では冷却効果が生じることさえある」という驚くべき事実を発見しました。

と記されています。この記事では、理論物理学者が計算で示したことであって、実験で確かめられたものではないようです。

(5) 同様の記事がないか調べたら、中央大と東大、情報をエネルギーに変換することに成功したようです。

(6) 上記の1~5までに示されるエネルギーとは自然科学におけるエネルギーでして、エネルギーの次元は[ML^2T^(-2)]で時間[T]を含みます。 数学者岡潔は、講演「自然科学は間違っている」「自然科学者の時間空間」において、時間が問題だと指摘しています。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

岡潔は、自然科学が「運動は時間に比例して起きる」と勝手に決めてかかっていると述べています。 その結果、「運動は時間から求め、時間は運動から求めている」のですから、自然科学者は(運動/時間)の比を決定していないことになります。 振り子やクオーツ、あるいは原子時計であっても同じです。時間は「時の過去のうち」の一部を取り出して観念化したものですから、「時間」を時の今と未来に適用できるかどうかは別の話な訳です。

岡潔は、「絵を描く時、初めに画用紙がある」ような模型だと述べています。

clip_img146図1

の右図の様なものを考えます。横軸をx縦軸をyとするとき、物体が位置x1とx2を移動するとします。運動は位置xの変化ですから、本来ならば y=f(x) とするべきですが、すべての自然現象を位置で示すのは大変です。そこで時間の関数に置き換えてy=f(t)とします。何故なら「時速4kmで1時間歩くと4km進む」からです。 ただし、「運動が時間に比例して起きる」ことが前提です。その前に(運動/時間)の比を求めていたならばOKですが、自然科学者は未だ「比」を求めたことがありません。

(7) 数学者岡潔は自然科学が間違っており時間が問題だと指摘しましたが、解決策は示しませんでした。 詰まるところ、エネルギー

E=mC^2  ・・・・式3

において、光速度Cも[LT^(-1)]で、時間[T]を含みますから使えないということになります。 時間[T]を含む物理量はすべて使わずに考えることになります。

(8) 弧理論(Ark Theory)では、自然科学のように時間を別の次元軸であるというのを止めて、エネルギーこそ別の次元軸だと考えてXYZ+Eの4次元だと考えます。

20140421静止図2

XYZの3次元物理空間を横軸のM軸とし、縦軸にエネルギー軸としてE軸をとって、2次元平面で示します。 E軸は我々が存在するM軸に直交しており、E軸上に実体が存在します。この実体が持つエネルギー(時間Tを含まない真のエネルギー値)が「積分を伴う回転投影」という操作を経てM軸上に物体として質量mと位置をもって現れます。その他のすべての物性がこの投影によって現れると考えます。図2では、ある観測者に対して”静止”しているとき、実体はM軸に直角に投影されます。

20140421運動の状態図3

観測者に対して運動する物体は運動Pを持って投影されます。このときの投影角θは90度以外になり、実体の持つ真のエネルギー値は、静止時E2からE’へと減少し、その分のエネルギーが運動Pになったと考えます。

余談になりますが、弧理論においては、光の速さは閾値です。

20140421光速度図4

観測者に対して光速度の物体のE軸上の実体は、静止時のエネルギー値E2のすべてを運動Pに換えます。(注:図4の円弧が弧理論の名称の由来です。) このとき、物体の質量は静止時の投影角90度からゼロ(直交から平行に)なることで、M軸上では質量を求められなくなります。

物体を加速することで、光速度に達することは不可能ですが、弧理論では閾値である光速度より大きな速度の物体は静止しようとするとき、運動Pが無限大を経て静止しようとします。M軸に接する弧(Ark)は無限遠に消失することで投影角90度からゼロへ至ります。 言い換えると光速度より大きな運動Pを持つ物体は静止しようとするが故に加速し静止に至るということです。(注:まったく常識にありませんけれど、そういうことです。)

(9)  弧理論における基本粒子(投影角90度)の粒子は陽子、中性子、電子の3種類だけです。

20140716弧理論基本形図5

の様にE軸上の実体は、6種類あります。(実体はA、B、C、G、H、Iの6種) それ以外のいわゆる素粒子は投影角90度以外を持つ(つまり運動Pを持つ)静止時に安定しない粒子です。 弧理論による「積分を伴う回転投影」は当然のこと、整数回ですのでM軸での現象は離散的になります。90度以外で投影された物質は、素粒子であって何百種あっても実体の数である6種類に分類されます。

ここで、図2から図5について、補足します。  E軸上の実体は、図3や図4、図5に示すようにM軸上の位置を持ちません。 より正しくは

図5実体と量子もつれ図6

の右図のようにE軸上の実体を中心に考えるとM軸は曲面(曲線)になります。E軸上の実体は、投影されて初めて位置を持つのです。 量子もつれの現象は、弧理論において図6の様に説明されます。  いつも例えに使う万華鏡

.

動画1

でいえば、万華鏡に見える2つの模様A1とA2の位置の隔たりがどれほどあるかを議論する者は居ません。 見える模様が規則的に複雑であるからといって、「対称性と偶然」に原因を求めるのは間違っています。 宇宙は意外と大きくないかも知れません。

ここまでが、前提です。


(10) 上記(1)について、(3)や(4)の議論があり(5)の様に「情報」を「エネルギー」に変換できるとのことでした。 ただし、この場合のエネルギーは自然科学のエネルギーであって、時間[T]を含みますので、このままでは先へ進めないだろうと考えます。  代わりに弧理論の考え方で考察を進めていくと、「E軸上の実体が情報を持っている」と考えると合理的だと思い至りました。

つまり、E軸上の実体が「積分を伴う回転投影」されることによって3次元物理空間でのすべての物性が生じ、これら物理現象のすべての情報がE軸上にある実体にあると考える訳です。するとM軸、3次元物理空間、宇宙のすべての物質の組み合わせ

『気体、液体、固体、銀が、太陽系、恒星、惑星、鉱物、無機物、有機物、ウイルス、植物、動物、人、性別、電気磁気、農業、商業、産業、政治、経済、科学、哲学、宗教、戦争・・・・』ありとあらゆる組み合わせは、「現象の根源的情報をE軸上の実体が保有している」から可能であるということになります。

たった3種類の基本粒子から可能だということです。偶然で起きるなどということはないということです。すべての「因」はE軸上の実体にあるということです。 当然のこと、善と悪の区別もありません。(善と悪という区別も実体の情報にあります。)

(11) 新約聖書のヨハネの福音書「初めに言葉ありき」について、現代的に言えば「言葉」とは「情報」のことです。  自然科学では、例えばある病気の原因が遺伝子DNAにあると考えますけれど、弧理論では、物質である遺伝子は実体が投影された結果であって、「因」は実体にあるということです。 もっと言えば、脳の働きは結果であって因は、E軸上の実体にあり、我々の思考そのものがE軸上の実体にあると考えられます。 脳は単なる「コネクタ」に過ぎないようです。

「初めに言葉ありき」は、ほとんど弧理論の「E軸上の実体がすべての情報を持っている」に等しいと考えます。 「在りて在りたる者」とか「初めに言葉ありき」と述べた者がどこの誰かは知りませんし、管理人は彼の者が神だとは思っていません。 同様に「E軸上の実体」が神だという考えを持っていません。

結局のところ、管理人にとって聖書に記されているいくつかの言葉は、宗教の原典ではなく「ある種科学的なことが記されているのではないか」と感じられます。

 

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EMAモーター エーテルエンジン Nマシン

幾年か前にエーテルエンジン

eneginefreeen45写真1クリーンエネルギー研究所訪問記より拝借)

のコア断面 (図1省略)

図1 シールドコイル (未知のエネルギーフィールド:共振回路とフリーエネルギーp114図14、世論時報社)

エドウィン・グレイが開発したEMAモーター

IMG0043a写真2

EMAmotor corefig図2 (US Patent #3,890,548

コア断面 、あるいは別の試作機

Motor51coils写真3

のコイル

GrayCoreandWinding1写真4

GrayDismantledCore2写真5

の断面形状に似ていることについて、EMAモーターからヒントを得られたのか聴きましたところ、「そういうことはない。」と否定されました。

 

一方で、 アダムトロンブライが製作したNマシンの試験機は

nmachinetrombly図3 (こちら電脳工作室 単極誘導とNマシンの不思議、その2より拝借)

の様でして、Nマシンにおいても 似た断面形状をしています。

上記、シールドコイルに関する仮説として

コイルの巻き線に対し何らかの方法で擬似的な磁気シールド効果を持たせて、外部の磁力線の動きがコイル内の電流を切らないか、あるいはその影響を小さくすることはできないだろうか。

と記しています。(引用1)

同じく、図3のアダムトロンブライの試験機にかかるNマシンの改良の要点について、サイト管理人の辻井氏は、Nマシン(通常の単極誘導装置)と比較して

「単極誘導とNマシンの不思議、その1」の最後に揚げた図はデパルマのNマシン(原型)でしたが、電磁石が作り出す磁力線の経路を見ると、空間のリターン部分が大きなエアギャップとなっています。これでは磁気抵抗が高く、同じ出力を得るのに励磁に大きなアンペアターン数が必要になります。(もっとも・・・・省略・・・・)、アダムトロンブライはこのエアギャップを解決するために、左上図のような単極誘導発電機を考案しました。磁路のリターンにあるエアギャップを狭くしてあり、これがアンペアターン数を軽減できる効果を発揮しています。 (注:左上図とは図3のこと)

と記しています。(引用2)

引用1と引用2を比較して感じること。 磁気抵抗を小さくすることでアンペアターン数を少なくする工夫という意味では同じことを述べているように思えます。

「エーテルエンジン、EMAモーター」とNマシンは 全く異なる現象の装置だといわれるかも知れませんけれど、管理人にとっては、どちらも同じ磁気的性質を応用した装置に見えます。

エーテルエンジンとEMAモーターは電磁誘導(往復運動:圧縮膨張あるいは引力反発、交流)です。Nマシンは単極誘導(回転運動:接線方向の斥力、直流)です。

なぜこのような磁気回路を持つとバックトルクが減少するのでしょうか。異なる観点から考察を続けています。

 

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