なぜ、 心の本体 を”タマ”と呼んだのか?

ヲシテ文献においては、ヒトにある2つの心タマシヰといいます。漢字で書くところの「魂こん」では意味が通じません。タマは 心の本体 で、シヰは欲しい欲しいのシヰで、生命維持の欲求です。生命維持の欲求は、強いるのシヰですから意味がわかりますけれども、 心の本体 を何故タマと呼ぶのかが問題です。

生れてこのかた、存在についての説明が不要なのは自己だけです。自己の存在こそ誰かに説明を求める必要などありません。自己の存在は銘々わかっています

岡潔はというと、心の本体を「情」と言いました。コトバンクの「」には次のようにあります。

物事に感じて起こる心の動き。気持ち。
思いやり。なさけ。
異性を慕う心。男女の愛。
物事の実際のありさま。
そのものから感じられるおもむき。味わい。

物に感じて動く心の働き。感情。
他人に対する思いやりの気持ち。なさけ。人情。
まごころ。誠意。
意地。
特定の相手を恋い慕う気持ち。愛情。また、特定の相手に対する肉体的な欲望。情欲。
事情。いきさつ。
おもむき。味わい。趣味。

管理人が岡潔のことを知ったのは、2015年ころです。以来、岡潔の言う「大宇宙の本体は情である」ことや「日本人は情の人である」というのを納得してきました。しかしながら、最近はどうも違ってきました。

というのは、心の本体を”情”とするには、「情とは何なのか」を説明せねばならないからです。そもそも、自己の存在は自己が銘々わかっているのであって、それをわざわざ説明が必要な「情」とするのは違うと思うからです。そのように感じるきっかけとなったのがヲシテ文献にあるナサケヱダです。

  • ミヤビ(ナサケヱダ+アワレヱダ)

ホツマ辞典によれば、ミヤビは随心とされています。ミヤビによりヒトに社会性ができますし、記憶を司っています。このナサケヱダが岡潔の情に等しいとわかりました。また、本居宣長の「もののあはれ」とアワレヱダが等しいとわかりました。図にします。

図1 現在=物がわかる  過去=動きがわかる 

本居宣長の言った「もののあはれ」は、物がわかり動きがわかるということのようです。それより後にやっと言葉が出てきます。つまり、もののあはれは、既に過去です。図2 現在=物がわかる 過去(動き)がわかるためには現在を記憶しておく必要がある

岡潔は「情的にわかる」というのがなければ、一切は存在しないと言います。つまり、ナサケヱダは、現在がわかるということです。その次に動きがわかるのです。ナサケヱダとアワレヱダがあって、(物と物の動きの記憶があって)初めてヒトはの中に住む訳です。言葉はその後です。

以上のことがわかってきてから、岡潔の言うが心の本体であるという考えに賛成しかねるようになってきました。冒頭に書いたように、「情とは何か」という設問が成り立つこと自体に問題があるからです。何度も書きますが、自己の存在は自己が銘々わかっていることです。説明の必要はありません。ですから、ホツマ辞典にナサケヱダが随心であると書いてあったのは納得でした。

 

では、ヲシテ文献にある心の本体であるタマの意味を考えます。タマとは平たく言うと玉であり、球であり珠です。人が誰でもわかる球体です。一定の体積で表面積が最小の物体が球体です。

ヒトの心の本体を空間の性質に帰するというのは、良いアイデアだと感じます。すべてをそぎ落として、説明の必要がありません。球体というのは泡に近いです。このように感じているところに、物理学者の理論にのイメージを持つものがあると知りました。

物理学者が持つ物のイメージには3種類あります。一つ目が「ひも」です。

図3

両端を往復するものと、両端を異なる経路で往復するものの2つあります。2番目がネットワークです。

図4

これらのイメージは、物理学者が自ら編み出した数式を素人向けにイメージ化したものでしょうけれども、実は、言葉の仕組みそのものの性質をイメージにしたに過ぎず、単なる抽象に過ぎないことがわかっています。

  • 言葉は、互いに規定しあって成り立つ、繰り返し循環であり、ネットワークで型式である

原因としてあげられるのは、自然科学は、”量ではない時間をパラメータとした繰り返し”に過ぎないからです。時間を用いて長さと質量とエネルギーを換算しているのです。自然科学の問題の根幹として、物と事を混同しているからです。

注) 図1のように、物と事は一つの実体の異なる面に過ぎません。自然科学は、「物は事に転換するし逆にもなる」と言っています。一見、同じに見えますが、これは間違いです。自然科学の見方だと現在と過去の区別が付いていません。運動から時間を作り、時間を光速度cに置き換え、cを用いて時間と長さとエネルギーと質量を計算しています。これは間違いです。物と事がごちゃ混ぜです。

3番目のイメージが「泡」です。湯川氏によって、このイメージがどのように出てきたのかわかりませんが、結果的に、心の本体をタマと呼んだのと近いです。しかし、湯川氏の泡のイメージとヲシテ文献にある心の本体であるタマとは何ら関係ありませんので悪しからず。

 

余談です。実のところ、タマもシヰも自然科学のすべてどころか、世界中の思想、主義主張もアワウタに包含されます。物の初めから事の終わりまでを母音と子音に置き換えて、意味付けしたのがアワウタです。

図5 出展:日本ヲシテ研究所 48音図(ヨソヤコヱ:アワウタ)は表音表意文字

図1に示すように、投影角によって物と事(運動)が現れます。当然、投影角を12進数で扱うならば、物と事は12進数の何かと親和性が高いはずです。ヒトにとって、アワウタにこそ、意味がありますけれども、隙間には意味が希薄なはずです。

例えば、注:※↓ 図5において、「ス」は、横軸(母音)と縦軸(子音)で解釈すると、横軸が温かく昇る(ホ)であり、-(とめる)です。スの右隣の「シ」は、横軸は冷たく降りる(カセ)で、縦軸が-(とめる)です。「ス」と「シ」に表音表意文字としての意味付けはできますが、その間、隙間に意味を見出すことはできません。なぜならば、図1に示すように自然は映像だからです。投影角により決まる映像は、当たり前ながら離散的にならざるを得ません。映像である自然として母音と子音に意味付けしたのがアワウタですから、スとシの隙間に意味を見出しえないと考えるのは当然です。だから、アワウタは12の倍数である48音なのです。アワウタは投影角と親和性が高い理由になります。

例え、アワウタにて複雑で精密なを表現しうるにしても限度があります。例え、それが優れた思想であったり、〇〇主義であったり、△△理論などの科学であっても、宗教の教義であっても、結局のところ、繰り返しが出てくるからです。

  • 物と事は互いに規定しあって成り立つ、繰り返し

繰り返しやネットワークが前面に出てきた理論は既に抽象です。それは、スとシの隙間を探求しているに等しいです。アワウタより外へは決して出られません。それが過去記事に示した仏教の如来であったり、ギリシャ語聖書(新約聖書)の「アルファでありオメガ」や、旧約聖書の「私は在る。在るという者(在りて在りたる者)」でも同じです。ついでながら、弧理論における図(アウワ)を示します。

図6 基軸上(旧E軸)にある2つの中心アとワのつながりによりウ(渦:M軸:物理空間)をもたらし、ウよりヒトを生じさせる 紡錘図形は弧理論による原子模型 原子はウ(渦)

ただ、ヲシテ文献にある「ヒトハアノモノ」とあるのは決定的です。

ヒトハアノモノ写真1 出展:池田満氏著「ヒトハアノモノ」

ヒトハアノモノという言葉から「自己とは何か」の根幹がわかります。弧理論の解釈からは出てきません。

アワウタは、自己である心の本体を除くすべてを含む科学です。日本人に生れてよかったです。自己である心の本体であるタマの”対”になるのが、おそらくアメノミヲヤではないかと考えますが、よくわかっていません。ヒトは大宇宙の中心である「ア」のものではありますが、アとワがどのようにできてきたのか不明です。ヲシテ文献によれば、その大本がアメノミヲヤとのことですから。

 

追記 ※↑ 例え方が悪くて伝わらないことに気づきました。別の表現をします。

人の肉体に備わった器官で(何となく)わかるのは、図1に示すようにです。物と事について、図5に示すヨソヤコヱ(48音図)のとおり、横軸に物縦軸に事を割り振ることにより、意味付けできます。これが表音表意文字です。

ヨソヤコヱ(48音)は、丁度、ゲルマニウムラジオにあるLC並列共振回路に似ています。

写真2 出展:電気を使わないエコラジオ ゲルマニウムラジオを作ろう!

LC共振回路の図は次です。

図7 出展:共振回路

図7の右下のように、周波数電流の関係はLとCによって決まります。同じように、物を5つの母音に、事を10の子音に対応させることにより、ヨソヤコヱの内の一つを選ぶことができます。ですから、ヒトハアノモノという7音からなる語は、一文字ずつ7回、物と事に対応させることによって完成します。これが表音表意文字です。

言わば、言葉は直列(シリアル)であるということです。言い換えると7音を選んだ結果がヒトハアノモノという語になります。つまり、言葉は過去です。一文字ずつ7回選んだ結果ですから、現在を含みません。おおよそ、ほとんどの人が言葉の成り立ちの意味することをわかっていません。例え言語学者でも。

図5に示すアワウタ(ヨソヤコヱ)は、ラジオのLC共振回路のように、ダイヤルの範囲に48局の選択肢があるようなものです。ですから、48局以外の局もありうるのです。48局以外の選択はノイズ(抽象)が多いと考えて差し支えありません。

例えば、英語で言えば、アルファベットA~Zの26文字で語を構成するに、物と事の区別はありません。読みしかありません。一方、漢語も意味の内に物と事の区別はありません。不便なことに読みがありません。如何に、アワウタ(ヨソヤコヱ)が優れているかわかります。英語も漢語(中国語?)もラジオで言えば、選局のダイヤル(LC回路)が壊れているようなものです。すべてが一緒くたに入って来るようなものです。

 

ヒトハアノモノについて。コトバンクにて、人とは何かを調べると次が出てきます。

[一]
① 生物中の一類としての人間。下肢で直立歩行し、上肢は手の機能を果たすようになり、地上生活を営み、道具を使用し、さらに大脳の著しい発達によって、言語、思考、理性の能力、また文化的創造の能力を有するに至ったもの。人間。生物学上は、脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科に分類される。ひとの進化の段階として、一般に猿人、原人、旧人、新人が考えられており、これら化石人類は数属に分かれるが、現生人類はすべて一属一種、すなわちホモ‐サピエンスであり、狭義にはこれを「ひと」という。現生人類における人種は、生物学上の亜種または変種に相当する。自然科学の対象以外では、「ひと」は動物や植物などと同位概念として、あるいは自然と対立する概念として用いられる場合が多い。
※古事記(712)中・歌謡「一つ松 比登(ヒト)にありせば 太刀佩けましを 衣着せましを」
※徒然草(1331頃)七「命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし」
② 人類以外の生物で、人間に準ずる体形や能力を有すると考えられるもの。人類から類推した天人、火星人など。
※竹取(9C末‐10C初)「月の都の人也」
[二] 社会的に生存する人間。
① 存在、行為、思考、あるいは性質、状態などの主体としての人間。個人、またはその集合。
※古事記(712)中・歌謡「忍坂の 大室屋に 比登(ヒト)多(さは)に 来入り居り」
※舞姫(1890)〈森鴎外〉「心ある人はいかにか見けむ」
② 具体的な存在ではなく、抽象的な概念としての人間。
(イ) 人間一般。人間たるもの。

以下、略

何のことかさっぱりです。ヲシテ文献においてヒトとは以下です。

  • ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナナ・ヤ・ココ・」 のヒトであり、一二三(ひふみ)から、三四五(みよいづ)へ、そして五六七(みろく)へと経験を積んで成長する存在

自然は映像であり、映像としてのヒトは成長する存在だということです。実に簡単です。カミの定義のとおりです。

  • アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトハアノモノ

図6に示す通りです。アワが宇宙の大規模構造ですし、は物質のことで、渦のウです。

図8 出展:失念

ウ(物質)は、アワ構造の差分だと考えられます。ウは全体の僅か4.9%です。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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