量子論 における決定的な間違い

量子論 とは何かについて、wikiによれば、次のようにあります。

 量子論 (りょうしろん)とは、ある物理量が任意の値を取ることができず、特定の離散的な値しかとることができない、すなわち量子化を受けるような全ての現象と効果を扱う学問である。粒子と波動の二重性、物理的過程の不確定性、観測による不可避な擾乱も特徴である。量子論は、マックス・プランクの量子仮説(ドイツ語版)まで遡る全ての理論、モデル、概念を包括する。量子仮説は1900年に、例えば光や物質構造に対する古典物理学的説明が限界に来ていたために産まれた。

下線は管理人。ある物理量が任意の値をとれなくて、離散的な値になること。あるいは、粒子と波動性の二重性があり、不確定性もあります。これらを扱う包括理論といいます。そのためのモデルとして”量子”が考え出されたようです。

ある科学者は、量子論が成立する過程について次のように述べています。

基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

下線は管理人。当時の物理学者たちは、「(観測される物理現象が)心によって受け入れられる知識の限界」が来たことを認め、その上で「物理的な法則は統計的なものになる」ということを受け入れたということです。この過程は大事な点を含んでいます。

その物理法則の理解について、具体的に述べています。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

下線は管理人。物理学者たちの得た結論、「波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。電子は確率波をもつ粒子だ」の結論から、「心で描くことのできない状態」となってしまいました。だから「抽象的な数学に頼らねばならなくなる。」というのです。

 

これまでの考察により、確率は結果だと記してきました。

その心は、自然は映像だからです。自然科学はの区別がありません

サイコロ振ると、1が出る確率は1/6です。

写真1

では、サイコロは確率ですか? いいえ、サイコロは物です。確率は、「振る」ことにより起きる結果です。確率は、基本的な原理などではなく、「事」です。つまり、当サイトで言う運動です。弧理論の前提である「自然は映像」と考えると、物と事の性質がわかります。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。

この場合、物はサイコロで、は「(振った結果である)確率」です。弧理論において、は陽子、電子、中性子の3種類だけです。「事」については、以下です。

  • 角度、時間(過行く運動にかかる記憶に基づいて、人が抱く観念:量ではない。)
  • 速度、流速
  • 加速度、躍度(加速度の時間変化)
  • 圧力、気圧
  • 温度、熱
  • エネルギー
  • 波動(時間の観念を含む)
  • 孤立波(ソリトン)
  • ソリトンの一種である素粒子
  • 電磁波、光子
  • 確率
  • 統計
  • 情報(記憶) 他にもあるかも。

注:人がわかるのは、物と事ですから、言葉の一種である””も2種類(物の量にかかる数と事の質にかかる数)あります。

で、微細な現象である電子について、「電子が粒子で、波動性の二重性をもつ」というのは、観測の事実です。問題は、整理の仕方です。

物の量と事の質を一緒くたにしたのが”量子”だということがわかります。これは、間違っています。ソリトン(波の一種)である素粒子は、物ではなくてです。なぜこうなったのか。原因は時間[T]にあります。時間とは、角度から作られた”事”です。時間とは、過行く運動にかかる記憶に基づいて、人が抱く観念です。時間は量ではありません。

m=E/c

エネルギーにもc光速度にも量ではない時間が含まれています。これは、物の量と事の質を一緒くたにした結果であって、間違っています。

 

冒頭、ある科学者が言ったように「心で描くことのできない状態」だから「抽象的な数学」を用いざるを得なくなったのです。そのため、逆のことが起きています。電子にはスピンと呼ばれる物理量があります。EMANの物理学の中で「スピンとは何か」からEMAN氏の感想部分を引用します。

以上がスピンについて「分かっていること」と「分かっていないこと」の基礎知識である。世間では「私は本当はもっと知っているけれども一般の人には分からないだろうから、配慮してわざといい加減な説明をしています」という態度の解説をよく見かけるが、知りたい根本の部分がごまかされていてストレスが溜まることが多い。しかし今回の記事を読んで感じてもらえただろうか。学者にとっても根本の部分は謎なのである。

しかし学者の立場を擁護するために言っておく。具体的なイメージを放棄しさえすればこれほど明らかな論理があるだろうか。具体的なイメージはそれほど大事だろうか。日常の生活に慣れてしまって、全ての物事に「具体的な構造」があるはずだと勘違いしてはいないだろうか。それらはみんな「在るように見えている」だけ・・・錯覚なのだ。

EMAN氏は、「学者も根本部分は謎だ」と認められています。また、『具体的なイメージはそれほど大事だろうか。日常の生活に慣れてしまって、全ての物事に「具体的な構造」があるはずだと勘違いしてはいないだろうか。』と「心に描ける」ことに固執せず、具体的なイメージの放棄を勧めています。つまり、イメージを持てなくてもよい、代わりに数学という道具があるということです。

行き着いた結果が量子だということになります。物理法則が統計的に現れて、確率として扱うしかないとしても、数学的記述の方がイメージより優先するのは間違いです。どうみても間違いです。科学者たちは、「物とは何か」と疑問に対する答えを次のように答えています。

図1 コップの水はクオークからできている

猫もクオークからできているとの答えです。

写真2 右下のドットは猫の一部を拡大したもの

猫の映像を示します。画素と猫とは、何の関係もありません。無関係です。同じく、仮に、自然が映像ならば、図1のクオークとコップの水は無関係です。例えて言えば、ピースからみてパズルの全体はわかりません。人にとってパズルこそが大事なのに、ピースが優先するとしてはダメでしょう。

 

理論物理学者が作った宇宙方程式なるものがあります。

写真3

管理人は、数式が何を示しているのかわかりませんけれども、量子と力が記述されているようです。しかし、数式には猫もいませんし、コップの水もありません

このことに、理論物理学者も気づいたようです。しかし、その答えを複雑系と呼ぶ考え方だったり、ゼロポイント・フィールド(零点エネルギー)という仮説だそうです。よくわかりません。

どうも、彼らは「真空に全宇宙の情報が蓄えられている」ということにしたいようです。どうみてもあり得ません。情報を蓄えるにはエネルギーが必要だからです。エネルギーは、量ではない時間が含まれている”事:運動”の一種です。

岡潔は「空間は量的質的にありません。」と言いました。量的質的にない空間にどうして質であるエネルギーがあると言えるのでしょうか。むしろ、問題にすべきは、空間とは何かという問いでしょう。

余談です。弧理論では、現象は(別の次元軸である)基軸上にある中心アとワの差分らしいことがわかっています。この差分の最低値をゼロポイント・エネルギーと捉えられているのかも知れません。

空間があって、物と物の運動があると考えるより、基軸上に物と事の原因となる実体があって、ヒトがわかるのは、アとワにかかる何かだろうと考えます。その結果として物と事がわかるのです。そのまた結果として空間がわかるとの順であれば、納得できます。量的質的にない空間が何故わかると考えるのか疑問です。

ゼロポイント・エネルギーについては、研究を始めた当初に記事を書いていました。当時とは、考え方が変わっている点があるかもです。参考まで。

書き忘れ。最近分かってきたことです。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。 E=mc
  • 物と事は同時に決まらない。 

自然が映像ならば、上記の2つは同じ意味を持ちます。

図2 現在:物がわかる 過去:事わかる(動きがわかる)

言葉で言えるのは、その後です。言葉は過去です。「接する」ということの面でも量子論は古典物理学と乖離しています。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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