自然科学 に”わかった感”がないのはなぜか?

かなり以前から、自然科学はどこか胡散臭いと感じてきました。いろいろ調べた結果、近頃では「自然科学にわかった感がない」と思うようになりました。その理由についてメモします。サイト内の記事を”胡散臭い”という語句を使った記事をみると18件ありました。その内のいくつかです。

これまでの調査で、現代へつながる物理学の直接の分岐点は、電磁気学成立過程の頃に遡ることがわかっています。

図1 今日、教科書に採用される電磁気学はルードヴィッヒ・ローレンツによる

大学の教科書は、マクスウェルの原方程式群を2回改編されたものです。その間にファラデーが発見した単極誘導の現象が限りなく小さく表現されています。

遡って調べていく過程で、岡潔ヲシテ文献にたどり着き、そこから自然科学に問題があること、そして、自然科学に基礎となる部分が抜け落ちていることがわかりました。抜け落ちた部分について、再掲はしませんが、自然科学は何かバラバラで何処か胡散臭かったです。肝心な部分だけ書きます。

  1. 人の「わかる」には、2つあり、人は言葉でわかっているのではありません。2021年12月6日 場の量子論 は行き止まりである
  2.  言葉は、互いに規定し合って成り立つ循環・ネットワークであり、外のない内です。2021年12月13日 言葉 の本質 物理学での側面

自然科学は還元主義と唯物主義で成り立っています。

  • 還元主義 わかるの語源はわける。わけることによりわかると思っている。
  • 唯物主義 五感でわからないものはないとしか思えない

この自然科学の思想は唯物主義によって非常に強固です。しかし、本当のところ人は「わけることによりわかっているのではない」のです。ここがそもそもの間違いです。自然科学者の研究の対象となる”物質的自然”は、常にブラックボックスです。そのブラックボックスはいつまでも続きます。

 

余談です。人の脳と脳を模して作られた人工知能もその要素は、状態を変化させるブラックボックスです。

図2 人工知能は電算機内部に非常に多くの条件式を積み重ねたものに過ぎない 脳もまた同じ

人工知能もその元となる脳もブラックボックスの積み重ねで実現されます。脳の働きは、還元主義で再現可能ということです。この面でも本当の意味での「わかる」は別にあることがわかります。

 

言葉は互いに規定し合って成り立つ循環・ネットワークであり、外のない内ですから、究極のところ、人は言葉でわかっているのではないのです。ですから、いつも例に挙げる匙とスプーンの関係を場と量子と置き換えても「これは何かという問いに対する答えの意味は」本質的に変わらないのです。サイト内の記事を”スプーン”で検索すると43件の記事が出ます。

弧理論においても、宇宙の中心が2つあり、これをアとワと呼んでいます。アとワがつながってウ(渦:物質)がもたらされ、ウよりヒトを生じさせるとしています。

図3 カミ:アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる

2つの少し異なる映像を左右の眼に映写する3D映画に似ています。空間の元となる光源が2つあるようなものです。

このアとワは、決してわかりません。

  • アはワではない何か
  • ワはアではない何か

しかし、アとワは、同じではありません。少しだけ異なるようです。例えば、男女(雌雄)の別、右と左、あるいは色相環(hue circle)のような現象もそうかも知れません。

図4 出展:マンセル色相環(hue circle)

赤は緑でない色、緑は赤でない色としか説明できません。色を先天的に盲目の人に説明のしようがありません。音階も循環の要素を持っているようです。

 

まとめます。自然科学が胡散臭く感じるのは、電磁気学成立の過程で金融資本家の介入(注↓文末)があったからでもありますが、岡潔は自然科学について次のように述べました。【1】このままでは人類は滅びるより。

自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。

だから、かようなものは学問とはいえません。これは単なる思想です。

自然はわかりきったもの決めてかかって、科学したものを集めたものです。つまり、単なる科学の集合ですから、大まかな部分での整合性がないのです。だから”わかった感”がないのです。

しかしながら、根はもっと深くて数学を含む言葉の本質から来ていたのです。これを端的に言い表したのが岡潔でした。

  • 自然数の1は決してわからない

岡潔のこの言葉は、2進数に限れば、1とは0でない数であり、0とは1でない数です。だから1は決してわからないのです。弧理論では、宇宙の中心が2つあり、これをと呼ぶのと同じです。本質はごくごく簡単なところにありました。

 

これまで記事にした通り、自然科学は行き着いた感があります。その原因は自然科学の問題と言うより、人の思考である言葉に原因があったということです。これが第1の心の限界です。これは如何なる理論も同じで弧理論も例外ではありません。この循環・ネットワーク、外のない内を脱することは決してありません

しかしながら、ヒトが追い求めることの本質はここにあることがわかっています。ヲシテ文献において、ヒトとは「・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナナ・ヤ・ココ・」の”ヒト”です。ですから、ヒトとは成長をする存在だということです。その根源が第1の心(数学を含む言葉を使う)にあるのです。(日月神示の示す”一二三ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)”と整合します。)(第1の心は、ヲシテ文献のタマシヰのシイ、生命維持の欲求です。)

この「わかった感を追い求める」という欲求こそがヒトの進歩の原点かも知れません。必ずしも自然科学が悪いということではないようです。

 

ついでながら、本記事の内容は、3つの科学(精神科学、弧理論による社会科学、物質科学)の中央部分でのお話になっているようです。

図5 ミクサタカラ(タマ:精神科学、カガミ:弧理論による社会科学、ツルギ:物質科学)

まぁ、こう振り返ってみるとヲシテ文献の存在を知った2015年直後から「イクラムワタヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ」に着目したのは正解でした。そういえば、イクラ、つまり5つのクラが何か段々わかってきました。

注↑:参考記事

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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