外のない内  岡潔 はなぜ”無意識”という言葉を使わなかったのか?

岡潔 は、人に心が2つあることを説明する際におおよそ次のように述べました。

  1. 第1の心・・・・理解、物の理。還元主義と唯物主義による。わかり方=意識を通し言葉で言える。
  2. 第2の心・・・・情の働きにより、直にその趣がわかる。わかり方=意識を通さず言葉で言えない。

ただし、還元主義について。わかるの語源はわけるわけることによりわかるとする考え方です。また、唯物主義について。人の肉体に備わった五感わからないものはないとしか思えないという考え方です。

で、大方の人が””と思う部分は「意識を通す、通さない」という言葉でしょう。意識のない状態は無意識ですから、「通さない」というのは”無意識を指しているのだろう”と軽く考えるかと思います。しかし、 岡潔 は次のように述べていて、唯物主義と関係があります。【1】2つの心より抜粋です。

人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにします

  ー略ー

この心はわたくしというものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。

下線は管理人による。第1の心は、物質的自然の全部を覆っているが、それより外へは決して出ていないと言います。一見、文意に自己矛盾があるように感じますが違います。

唯物主義は、”五感でわからないものはないとしか思えない”というものでした。また、物質的自然については、次にあります。【3】五感でわかるものより。

物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。

ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。

これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。それで、これに名前をつけて物質的自然と、そういうことにします

唯物主義である自然科学者の考える自然を物質的自然と名付けています。ただ、物質的自然は自然そのものではなくて、ごく簡単な模型だと言います。そして、第1の心は物質的自然の全部を覆っているということです。

では、全部を覆っているが、それより外へ出ていないというのはどう言った意味でしょうか。いつも使う図にて説明します。

図1 匙とスプーン あるいは場と量子の関係

”意識”と”無意識”という語を辞書でひいて見ますと、いろいろ書いてありますが、突き詰めると図1の中に書き込めます。つまり、意識と無意識は”対”であり、それは”有”と”無”の関係に似ていることがわかります。それは匙とスプーンの関係、あるいは場と量子の関係と本質的に同じです。 何度も書きますが、人は言葉でわかっているのではありません第1の心でわかっているのではないのです。そして、図1は循環・ネットワークであり、外のない内です。以上をまとめて書くと次になります。


五感でわからないものはないとしか思えないという人の考えることは、物質的自然の全部を覆っています。しかし、言葉で言える意識は、図1の範囲でしかありません。たとえ、どんなに観測できる距離と大きさと精度が上がったとしても”言葉で言える”状態にしたならば、それは外のない内でしかないのです。しかも、わけることによりわかると考えている人にとって研究の対象はどこまで突き詰めてもブラックボックスです。これではキリがありません。だから、終端に気づけません。


それが、岡潔の言葉「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」へつながるのです。人に心が2つあることを知らないならば、そうならざる得ないのです。

その前に意識と無意識という語は心理学の用語です。そう安易に言葉を使ってはいけないと感じます。意識と無意識という語は、互いに規定し合って成り立つでしかありません。これで岡潔が如何に慎重に言葉を選んでいたかがわかります。

以下は、釈迦に説法です。

岡潔の言葉は平易で簡単で、すらすら読めるのに意味がわからないということが多々あります。その多くが上記のような内容を持っています。岡潔の著書を1週間であるいは1ヶ月で1冊読むよりも気になった語句について何ヶ月も頭に持ち続ける方がよほど岡潔が何を考えていたかわかるように思います。


以前に書き書きましたが、「外のない内」という言葉は、管理人の創作ではありません。岡潔の存在を知ったのが2015年頃で、岡潔が参考に引用したのが山崎弁栄上人です。岐阜県にある山崎弁栄記念館のサイトにあったのが「外のない内」という言葉でした。この言葉については、研究を始めた2010年から探し求めていました。

G・アダムスキーが遺した足跡図は当初から研究の対象です。

図2 宇宙は主に斥力により成り立つ 宇宙は2つのポテンシャルに覆われている 即ち、日常にある静止は例外中の例外 すべては回転運動せざるを得ないという斥力 おそらく他力に同じ

 

最初に感じたのは、この図は「宇宙の外についてまったく言及していない」ということでした。この感じたままの言葉では、他の人に説明しても納得してもらえないとわかっていましたので、何か適切な言葉を探していたところでした。そこで出会ったのが山崎弁栄記念館の資料でした。

この図にはあまりに多くのことが書き込まれていて未だわからないことが多くあります。図の意味を一言で言うと、永久宇宙船による惑星間航行の原理を説明しています。おそらく、どちらかが暗黒物質、あるいは暗黒エネルギーに対応しています。E軸にある2つの中心からM軸への影とでもいうもので斥力によりアワ(泡構造)を示しています。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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