数学 者岡潔「自然数の1は決してわからない」 ヒントは「道具としての数学」にあった

管理人は 数学 ができません。数学者岡潔が言ったとされるこの言葉の意味も気にはなっていましたけれども何が云いたいのかわからない状態でした。

以前から、不思議に思うことがことがありました。 数学 は人間が使う道具として最強だとされます。そして、数学を行うとき人には「緊張と集中」を要します。 ところが岡潔はある時期から「人の心」の探求に向かい、何十年も考え続けた結果、「大宇宙の本体は情である」、「人の心は二つある」、「心は情知意の順に働く」などということに至ったのです。 人の心の探究に必要なのは「弛緩と関心」です。

「弛緩と関心」は、「緊張と集中」と対極の状態にあります。数学者である岡潔が何故、どのような理由により、対極の状態に飛躍したのか謎でした。 ところがいろいろと考察しているうちに岡潔が数学から「人の心」の探求へと向かった理由がわかりました。それが以下です。

(1) 複数のピース → 木組みパズル

写真1

パズルから見て、ピースのことは何もわかりません。パズルからは、ピースの何たるかを説明できません。

(2) 複数の音素(50音あるいはヨソヤコヱ「48音韻」) → 日本人の言語・言葉

日本人にとっての日本語=日本人の思考そのものです。

表1 出典:日本ヲシテ研究所

これは外国語でも同じです。 英語圏の人の思考は英語によります。

(3) 時間・空間 → 自然科学

自然>>自然科学(時間・空間というモデル)であって、自然科学は自然のごく一部です。 岡潔が名付けた物質的自然は自然そのものではありません。(五感でわかるもの)を参照ください。 自然科学は自然を(時間空間)として理解しようとする方法の一つに過ぎません。自然科学は時間を用いていますから循環論法です。時間は物理量ではないにもかかわらず、単位を持っています。過去記事を参照ください。

図1

(4) 自然数の「1」あるいは数 → 数学 =思考の道具

岡潔の云った「数は量のかげ」でありながら、数学に用いるから離れていますので単位を持ちません。


以上をまとめて表にします。

(1) 複数のピース 木組みパズル
(2) 複数の音素(50音あるいは48音韻) 言語 => 思考の道具
(3) 時間を用いて自然を科学した集合 自然科学 => 自然を理解する方法のひとつ
(4) 自然数の「」あるいは数 数学 => 思考の道具

(3)はちょっとわかり難いです。 自然科学は時間という物理量から離れた数に単位を付けたものです。時間を用いて自然を科学したものの寄せ集めが自然科学です。自然科学の各分野は時間を用いることによって循環論法になっています。

(1)~(3)は、いずれもピースとパズルの関係に似てお互いに規定し合う関係になっていることに気付きます。

図2 出典:手のポーズ集

例えば、手とは何かと問われて、右手は「左手の反対」、左手は「右手の反対」と答えているようなものです。

複数の「」なるものの「組み合わせ」により構築しているに過ぎません。それは(4)の数学も同じだということに気付きます。 数学は人の思考の道具ですけれども、言語と同じです。数学で云えば、「自然数の1」は何かと問われても答えることができないのです。

だから岡潔は、「自然数の1は決してわからない」と云ったのです。数学が道具だから、道具で何かをなすとき、道具で道具そのものを直接作り出すことはないです。(たぶん。) ノコギリでノコギリは作れませんし、ノミでノミを作り出すことはできません。

余談になります。セロハンテープは凄いです。くっつくべきところにくっつくけれど、自身の表と裏はくっつきにくいです。最近のヨーグルトの蓋も凄いです。

従来品 TOYAL LOTUS®写真2 出典:4ポット史上初!ヨーグルトが付着しにくいフタ

某有名な物理学者は「素領域」にて理論を構築しているそうです。時間を用いて素領域の物理現象を記述しようとしているのですから、二重の意味で誤りだということになります。 素なる空間と素なる時間を用いて説明しても「自然科学の(循環論法の形式)をとった一分野」に過ぎません。 岡潔にならえば、「素なる空間も素なる時間も決してわからない」と云えます。


ここでやっと最初の疑問に答えることができます。

自然のうちに数学という道具を使って理解を進めても「数」の素もとである「1」は決してわかりません。このことに気付いた岡潔は、自然科学が取りこぼして決して扱えない「人の心」の何たるかを求めなければ、自然を理解できないことに気付いたのでしょう。

だから「緊張と集中」を要する仕事を持つ岡潔は、対極にある「弛緩と関心」の状態へ移行することができたのだと考えます。 岡潔の天才は、超のつく天才です。 実は岡潔の文章を読んでいて、難しい語句が出てこないにもかかわらず難しいと感じます。簡単に読み下せないのです。本当に難しいのは、易しい言葉で核心を示すことだと思います。

今年はまだ2ヶ月余りありますけど、(2)がわかったことが大きいです。 人の思考が言語をして、ピースとパズルの関係にあるということは、自然を科学するとき必然的に循環論法にならざるを得ないのです。 そこから、抜け出て「(物質的自然が)投影による映像」だという思考に行き着くことが必要です。別の次元軸を考えることによって、ピースたる基本粒子(陽子・中性子・電子)のことが理解できると確信します。(2)の理解は社会科学の基礎になると考えます。3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)のことを当サイトではミクサタカラと呼んでいます。

図3 ミクサタカラハ ミナノモノ

これでやっと「M軸上に原因は一切無い」ことに納得できました。仏教でいう縁起です。原因と結果です。物質的自然には、原因となるものがありません。昔の人は偉かった。

9/22追記

言葉は互いに規定し合っています。物質的自然も互いに規定し合っています。ならば物質的自然に原因はありません。

岡潔は数学も互いに規定し合っていることがわかっていたはずです。 素なる数かずである「自然数の1が決してわからない」のは物質的自然に原因がないからと考えたのではないかと思います。何せ「数は量のかげ」ですから。 そうして、岡潔は物質的自然以外の自然に原因を求めたのだと考えます。その対象が人の心でした。  その結果として「大宇宙の本体は情である」に行き着いたように思います。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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