時間 泥棒は成り立つ ミヒャエル・エンデの「モモ」再び

これまでの考察により 時間 という量は存在しないことがわかっています。自然科学における基本物理量として時間は不適切です。その理由は概ね次の通りです。

時間は「五感でわかる運動」から作ります。運動そのものではありません。 時間は時計でわかります。日時計、機械式時計、水晶時計、原子時計などがあります。時計という機械装置の運動から作ります。

写真1 日時計

GIF1 機械式アナログ時計

1) 例えば、A氏は自宅から出張先へ向かいます。

自宅 ------ 出張先

距離の基準であるメートル原器を元にした地図から距離を出したところ550kmだとします。自宅は位置です。出張先も位置です。位置と位置との隔たりが基準となる地図から割り出した距離550kmだとわかります。距離(長さ)は基本物理量です。

2) 時間について  アナログ時計の外周(短針)を直線にあてがいます。

図1

図1の右端、針が直線と接する「3」は位置です。時計という機械装置の運動に伴って、直線を右から左へ動きます。 やがて針が直線と接する「7」の位置へきます。この間に、例えば、(1)のA氏が「自宅~出張先」へ移動するに「17」時間かかったことになります。

位置を数字に置き換えてはいますが「位置どうしを差し引き」しています。これが時間の本質です。 本来、位置と位置は差し引きできません。数字に置き換えれば計算できますが、作った時間というものは、「」を伴っていないのです。 つまり、時間は物理量ではないのです。

数学者岡潔によれば、自然科学者が自然をして「時間・空間」としたと述べています。時間と空間は別だという模型です。しかし、上記の通り時間は、空間にある物体あるいは物質の運動から作るものであって、時間は空間にある物質の性質の一部を切り取ったにすぎないのです。 これをまとめると次図になります。

図2 自然科学は時間を用いることによって循環論法になっている

繰り返しますと、五感でわかる物質の運動から時間を作り、そうやって作った時間を用いてその他の物質にかかる運動を把握しようとしている訳です。そして、それは古典的な範囲においては適切です。別の言い方をすると、「五感でわかる」範囲にかかる運動について時間を用いて記述することは、何も問題はありません。

表1

時間と対象となる物質あるいは物体の運動はいずれも表1に示す赤い括弧の範囲に収まっているからです。 それ故自然科学は近似だと云えます。ここに自然科学の物理時間の摘要限界があります。

しかし、表1の両端に時間を適用できません。何故なら、それらは「五感でわからない」物質あるいは物体の運動だからです。 岡潔は「(工夫して拡大してもよいが)最後は人間に備わった五感でわかるものでなければならない」と述べました。  なぜそう云えるのかの説明が以下です。

3) 時間は時(現在、過去、未来)のうちの「過去」だからです。現在を含みません。

図3

岡潔によれば、「人は時の中に住」み、「時の過去の内の性質(時は過ぎ行く)をとりだして、それを観念化したもの」だと云います。 つまり、時間は「過ぎ行く運動の記憶あるいは経験からくる観念」に過ぎないのです。つまり、人が経験できる「物や事」にしか時間の観念を適用できないのです。言い換えれば、時間は人の五感でわかる「物や事」にしか適用できないのです。だから表1の両端においては、時間は適用できません。

このことに関して岡潔は、「西洋人は五感でわからないものは、ないとしか思えない」と云い、「これを唯物主義と言う」と述べました。 だから、自然科学者は表1の両端を「わけることによりわかる」として疑いを持たず「時間を用いて数学的な計算を続けている」のです。

数学的には計算可能ですけれども、図2を見て気付くように「自然科学は循環論法」ですから「堂々巡り」になっています。相対性理論も同じ循環論法ですから、自然科学は、各分野ごとに循環して閉じており3つの分野に分けられています。 だから各分野につながりはありません。古典物理、素粒子物理、宇宙物理の間に不連続があります。

因みにNHKの定時のニュースの前の時報について、時報は過ぎてからしか知ることはできません時間は過去だからです。

動画1

そして、(管理人もそうでしたが)古典物理学は決定論だと信じてきましたけれども、自然科学は表1全体に対して「決定論」になり得ません。時間は現在を含まないからです。 数学的に予測した未来は、必ずそうなるということはあり得ません。時間は現在を含まないからです。 人の自由意志は、量子力学や古典物理学からの規制は受けません。精度の問題でもありません。

動画2

 

2013年10月15日の記事に『「時は金なりTime is money.」の本当の意味』について記しました。ドイツの児童文学作家であるミヒャエル・エンデは、小説「モモ」を書きました。

モモでは、「時間泥棒」が現れます。 モモのwikiでは、解釈の項において「時間を貨幣と同義とみなし」と説明があります。まったく同意です。2013年の時点では時間のことについてまだよく理解していませんでした。

個人的なこととして、昔ある会計の経理を帳簿式で行っていたときのことです。取り替え資産に分類されるある物の在庫を計算していたときのことです。取り替え資産には、「先入れ先出し法」の経理が必要です。新旧の在庫を計算していて、ある瞬間に「お金が伸び縮み」するのを実感しました。これは不思議な感覚で、今でも覚えています。 知られているようにお金には量の裏付けがありません。 量を伴っていないにもかかわらず、¥、$、€、£、スイスフランなどの「単位」がついているのです。 ですから為替でわかるように、お金は伸び縮みするのです。

残念ながら、時間に関して「伸び縮み」する実感を意識したことはありません。事故の瞬間など時間が間延びして感じられることがあると云います。子どもの頃の1学期は、大人になっての1年間ほどもあったように記憶しています。

いずれにしても、量の裏付けのない数字に過ぎない時間とお金は、量そのものである「物」やそれらの組み合わせである「事」のうちから、実質的な資産を奪い取る仕組みであることは疑いようがありません。 自然科学はその片棒を担いでいます。

2014年5月13日の記事「エリートキツネと闘牛士」を書きました。人は何世代にも渡って「時間とお金」という存在しないモノに拘ってきました。人は記事にあるエリートキツネと同じです。 この飼い主のいない人という生き物は、自らの行く末を「時間とお金」にゆだねて破滅に向かっていることを理解せねばなりません。

この世界は、皆が信じているから成り立っています。お金と時間に対する神頼みです。止められない。止まらない。病むしかない。

そういえば、女優の三田佳子さんの次男が4回目逮捕のニュースがありました。 偶々TVのワイドショーを見ていたところ、夜回り先生で有名な水谷修さんが逮捕の件でコメントしていました。「麻薬や覚醒剤をやっていると行き着く先は3つしかない。病院か刑務所か土の下です。」

大量消費、行き着く先は戦争、戦争は純消費、それは自滅。 シヰの暴走。思いの通りが行かぬなら、自らに火を付ける。火病。 いい加減、異なる道を模索しようとの提案。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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